清史紀事本末咸豊朝の時政(咸豐時政)
咸豐帝在位期間(1851年〜1861年)の内政・雑事を年代記形式で記す。太平天国・回民蜂起など各地の反乱対応、貨幣制度の混乱(大銭・官票の乱発)、自然災害・怪異の記録、総理衙門の設立、英仏連合軍による北京陥落と熱河への出奔を経て、咸豐帝の崩御までを扱う。
年表(11件)
- 文宗
- 咸豐元年(1851年)甘陝総督琦善が回民討伐の罪で流罪となった
- 咸豐二年(1852年)協辦大学士杜受田が死去し文正の諡を得た
- 咸豐三年(1853年)財政窮乏により大銭・官票宝鈔の発行を進めた
- 咸豐四年(1854年)当百・当五百・当千の大銭鋳造を開始した
- 咸豐五年(1855年)雲南で回民杜文秀が蒙化で挙兵した
- 咸豐六年(1856年)長子載淳(後の同治帝)が誕生した
- 咸豐七年(1857年)回民の攻撃で恆春が自殺し雲貴総督が交代した
- 咸豐八年(1858年)雲南回民が帰順し省城の解厳が報告された
- 咸豐九年(1859年)科挙不正事件で大学士柏葰らが処刑された
- 咸豐十年(1860年)英仏連合軍が迫り帝は熱河に逃れた
- 咸豐十一年(1861年)帝が熱河で崩御し太子載淳が即位した
文宗咸豐元年(1851年)
- 春正月、帝は梁格荘に赴き先帝陵に謁し、八日後に還宮した。
- 江蘇で地震があった。
- 夏五月、甘陝総督琦善が罷免された。黒城の撒拉回子・黄喀窪番子討伐に際し多くの罪なき番族を殺したためで、刑部の審訊を経て吉林への流罪となった。
- 六月、江蘇上海県北門外の民家で地面から血が噴き出す怪異が起こった(赤紫色で地上に出ると凝結)。
- 江南各地で雪が多く見られた。
- 秋閏八月、南河豊北の堤防が決壊した。南河の経費は五六百万両にのぼるが実際の工事に充てられるのは一割にも満たず、大半は官吏の浪費に消えていた。河督の宴席一回で駱駝三四頭・豚五十頭・鵞鳥の掌や猿の脳など贅を尽くし、豆腐一皿にも数百金を費やす有様で、防災への備えは疎かなまま河川の氾濫が続いた。
咸豐二年(1852年)
- 春正月、台湾の民洪紀が反乱を起こし鎮道の葉紹春・徐宗幹が討伐した。
- 帝が梁格荘に謁陵、九日後に還宮した。
- 夏五月、江蘇の州県で地面から白毛が生じる怪異があった。
- 秋七月、協辦大学士杜受田が死去した。かつて宣宗(道光帝)は諸子のうち恭親王奕訢を寵愛し立太子を迷っていたが、狩猟で恭王が最も多くの獲物を得たのに対し咸豐帝(当時の皇子)は「春は万物が育つ時、殺生を避けたい。また弓馬の技で弟と競う気もない」と答え、宣宗はこれを「君主の器」と称賛し立太子を決めたとされる。この言葉は師傅の杜受田の入れ知恵であったため、即位後受田は協揆に昇進、死去に際し帝は慟哭し太師を追贈、文正の諡を与えた。
- 冬十二月、丁未朔に日食、壬戌望に月食があり、通政使羅惇衍の請により冬至の慶賀を停止した。
- 京師で地震。
咸豐三年(1853年)
- 春二月、官票の発行を京師で開始した。
- 三月、江蘇・浙江で大地震が四日間続いた。各省への出資募集の制度を定め、文武郷試の中額・学額の規定を制定した。
- 夏四月、太陽の傍らに黒気が現れた。春以来強風と砂塵で日光が翳っていたが、この月四日の正午、日の傍らに黒気が現れ周囲に暈をなす怪異があった。
