清史紀事本末同治中興(同治中興)
咸豊十一年の文宗崩御と辛酉政変を経て両宮太后による垂簾聴政が始まり、恭親王奕訢の補佐のもと曾国藩・李鴻章・左宗棠らが太平天国・捻軍等を平定、洋務が緒に就いた「同治中興」と呼ばれる時代の推移。同治十三年の穆宗崩御と光緒帝擁立に至るまでの14年間。
年表(14件)
- 咸豐十一年(1861年CE)文宗崩御、辛酉政変で載垣ら顧命大臣を排し両宮垂簾聴政が始まる
- 同治元年(1862年CE)曾国藩が協弁大学士に、台湾で戴万生の乱起こる
- 同治二年(1863年CE)京師に同文館設立
- 同治三年(1864年CE)金陵克復、曾国藩らに爵位授与
- 同治四年(1865年CE)恭親王奕訢が一時議政停止、僧格林沁が捻軍討伐中に戦死
- 同治五年(1866年CE)左宗棠の奏請で福建に造船廠設置
- 同治六年(1867年CE)曾国藩が大学士に、同文館への洋学導入を巡り論争
- 同治七年(1868年CE)西捻平定、曾国藩が直隷総督に転任
- 同治八年(1869年CE)山東巡撫丁宝楨が太監安得海を捕殺
- 同治九年(1870年CE)両江総督馬新貽が暗殺され曾国藩が後任に
- 同治十年(1871年CE)越南の匪徒鎮圧のため広西提督馮子材が出兵
- 同治十一年(1872年CE)大学士曾国藩死去、席宝田らが貴州苗の乱を平定
- 同治十二年(1873年CE)帝の親政が始まる、円明園再建計画で議論
- 同治十三年(1874年CE)円明園工事停止、帝崩御し光緒帝が即位
咸豐十一年(1861年CE)
- 秋七月、熱河にいた文宗が重体となり、宗人府宗令載垣・右宗正端華・御前大臣景寿・粛順・軍機大臣穆蔭・匡源・杜瀚・焦祐瀛の八名に顧命を授け、皇長子載淳を皇太子に立て、八名を賛襄政務王大臣とした。翌日文宗が崩御し、載淳が即位、明年を祺祥元年とする詔が出た。
- 皇后鈕祜禄氏と生母懿貴妃那拉氏がともに皇太后とされたが、皇后は母后皇太后、貴妃は聖母皇太后と、明の万暦朝の故事にならい区別された。
- 八月、日月合璧・五星聯珠の天文現象が現れ、欽天監はこれを楚地に賢才が出て中興をもたらす兆しと占った。
- 曾国荃らが安慶とその周辺の池州・桐城・宿松などを九年ぶりに回復し、論功行賞が行われた。
- 九月、両宮皇太后に徽号が贈られ、母后・聖母の呼称に不満だった生母那拉后のため、慈安皇太后・慈禧皇太后と改称、以後の奏牘は慈安・慈禧と併称するようになった。
- 帝が文宗の梓宮を奉じて京師へ帰る一方、両宮皇太后は間道を通じ先に宮中へ戻り、慈安は宮東の綏履殿、慈禧は宮西の平安室に住み、これが東太后・西太后の呼称の由来となった。
- 冬十月、恭親王奕訢が議政王として軍機処に加わり、大学士桂良、尚書沈兆霖、侍郎文祥・宝鋆が軍機大臣に、鴻臚少卿曹毓英が軍機大臣上学習行走に任じられた。
- 御史董元淳の垂簾聴政の提案に対し、載垣ら賛襄王大臣は本朝の家法(母后臨朝の禁)を盾に抵抗、恭親王奕訢が太后と密議し誅殺を計画。太后が帰京した後、載垣・端華を捕らえ幽閉、粛順も逮捕された。大学士賈楨・周祖培らの垂簾請願も後押しし、太后は載垣らの罪状を暴いて処断、載垣・端華は自尽、粛順は市中で処刑、景寿・穆蔭・匡源・杜翰・焦祐瀛は革職となった。関係した官員多数も処罰され、垂簾聴政の体制が確立した。
- 帝が太和殿で即位礼を行い、明年を同治元年とすることが定められた(当初予定の祺祥の年号は載垣らの失脚で改められた)。
- 諭により、政務は両宮皇太后が親裁するが、上諭には引き続き「朕」の字を用いることとされた。
- 熱河避暑山荘の工事は停止された。
- 欽差大臣両江総督曾国藩に江蘇・安徽・江西・浙江四省の軍務統轄が命じられた。
- 十一月、帝が両宮皇太后とともに養心殿で垂簾聴政を開始。曾国藩に進剿の全般計画、東三省に兵の訓練が命じられた。
同治元年(1862年CE)
- 春正月、兵部尚書麟魁と両江総督曾国藩がともに協弁大学士とされた。総理各国事務衙門は江蘇等省に外洋の船砲購入資金の調達を求め許可された。
- 三月、左副都御史晏瑞書が広東に赴き韶州に駐紮、全省の釐金督弁と浙江等への軍費供給を命じられた。
- 夏四月、僧格林沁の奏請により山東の畝捐が実施された。
- 五月、台湾で戴万生らが挙兵し彰化を占拠、福建巡撫徐宗幹に討伐が命じられた。長江水師提督が新設され蕪湖に駐紮した。
