清史紀事本末台湾・林爽文の乱(臺灣林爽文之亂)

台湾の天地会指導者林爽文が彰化で反乱を起こし荘大田も呼応、府城を除く各地を席巻したが、柴大紀の嘉義死守と福康安・海蘭察の討伐により3年で平定された。功臣柴大紀は讒言により処刑され、朝廷の賞罰の不公正さも露呈した。乾隆五十一年から五十三年の3年間の乱。

年表(3件)

乾隆五十一年(1786年)

  • 台湾彰化の民、林爽文が反乱を起こし、彰化・諸羅・淡水を陥落させた。鳳山の荘大田もこれに呼応して挙兵し、鳳山を占拠。知府孫景燧・都司王宗武・同知程峻・県令董啓埏・湯大奎ら多数が殺害された。
  • 爽文は彰化の有力一族の出で、天地会という秘密結社を数十年にわたり組織していたが、官はこれを問わずにいた。孫景燧が調査のため兵を派遣したところ、村を焼くと脅したため民衆が激怒し、夜襲で官軍は全滅。翌日爽文は彰化を陥落させ、次いで諸羅も落とした。
  • 爽文は「明主大元帥」を自称。荘大田も鳳山で挙兵し、府城への進撃を図った。

乾隆五十二年(1787年)

  • 林爽文・荘大田は水陸両路から台湾府城を攻撃。総兵柴大紀は鹽埕橋で爽文を撃退し、府城を守った。
  • 朝廷は常青を派遣して台湾鎮圧にあたらせ、李侍堯を閩浙総督に、柴大紀を水師提督代理に、郝壮猷を陸路提督代理に任命した。当初の提督黄仕簡・任承恩が渡海後に日和見をしたため更迭され、大紀・壮猷が抜擢された。
  • 藍元枚が福建陸路提督に改任。大紀・壮猷にも観望の疑いありとして大紀は一時解任、壮猷が代わったが、元枚が台湾事情に詳しいことから陸路提督となった。
  • 常青が将軍として台湾軍務を督し、恒瑞・元枚が参賛に。まもなく元枚が水師提督、大紀が陸路提督代理となった。黄仕簡・任承恩・郝壮猷は逮捕され、壮猷は処刑された。壮猷は鳳山攻略で立ち往生し、鳳山は再び陥落、諸将が戦死していた。
  • 柴大紀が福建陸路提督に補任され台湾鎮総兵を兼務。大紀は諸羅を回復した後も爽文の攻撃を度々撃退し、皇帝に高く評価された。
  • 大紀は参賛に任じられ「壮健巴図魯」の称号と太子少保を賜った。
  • 大学士陝甘総督福康安が将軍に任じられ、欽差大臣として台湾に赴き常青に代わって軍務を督することとなり、内大臣海蘭察が参賛大臣、普爾普・舒亮が領隊大臣として補佐した。
  • 常青・恒瑞は消極的な用兵に終始し、増援を求めるばかりで敵の拡大を招いた。府城北方の要衝・諸羅は大紀の力戦により陥落を免れた。常青は本来和珅の私党で、事態を恐れて逃亡を図ろうとしたが諸将に止められ、密かに和珅へ更迭を懇願していた。皇帝はこの二人を見限り、福康安・海蘭察に代えた。
  • 諸羅県は嘉義県と改称され、柴大紀は一等義勇伯に封じられ世襲を許された。爽文は大軍で幾度も嘉義を攻めたが、大紀はわずかな守備兵で十余万の敵を防ぎ、食料も尽きて落花生や甘藷で飢えをしのいだ。福康安は途中で増援を求めて進軍を渋ったが皇帝はこれを許さなかった。
  • 大紀は「諸羅が落ちれば府城も危うい。城内外の義民四万を見捨てられない、固守して援軍を待つ」と上奏し、皇帝は感涙してこれを厚く賞した。
  • 冬、海蘭察が崙仔嶺・牛稠山で敵を大破し、諸羅の包囲は解かれ、賊は斗六門へ逃走した。福康安は声東撃西の策で崙仔嶺の敵を破り嘉義城に到達した。
  • 海蘭察は斗六門・大理杙を攻略した。爽文は集集埔に逃れ、福康安は追撃を止めて生蕃に爽文を捕らえて差し出すよう諭したが、その間に爽文らは態勢を立て直し険を頼りに死守した。

乾隆五十三年(1788年)

  • 海蘭察は集集埔で林爽文を追い詰め、箐谷でついに捕縛した。
  • 海蘭察は牛荘で荘大田も捕らえ、台湾の乱は平定された。
  • 太子少保・参賛大臣・一等伯の柴大紀が処刑された。大紀は府城防衛・嘉義固守の功で高く評価されていたが、福康安が到着した際、大紀の軍が疲弊していたことや儀礼上の不備を口実に、福康安は大紀が虚偽の報告をしていたと弾劾し、提督蔡攀龍も巻き込まれた。皇帝は当初疑ったが、福康安が大紀に厳しく、姻戚である恒瑞には寛大であることを察しつつも、大紀が功に驕り礼を欠いたためと解し、最終的には福康安の裁定どおり処刑を命じた。恒瑞・常青・黄仕簡・任承恩ら軍令違反者は処罰を免れ、むしろ抜擢された者もあった。