清史紀事本末西南諸国の服属(西南諸國之賓服)
乾隆三十二年に始まる緬甸(ビルマ)との戦役から、明瑞の敗死、傅恆の遠征と講和、乾隆五十三年の安南出兵・冊封、乾隆五十六年の廓爾喀(ネパール)征討に至るまで、西南・南方諸国が清朝へ服属していく過程を扱う。
年表(8件)
- 乾隆三十二年(1767年)明瑞を雲貴総督とし緬甸との軍務にあたらせる
- 乾隆三十三年(1768年)明瑞の軍が小猛育で潰滅し自殺
- 乾隆三十四年(1769年)傅恆が緬甸へ出兵するも交戦なく和議で撤兵
- 乾隆三十五年(1770年)彰保の使者が拘留され交渉不調、南征の議は中止
- 乾隆五十三年(1788年)緬甸使臣入朝、孫士毅が安南出兵し黎維祁を冊封
- 乾隆五十四年(1789年)阮文恵の反撃で孫士毅が大敗、のち阮光平を安南国王に冊封
- 乾隆五十六年(1791年)福康安を廓爾喀(ネパール)征討に派遣
- 乾隆五十七年(1792年)福康安が失地を回復しネパール領へ侵入、講和で班師
乾隆三十二年(1767年)
- 春、明瑞に将軍を兼ねさせ雲貴総督とし、永昌に赴かせ緬甸(ビルマ)との軍務を担わせた。緬甸は古の朱波の地で、宋寧宗の頃に初めて中国史書に現れ、元世祖の親征や明の三宣慰司による羈縻を経たが、万暦二十二年以降朝貢は絶え、康熙年間に明の永暦帝の身柄引き渡し以後は関係が途絶えていた。雍正九年に整邁との抗争があったが朝貢には至らず、乾隆十五年、茂隆銀廠廠長呉尚賢の仲介で外藩を願い出るも当主の代替わりと呉尚賢の投獄で沙汰止みとなった。以後も貴家・木邦の両土司が抵抗を続け、総督吳達善が貴家の首長に対し不当な要求をして殺害するなど、緬甸側の対中国感情を悪化させた。乾隆三十年には緬甸が九龍江方面へ大挙侵入、総督劉藻の防戦も失敗し自刃、翌年楊応琚が奪還に成功したが功を誇り緬甸侵攻を上奏、緬側の反撃で木邦・景線が陥落するなど戦況は悪化した。楊応琚は病と偽って和議を策したが、帝はこれを見抜き明瑞に代えて召還・賜死とした。同じ頃、緬甸は暹羅(シャム)の国都を陥落させ国王を追放するなど勢力を拡大していた。
乾隆三十三年(1768年)
- 春、明瑞の軍が小猛育で潰滅し、大将観音保らが戦死、明瑞も自殺した。明瑞は前年五月永昌に至り、精兵一万七千を先発させ宛頂から木邦へ、参賛額爾景額の九千を虎踞関から猛密へ進めたが、額爾景額は老官屯で敵に包囲され憂憤のうちに死去、後任の額爾登額は進軍を渋った。援軍を得られぬまま敵に急追された明瑞は木邦へ撤退を図ったが、小猛育で木邦守備隊の壊滅と参賛珠魯訥の戦死・道員楊重英の捕縛を知り、進退窮まって自殺、麾下一万余がことごとく潰走、観音保ら十余名の大臣も殉じた。事後、額爾登額は京師で磔刑、提督譚五格も処刑された。
乾隆三十四年(1769年)
- 春、大学士傅恆を雲南へ派遣し軍務を統括させた。当時、暹羅に流寓していた中国人鄭昭が挙兵して暹羅の復讐を果たし、緬甸守備兵を駆逐して新都バンコク(盤谷)を建てていた。緬甸はこの機に中国との和議を望み、乾隆三十三年四月に緬文の講和文書を提出、しかし清朝はこれを許さず、以後招撫策や暹羅との挟撃策も検討されたが実現しなかった。
- 冬、傅恆は緬酋の恭順を報告し和議を裁可した。傅恆は四川・貴州・満洲の兵六万余を率いて滇省を発し、戛鳩で筏を組んで渡河、猛拱・猛養を経て二千余里を進んだが敵に遭遇せず、十月に大金江を渡って蛮暮に至った。この行軍は百七十余日に及びながら一度も交戦せず、経略の名誉は大きく傷ついた。傅恆自身も病を得たが、副将軍阿桂が水戦・老官屯攻めで戦果を挙げ、敵の柵に阻まれつつも講和の糸口をつかんだ。しかし諸将の間で瘴癘による死者が続出したため和議を急ぐ声が高まり、傅恆は緬帥眇旺模に進貢・土司地返還を求めたが交渉半ばで打ち切りとなり、召還された傅恆は帰国後まもなく憂憤のうちに死去した。