- 秋、京師で大疫、広東省城とその近辺で暴風被害、九月には教・土・捻・幅の各党蜂起により畿輔で堅壁清野の策が命じられた。
- 大学士翁心存が死去。その子で失守安慶の罪で獄にあった翁同書は釈放された。予告大学士彭蘊章も死去。
同治二年(1863年CE)
- 春二月、京師に同文館が設立された。
- 夏五月、曾国藩・李鴻章の奏請により蘇・松・太三属の過重な賦額が減じられた。
同治三年(1864年CE)
- 春二月、山東巡撫閻敬銘の奏請により畝捐が停止された。
- 夏四月、西安将軍多隆阿の世職に祭葬と忠勇の諡が贈られた。多隆阿は黒龍江馬隊を率いて曾国藩軍に属し楚皖を転戦、三百余陣を経て多くの城砦を落としたが、陝西で回民討伐中に負傷し薨去、陝西各地で祠られた。
- 六月、金陵克復の捷報により曾国藩らに侯伯子男等の爵位が授けられた。八月、洪福瑱を生擒したことにより沈葆楨らに世爵世職が授けられた。
同治四年(1865年CE)
- 春二月、直隷等の雷雹災異により修省の詔が出された。
- 三月、恭親王奕訢が軍機処での議政を停止され一切の役職を解かれた。太監安得海の讒言により奕訢の議政権が奪われたが、諸王・大臣の反発を受け、後にほどなく軍機大臣として復帰、ただし議政名目は付されなかった。
- 五月、江浙で水害、十余万人が溺死。醇郡王奕譞が京師防範を担当、僧格林沁が曹州で戦死し忠の諡と太廟配享が命じられた(追撃中に酒に酔い包囲され全軍覆没)。
- この年、皖南で大飢饉、人肉が高値で取引されるほどの惨状となった。
同治五年(1866年CE)
- 夏四月、大学士文祥が奉天の馬賊を討伐し撤兵。六月、閩浙総督左宗棠の奏請により福建に造船廠が設けられ、丁憂中の沈葆楨が船政事務を統括した。秋、大学士祁寯藻が死去。
同治六年(1867年CE)
- 春二月、帝が両宮皇太后とともに惇親王綿愷邸に行幸。夏五月、曾国藩が大学士、四川総督駱秉章が協弁大学士とされた。
- 旱害により庶獄の清理と直言が求められた。大学士倭仁が同文館事務を命じられたが、洋学導入への反対論が沸騰し、倭仁は落馬を装って辞退した。
- 冬十月、美使蒲安臣らが対外交渉のため各国に派遣された。十二月、東捻平定により李鴻章らが加賞された。協弁大学士四川総督駱秉章が死去。
同治七年(1868年CE)
- 夏六月、西捻平定により李鴻章が協弁大学士に。曾国藩が直隷総督、馬新貽が両江総督に転任。彭玉麟に長江水師の会籌が命じられた。
- 八月、御史徳泰が園庭修理を企図した罪で革職。
同治八年(1869年CE)
- 春二月、席宝田が貴州苗軍を破り鎮遠を回復。
- 八月、山東巡撫丁宝楨が太監安得海を捕殺。安得海は恭親王失脚を機に権勢を得ていたが、帝の内諾を得た宝楨により山東で捕らえられ、朝旨を待たず処刑された。
同治九年(1870年CE)
- 夏六月、彭玉麟が長江水師の整頓を命じられる。秋七月、両江総督馬新貽が暗殺され、曾国藩が両江総督、李鴻章が直隷総督に。冬、席宝田が台拱・都匀を攻略。
同治十年(1871年CE)
- 春正月、越南の匪徒鎮圧のため広西提督馮子材が出兵。浙江で暴風雨害、永定河・草倉河の氾濫が相次いだ。
同治十一年(1872年CE)
- 春正月、大学士両江総督曾国藩が死去、文正の諡を贈られた。挙兵から底定四方に至る功績は中興第一と評された。文章にも優れ、多くの著作を残した。
- 三月、席宝田らが貴州苗の乱を完全平定。夏、皇后にはアルート氏、慧妃には富察氏が立てられた(慈禧太后は慧妃を望んだが、慈安太后の推す后が立てられた)。
同治十二年(1873年CE)
- 春正月、帝の親政が始まった。六月、各国公使が入朝し大婚と親政を祝賀。冬十月、御史沈淮が円明園再建の緩行を求めるも譴責された(圓明園の由来と咸豐年間の焼失、李光昭による再建詐欺計画の経緯が語られる)。左宗棠が肅州回復により協弁大学士に。
同治十三年(1874年CE)
- 秋七月、李光昭が円明園木材調達を偽って利益を貪った罪で革職、円明園工事は停止された。恭親王奕訢が一時降格されたが後に復帰。
- 冬十月、帝が病に伏し李鴻藻が代批を命じられた。皇后アルート氏への冷遇と慈禧太后との確執が語られる。十二月、帝崩御、両宮皇太后の懿旨により醇親王奕譞の子載湉が文宗の嗣子として大統を継承(光緒帝)、皇后は嘉順皇后とされ、穆宗は毅と諡され廟号穆宗、恵陵に葬られた。