- 五月、江蘇上海北門外で再び地面から出血する怪異。銀貨の鋳造を開始。福建の民林俊が反乱を起こし同安・厦門が陥落。福建漳州・延平両府の民林恭らが反乱を起こし永安・沙県が陥落、鎮守の官が殺害されたが後に回復。当五・当十銭を鋳造した。
- 元監生の錢江を処刑した。錢江は帰安の人で阿片戦争時に広州でイギリスに対抗する義勇軍を組織し過激な檄文を発したため新疆に流罪となったが赦免後京師で名士と交際、太平軍が武昌を陥落させると自ら太平軍に投じ天王に十四策を献策(まず江寧を取り軍餉を確保し、次に汴梁を取って挟角、最後に済南を目指す策、および殺戮を戒め民を愛し賢を礼せよとの策)した。秀全はこれを喜び用いたが、東王楊秀清の忌避により錢江は揚州に逃れ、そこで侍郎雷以誠の軍需調達に協力、部照(証明書)の発行や仙女廟の釐金徴収法を提案し多額の軍費を集めた。しかし性格が率直で以誠の過失を面と向かって指摘したため疎まれ、「妄りに国讖を陳べ叛逆に同じ」と処刑された。世人はその死を惜しんだ。
- 六月、豊北の河工が再び決壊。北岸で野兎が群れをなし街を彷徨う怪異が冬まで続いた。
- 秋七月、戸部が鈔法(紙幣制度)の拡大を上奏、地丁雑税等を銅銭と紙幣二十文で銀一両に換算する制度を制定。給事中張祥晋が財政策(罌粟税の増徴、内務府の金器改鋳、京城の店舗賃貸制度の全国拡大)を上奏したが部議で却下された。
- 八月、「天鼓鳴」の怪異(乙酉夜、明月の下で空から轟音)。上海で劉麗川らが蜂起し太平軍と連携、翌年まで続いた後解散した。当五十銭を鋳造開始。
- 冬十月、給事中呉廷溥が花戸等への献金強要停止を求めたが聞き入れられなかった。安徽で殉難した督辦団練侍郎呂賢基に祭葬・世職を賜り尚書を追贈、文節の諡を与えた。呂賢基は時事を論じて政府に忤う言があったが、安徽情勢悪化により首輔祁寯藻の推挙で団練責任者となり、書生ゆえ兵を知らずと固辞しつつ赴任、城陥落に際し殉じた。同様に刑部員外郎邵懿辰も軍機章京として祁寯藻に妬まれ、太平軍北上時に無防備な状態で防河に配され、渡河を許して罪を問われた。蒙古人の漢字学習・漢名使用を禁止する詔が下された(御史毓栄の上奏による)。
- 十一月、閩浙総督王懿徳が厦門回復を報告した。
- 十二月、王懿徳が仙遊県城回復を報告した。私鋳大銭の罪名を定めた(当五・当十・当五十銭や鉛銭・鉄銭の私鋳が横行し厳刑でも止まなかったため)。官票宝鈔を発行した(官票銀一両=銅銭二十文、宝鈔二十文=銀一両として大銭・制銭と併用)。
咸豐四年(1854年)
- 春二月、当百・当五百・当千の大銭を鋳造開始。貴人那拉氏を懿嬪に封じた。
- 三月、鉄製銭・鉄当十銭の鋳造を開始した。
- 冬十一月、江蘇蘇州・松江・太倉各州県で水位が二三尺も突然上昇する怪異。「天鼓鳴」。江蘇で大地震。
咸豐五年(1855年)
- 春正月、江蘇で雷鳴と地震。
- 夏六月、下北庁・蘭陽汛、銅瓦廂の堤防が決壊。
- 秋九月、江蘇で雷鳴と地震。
- 冬十月、江蘇で地震。
- 十二月、雲南の回民杜文秀が蒙化で挙兵、大理府城を襲い提督褚允昌が戦死した。
咸豐六年(1856年)
- 春二月、江蘇・上海等の県で三日間血の雨が降った怪異。
- 三月、長子載淳(後の同治帝)が誕生、懿嬪那拉氏を懿妃に封じた。
