清史紀事本末戊戌政変(戊戌政變)
光緒帝が「定国是」の詔を発して変法自強を進めるも、康有為登用や冗官裁撤など急進的改革が満洲貴族・后党の反発を招き、光緒二十四年八月に太后・栄禄らのクーデターで頓挫、戊戌六君子が処刑され康有為・梁啓超は亡命した。翌年には太后が溥儁を大阿哥に立て光緒帝の廃立を図るが世論の反対で挫折し、光緒二十六年の異常気象が後の義和団の乱を予兆する形で結ばれる。
年表(8件)
- 光緒二十四年(1898年)夏四月・国是を定める詔光緒帝が定国是の詔を発し変法自強・京師大学堂設立を宣言
- 五月科挙を策論に改め、梁啓超に訳書局を統括させる
- 六月科挙・学校制度を実学重視に改め朝考を停止
- 秋七月冗官裁撤の詔で旧臣層が反発、譚嗣同ら四人を軍機章京に抜擢
- 八月・政変の勃発太后が訓政を宣言しクーデター、戊戌六君子を処刑
- 九月翁同龢を罷免し地方官の監視下に置く
- 光緒二十五年(1899年)太后が溥儁を大阿哥に立て廃立を図るも世論の反対で頓挫
- 光緒二十六年(1900年)義和団の乱の予兆となる異常気象が発生
光緒二十四年(1898年)夏四月・国是を定める詔
- 咸豊・同治以来、清は度重なる外患を受け、洋務派は製造局・方言館・招商局・海外留学などを推進したが、根本の変革には至らず、日清戦争敗北と列強による租借地要求で「瓜分(分割)」論が世界に広がった。翁同龢や楊深秀・徐致靖らの上奏を受け、光緒帝は太后に諮った上で四月二十三日「定国是」の詔を発し、変法自強と京師大学堂設立を宣言した。
- 王公貝勒らの海外遊歴を宗人府に命じるも満洲貴族の猛反発で撤回。
- 康有為を召見。康は「旧衙門を廃さず新衙門を増設し、旧大臣を退けず若手を抜擢すべき」と献策、総理各国事務衙門行走に任じられた。
- 協弁大学士戸部尚書翁同龢が罷免される。同龢は帝の師傅として変法を説き、康有為を推薦したことなどで太后の怒りを買った。
- 二品以上の官の太后への謝恩を命じ、朝廷に帝党・后党の対立が表面化。
五月
- 科挙試験を策論に改める。
- 孫家鼐が大学堂管理を担当。
- 梁啓超に六品銜を与え訳書局を統括させる。
- 御史文悌が楊深秀らの動きを密告し、康有為一派を「保清に非ず」と弾劾するが、逆に帝から譴責される。
- 神機営に洋式訓練を導入。
- 四川総督裕禄を軍機大臣に抜擢(太后の意を受けた人事)。
- 各省に教会保護の徹底を命令。
- 経済特科の人材推薦を命令。
六月
- 科挙・学校制度を実学重視に改革、朝考を停止。
- 各衙門の則例を刪改。
- 保甲制の徹底、鉱物鉄道総局の設置。
- 湖南巡撫陳宝箴の新政を支持し、反対する守旧派紳士を叱責。
- 康有為に上海官報の督弁を命ずる。康は太廟での誓い・制度局設置・二十局による新政・地方自治などを繰り返し上奏していたが、太后の権力に阻まれ実現しなかった。
秋七月
- 農工商総局を設立し、各省に農務学堂・農会の設置を命令。
- 天津での閲兵(皇太后・皇帝)を予定。実際は太后・栄禄が兵力を用いて廃立を図る策略であった。
- 詹事府・通政司・光禄寺・鴻臚寺・太僕寺・大理寺および三省巡撫等の冗官を裁撤する詔が下り、旧臣層が猛反発。
- 礼部尚書懐塔布ら六名を、王照の上奏を妨げたとして罷免。
- 楊鋭・劉光第・林旭・譚嗣同の四人を軍機章京に抜擢し新政を主導させる(軍機大臣は皆后党で実行力なし)。
- 李鴻章・敬信を総理各国事務衙門から外す。
- 新政の詔が矢継ぎ早に下り、道路整備・国防・八旗の自由な生計を認める等、急進的改革に満洲貴族の反発が強まる。
