清史紀事本末太平天国の興亡(太平天國之興亡)
道光三十年の洪秀全挙兵から同治三年の天京陥落・幼主処刑まで15年に及ぶ太平天国の興亡を描く。金田村挙兵、永安建国、南京占領と天京定都、天京事変による内部崩壊、湘軍・淮軍による反攻、そして洪秀全の病死と天京陥落による滅亡までの経緯。
年表(15件)
- 道光三十年(1850年CE)洪秀全が広西金田村で挙兵
- 咸豐元年(1851年CE)永安州で天王を称し「太平天国」の国号を定める
- 咸豐二年(1852年CE)馮雲山が戦死、長沙攻防を経て岳州を攻略
- 咸豐三年(1853年CE)江寧を攻略し天京と改称、天王として即位
- 咸豐四年(1854年CE)曾国藩の湘軍が湘潭で太平軍を破り反攻に転じる
- 咸豐五年(1855年CE)僧格林沁が北伐軍の林鳳祥・李開芳を撃破
- 咸豐六年(1856年CE)東王楊秀清が北王韋昌輝に殺される天京事変が起こる
- 咸豐七年(1857年CE)張国梁らが瓜州・鎮江を回復
- 咸豐八年(1858年CE)李続賓が三河で敗死し湘軍主力を失う
- 咸豐九年(1859年CE)安徽巡撫李孟羣が廬州で敗死
- 咸豐十年(1860年CE)李秀成らが江南大営を撃破、蘇州一帯を平定
- 咸豐十一年(1861年CE)曾国荃が安慶を回復
- 同治元年(1862年CE)陳玉成が捕らえられ処刑される
- 同治二年(1863年CE)翼王石達開が大渡河畔で出頭し処刑される
- 同治三年(1864年CE)曾国荃が金陵を回復、洪秀全病死、太平天国滅亡
道光三十年(1850年CE)
- 秋八月、洪秀全が広西金田村で挙兵。秀全は広東花県の諸生で、朱九濤の上帝会を馮雲山とともに師事、九濤没後は基督教の教義を独自に発展させ上帝教を興し三点会を率いた。道光十六年に広西へ移り桂平・武宣の山中で布教、雲山や秀全の妹婿蕭朝貴、桂平の楊秀清、桂林の韋昌輝、貴県の石達開が各地で勧教にあたった。十七年に広東へ戻り米国人牧師から洗礼を受け、教主として推戴された。「真言」「宝誥」等の教書を作り、信徒に髪を蓄え山中に潜ませた。水寇羅大綱の投降を機に信徒は急増し、官の追捕を逃れて金田村で挙兵した。貴県の林鳳祥や衡山の洪大全らも合流した。
- 冬十月、広西巡撫鄭祖琛が革職され、前雲貴総督林則徐が督師に起用されるが赴任途中で病死。前両江総督李星沅が代わり、勞崇光が署巡撫となった。
- 十一月、提督張必禄が金田で敗死、周天爵が署広西巡撫となった。
咸豐元年(1851年CE)
- 秋閏八月、洪秀全が永安州に入り天王を称した。李星沅・周天爵の不和や賽尚阿の督師起用の経緯、烏蘭泰・向栄との連携の齟齬などが語られ、太平軍は永安を占拠、国号を「太平天国」と定め、楊秀清・蕭朝貴・馮雲山・韋昌輝を東西南北四王、石達開を翼王、洪大全を天徳王とした。
咸豐二年(1852年CE)
- 夏四月、太平軍が全州を攻略。賽尚阿の永安包囲が四か月に及んだが突破され、洪大全は捕縛、道州の挙人胡孝先が秀全に取り立てられ関中を先取する策を献じたが楊秀清の忌避を受けた。
- 五月、長沙をうかがう中で馮雲山が戦死、秀全は深く悲しみ道州へ転進した。
- 秋七月、桂陽州・郴州を落とし長沙へ迫った。巡撫駱秉章が張亮基に交代し、長沙攻防戦では城内守備が混乱、賽尚阿・程矞采は職を奪われ張広縉らに交代したが、向栄が長沙で太平軍を破り包囲は解かれた。
- 冬十月、太平軍は岳州を攻略、漢陽・武昌を目指した。
咸豐三年(1853年CE)
- 春正月、太平軍は東下し蘄州・黄州を取り、九江・安慶を落とした。もとの内陸攻略策を捨て、長江下流を進む方針に転じた(銭江の策)。
- 二月、江寧(南京)を攻略し天京と改称、天王として即位、六官を設け科挙を行い、暦法・軍制・行政制度を整備した。
- 夏以降、太平軍は北方(河南・山西・直隷)へも兵を進めたが、清軍の抵抗で山西平陽府陥落後も戦局は一進一退。南昌包囲は江忠源の来援で解かれた。
- 冬、廬州が陥落し安徽巡撫江忠源が投水自殺。
咸豐四年(1854年CE)