- 冬十一月、大学士文慶が死去、文端の諡を贈られた。文慶は咸豐初年の入相以来「天下の大事を治めるには漢人を重用すべき。彼らは民間出身で民の苦しみを知るが、我々は国門を出たこともなく大局に暗い」と説き、満漢の区別なく人材登用すべきと密かに建言していた。曽国藩が郷兵で敵を破った際、首輔祁寯藻が帝の前で曽国藩を貶したが、文慶は常に国藩を庇い「国藩は世の期待を負い賊を討てる、いずれ非常の功を立てるだろう」と主張し、後にその言葉通りとなった。
咸豐七年(1857年)
- 春正月、懿妃那拉氏を懿貴妃に封じた。
- 夏六月、恆春が自殺、呉振棫が雲貴総督となった。回民の軍が省城に迫り防戦の術を失った恆春は妻とともに官署で自縊した。
- 秋八月己酉朔、日食。
- 九月、参贊大臣法福礼が英吉沙爾・喀什噶爾二城の回復を報告した。回民の突入により英喀の回城が陥落し漢城も包囲されていたが、これを回復した。
- 冬十一月、雲南の在籍侍郎黄琮・御史竇垿が罷免された。雲南各属の漢回相互虐殺に際し布告を貼って回民の殺害を煽ったためである。
咸豐八年(1858年)
- 夏五月、呉振棫が雲南回民の帰順と省城の解厳を報告した。
- 秋九月、彗星が西北に出現し三台・文昌宮四輔を掃くように現れ、一月余りで消えた。
- 冬十一月、呉振棫が病により免官、張亮基が雲貴総督となった。呉振棫は回民に制圧されて病を理由に辞職を願い出、後任の張亮基も回民に軟禁され自由に行動できなかった。
咸豐九年(1859年)
- 春二月、罷免された大学士柏葰らが処刑された。前年の科挙不正事件で御史孟伝金が挙人平齢の答案の不一致を指摘、正考官柏葰・副考官朱鳳標・程庭桂が取調べを受けた。帝は柏葰の勤慎を惜しみ寛大にしようとしたが、刑部を統轄する肅順が柏葰への私怨から厳しく法を適用し、柏葰は家人の不正な口利きの罪で程庭桂の子炳采らとともに斬刑、庭桂らは流刑、関係者数十名が処罰された。柏葰はかつて朝鮮への使者を務めた際、朝鮮国王からの五千金の贈与を固辞した清廉な人物であっただけに、世人はその死を悼んだ。
- 秋九月、王慶雲が病免、勞崇光が両広総督となった。前任の総督葉名琛がイギリスに拉致され広州の官署がイギリスに占拠され将軍・総督が仏山鎮に避難し城は無人となっていたが、勞崇光は「陛下の命で赴任するのに入城しないでどこへ行くのか」と単騎で入城、イギリス側も列隊で出迎え、以後撤退し商民も復業した。
咸豐十年(1860年)
- 春三月、三日間血の雨が降った。
- 閏月、黒い虹が現れた。
- 秋七月、熒惑(火星)が南斗に入った。
- 八月、帝が熱河に逃れた。英仏連合軍が大沽砲台を陥落させ天津を占拠、通州から北京に迫ったため、帝は初八日の夜に円明園を出て熱河に逃れた。
- 冬十二月、総理各国通商事務衙門(総理衙門)を設立した。西洋諸国が北京に公使館を置き外交交渉が煩雑化する中、軍機処に準じた総理衙門を新設したが、専門の外交官が不足し人材難が嘆かれた。長蘆塩政を廃止し直隷総督の管理下に移した。
咸豐十一年(1861年)
- 夏五月、彗星が再び西北に現れ数十丈の尾を引き紫微垣・四輔を犯し、一月余りで消えた。
- 六月戊午朔、日食。
- 秋七月、帝は熱河で崩御した。持病があり鹿血を服用して療養していたが、熱河で激しい病状悪化と暑瀉を併発、鹿が急に手に入らぬまま十七日寅刻に避暑山荘の煙波致爽殿で崩御した。太子載淳が即位した。帝は享年三十一、易州龍泉峪に葬られ定陵と号し、諡は顕、廟号は文宗。