八月・政変の勃発
- 袁世凱を侍郎候補とし練兵を専任させる。光緒帝は懋勤殿設置を図り、譚嗣同を通じ袁世凱に密詔(衣帯詔)を託し救援を求めた。
- 康有為に上海行きを命令(実質的な国外退去)。
- 帝が病と称され太后が再び臨朝聴政。懐塔布・楊崇伊らが天津の栄禄と結び、聶士成軍・董福祥軍を京師周辺に集結させ、太后の訓政を求めるクーデターを実行。初六日、太后の垂簾の詔とともに康有為・梁啓超逮捕命令が下るが、両名は既に脱出。
- 御史宋伯魯を永久追放。
- 太后が帝を瀛台に幽閉。責め立て、珍妃の簪珥を没収し杖刑、太監も粛清。両江総督劉坤一らが密かに廃立に抗議し阻止に寄与。
- 張蔭桓・徐致靖・楊深秀・楊鋭・林旭・譚嗣同・劉光第・康広仁を投獄。
- 帝の病を口実に医者を求める布告(実際は暗殺説を打ち消すため)、諸衙門を復旧し裁減を撤回。上書・報道・改革校を禁止。
- 栄禄を軍機大臣、裕禄を直隸総督に任命し北洋軍を掌握させる。
- 楊深秀・楊鋭・林旭・譚嗣同・劉光第・康広仁のいわゆる「戊戌六君子」を裁判なしで処刑。楊鋭は忠義の詩を残し、劉光第は「正気尽きる」と嘆じ、譚嗣同は逃亡を拒み「各国の変法は流血を経て成る、中国の流血は我より始めよ」と述べ従容として死に就いた。康広仁も獄中泰然としていた。
- 張蔭桓を新疆に流罪、徐致靖を永久禁固、その子徐仁鑄・徐仁鏡も罷免。
- 天津閲兵を中止。
- 李端棻を罷免し新疆送り。
- 王照の逮捕を命じるも既に出国、家族を連座。
- 黄遵憲の日本公使差配を取り消し。
- 張之洞に湖南の新政組織(南学会・保衛局)の撤廃・関連文書焼却を命令(張之洞は変法支持者だったが政変後は太后に迎合)。
- 湖南巡撫陳宝箴とその子陳三立、江標、熊希齢らを罷免・永久不叙用。
- 満漢対立を懸念する上奏に対し太后は「一秉大公」と応答。
- 農工商総局を廃止し、結社・新聞を厳禁、報館弾圧。
- 科挙を旧来の八股文に戻す。
- 栄禄を欽差大臣に任じ北洋諸軍(宋慶・董福祥・聶士成)を統率させる。
九月
- 内閣学士張百熙を罷免するも留任扱い。
- 湖北・広東・雲南巡撫と河道総督を復設。
- 冬十月、康有為の追跡・暗殺を試みるが失敗。
- 前湖南巡撫呉大澂を罷免。
- 翁同龢を罷免し地方官の監視下に置く(甲午戦争の主戦・主和の責任と康有為推薦を理由とする)。虞山の郷里で著述に専念し六年後に没す。
- 十二月、湖北巡撫曾鉌が変法上奏をしたため罷免・永久不叙用。
光緒二十五年(1899年)
- 秋八月、太僕寺卿徐寿朋が朝鮮と通商条約十五款を締結。
- 冬十月、李鴻章を商務大臣として各地の商務視察に派遣(海外華僑の帝擁護運動を鎮撫する狙い)。
- 十一月、李鴻章を両広総督代理とし、康有為党の海外華僑弾圧を推進。梁啓超の祖母が獄死し、康有為の祖墓も破壊された。
- 康有為・梁啓超に懸賞金をかけ捕縛を図る。梁啓超は李鴻章に書簡を送り太后・皇帝双方への忠誠を説く。
- 十二月、端郡王載漪の子溥儁を「大阿哥」とし穆宗の嗣子に立てる。太后は光緒帝廃立を計画し、大学士徐桐は「昏徳公」への降封を提案するが孫家鼐が強く反対。上海紳商経元善ら三千余名が電報で抗議し、廃立計画は頓挫。
光緒二十六年(1900年)
- 春正月、張之洞の税釐上奏に対し太后が厳しく叱責。
- 直隸で堤防決壊。
- 三月、京師・浙江・江蘇・安徽で同日に異常気象(黄色い雲・雷雨)が発生し、後の義和団の乱・巨額賠償の予兆と記される。