- 湖広総督呉文鎔が黄州で敗死、漢陽が再び失陥。曾国藩が湘軍水陸軍を率いて湘潭で太平軍を破る(靖港での敗戦から立ち直り、塔齊布の勝利で反攻に転じた経緯)。
- 夏六月、太平軍が再び武昌を攻略、巡撫青麟は逃亡し処罰された。秋七月、曾国藩が岳州を回復、八月には武昌・漢陽・黄州を回復した。
咸豐五年(1855年CE)
- 春三月、上海で英仏の援助を得た吉爾杭阿が劉麗川の乱を鎮圧。
- 三月、太平軍が再び武昌を攻略、巡撫陶恩培が投水自殺。
- 夏四月、僧格林沁が馮官荘で林鳳祥・李開芳の北伐軍を撃破(黄河の水を用いて水没させる作戦)。
- 秋以降、彭玉麟・胡林翼・羅沢南らが湖北各地を転戦し漢口・崇陽・咸寧などを回復、和春らも廬州を回復した。
咸豐六年(1856年CE)
- 春三月、布政使羅沢南が武昌攻めで負傷し、まもなく死去。
- 夏五月、太平軍が孝陵衛の江南大営を撃破、督師向栄が憂憤のうちに自縊死。
- 秋八月、太平天国内部で東王楊秀清が北王韋昌輝に殺され、韋昌輝も天王の命で誅殺、翼王石達開は安慶へ逃れた(天京事変の経緯)。
- 冬十一月、官文・胡林翼らが武昌・漢陽を回復。
咸豐七年(1857年CE)
- 冬十一月、張国梁・徳興阿らが瓜州・鎮江を回復。
咸豐八年(1858年CE)
- 春二月、張国梁が秣陵関を攻略し江寧に迫る。夏四月、李続賓らが九江を回復(守将林啓容以下の抗戦の激しさが語られる)。
- 秋、廬州が再び陥落、曾国荃が吉安を回復、太平軍が揚州を再攻略。冬十月、李続賓が三河で敗死、湘軍の主力を失う大敗(陳玉成・李秀成の連合軍による包囲)。太平の滁州守将李昭受が投降。
咸豐九年(1859年CE)
- 春二月、安徽巡撫李孟羣が廬州で敗死。冬十一月、太平の池州守将韋志俊が投降。
咸豐十年(1860年CE)
- 春二月、太平軍(李秀成)が杭州を攻略、巡撫羅遵殿は自縊死。閏三月、李秀成らが江南大営を撃破、督師和春・張国梁は敗死し江南大営は壊滅。李秀成はその後蘇州一帯を平定、寛政に努めて民心を得た。
- 夏六月、曾国藩に江南軍務督弁が命じられる。秋九月、太平軍が寧国を攻略。安慶は依然として攻防が続いた。
- 冬十一月、太平軍(李世賢)が杭州を再攻略、巡撫王有齢は自縊死。李秀成は寛大な処置で民心を得た。
咸豐十一年(1861年CE)
- 秋八月、曾国荃が安慶を回復(陳玉成の救援失敗、長い包囲戦の末の陥落)。
同治元年(1862年CE)
- 春二月、太平軍が上海を攻めるが撤退。蘇州の生員王畹(官書には黄畹とある)が李秀成に上海攻略策を献じるが、あまりに苛烈な内容のため用いられなかった。
- 三月、鮑超が青陽・石埭・太平・涇県を回復、彭玉麟らが蕪湖を回復、多隆阿が廬州を回復(陳玉成の最期、苗沛霖の裏切りにより捕らえられ処刑された経緯)。
- 五月、太平軍が湖州を攻略。冬十月、曾国荃が金陵包囲中の太平軍の来援を撃退。
同治二年(1863年CE)
- 春正月、左宗棠が金華を回復、多隆阿が興安を回復。三月、李鴻章らが福山・太倉・崑山を回復(常勝軍の設立と淮軍の編成の経緯、ゴードンによる常勝軍指揮)。
- 夏四月、翼王石達開が大渡河畔の老鴉で窮地に陥り自ら出頭、処刑された。
- 秋九月、太平の古隆賢が投降。冬十月、李鴻章らが蘇州を回復(納王郜永寛らの内応による開城、その後の程学啓による約束違反の処刑事件)。
同治三年(1864年CE)
- 春正月、劉蓉が漢中を回復。程学啓が嘉興を回復するも戦傷で死去。浙江では蔣益澧の軍がフランス人将校托格比の助力を得て富陽を回復、杭州に迫り徳清・石門も落とし全浙の郡県が次々に平定された。
- 夏六月、曾国荃が金陵を回復。天王洪秀全が病死、太子福瑱が即位、李秀成が輔政。城陥落の際に秀全の屍が掘り出され首級を焚化、后妃・軍民多数が犠牲となった。李秀成は幼主を逃がした後自らも脱出するが村民に捕らえられ、獄中で数万言の供述を著した末に処刑された(享年四十)。曾国藩らに爵位が授けられた。
- 秋七月、太平の李士貴が杭州で戦死。八月、幼主洪福瑱が江西で捕らえられ処刑され、太平天国は挙兵から十五年で滅亡した。