乾隆三十五年(1770年)
- 春、雲貴総督彰保が緬甸へ使者を送るも拘留され、以後の交渉も不調に終わった。帝は激怒し再挙を議したが、かつて撤兵を主張していた阿桂が罷免・降格される一方、金川の役が起こったため南征の議は中止となった。
乾隆五十三年(1788年)
- 秋、緬甸使臣が入朝した。乾隆四十一年の金川平定後、阿桂・李侍堯による国境画定と増兵計画があったが、四十四年の緬王懵駁の死による内乱、四十七年の暹羅による緬甸撃破と暹羅王の中国への通貢・冊封を経て緬甸は中国への恭順を強め、捕虜の楊重英らの解放も実現した。楊重英は二十年にわたり緬甸に幽閉され、降伏も緬人の娘婿となることも拒み続けた忠節の士として、帝は蘇武になぞらえて「蘇楊論」を自ら著し顕彰した(帰国目前に病没)。
- 冬十月、両広総督孫士毅に安南(現ベトナム北部)出兵を命じた。安南は明代に一度滅ぼされ、その後黎利による大越国再興、南北朝分裂(黎氏の南朝・莫氏の北朝)、鄭氏・阮氏による広南・大越の分立を経て、康熙五年に黎維禧が安南国王に冊封され朝貢関係が続いていた。乾隆三十八年、広南の阮文岳・文恵・文慮兄弟が広南を三分割して覇権を握り、五十三年には文恵が安南を滅ぼして国王黎維祁が出奔、遺臣阮輝宿が王族二百余人を伴い中国領内に逃れたため、藩屏保護の義務があるとして孫士毅の出兵が決まった。雲南提督烏大経の別働隊八千も宣化鎮に配され、諒山を経て河内を目指した。
- 十一月、孫士毅は安南を回復し黎維祁を安南国王に冊封した。安南国民の歓迎を受けつつ提督許世亨の軍が一月足らずで東京(ハノイ)を奪還した。
乾隆五十四年(1789年)
- 春正月、阮文恵が安南を再襲撃し、孫士毅は鎮南関へ敗走、提督許世亨は戦死した。撤兵の詔が出た後も孫士毅は文恵の偽りの降伏を信じて河内に駐屯し備えを怠っていたところ、元日の祝宴中に阮軍の急襲を受け大混乱に陥った。黎維祁は先に富良江を渡って逃れたが、孫士毅は退却時に浮橋を切断して退路を断ったため、南岸に残った将兵約五千人が溺死する大敗となった。雲南方面の別働隊は黎人黄文通の案内で無事帰還した。孫士毅は自ら罪を上疏し、福康安が後任となった。
- 夏六月、阮光平(阮文恵)を安南国王に封じた。文恵は兄文岳が暹羅と交戦中で中国との対立を避けたく、光平と改名し甥の光顕を関門に遣わして「広南は九代にわたり安南とは敵国関係にあり君臣の名分はない」と主張、帝も黎氏の再興は困難と判断してこれを認め、翌年の万寿節での入朝と許世亨らの祠建立を条件に阮光平を安南国王として冊封した。黎維祁の家族は漢軍旗に編入され佐領に任じられた。
乾隆五十六年(1791年)
- 冬、福康安を将軍、海蘭察・奎林を参賛として廓爾喀(グルカ、ネパール)征討を命じた。西藏南方のヒマラヤ南麓には泥泊爾(ネパール)を中心とする諸部があったが、内訌に乗じ隣接する廓爾喀部が台頭。乾隆五十三年、後藏の班禅一族の遺産争いを機に廓爾喀が後藏へ侵入した際、川督鄂輝・成都将軍成徳の討伐軍を監督した侍郎巴忠が独断で歳幣一万五千金を約束し虚偽の勝利報告をしたため、翌年歳幣が滞ると廓爾喀は再び大挙侵入、駐蔵大臣保泰は救援せず班禅を前藏へ移そうとしダライ・ラマに拒まれた。事が露見すると巴忠は投水自殺、鄂輝・成徳・保泰は罷免され、福康安に急行を命じた。
乾隆五十七年(1792年)
- 春、福康安を大将軍に昇格。夏、福康安は青海から後藏に入り廓爾喀軍を破って失地を回復、さらに三方面からネパール領へ侵入した。成徳・岱森らが聶拉木方面から進み、福康安・海蘭察は擦木・瑪爾轄で交戦し済龍に迫るなど、後藏の失地はすべて回復した。
- 秋、福康安は噶勒拉・堆補木特・帕朗古橋・甲拉古拉・集木集等七百余里を攻略、敵の総力戦にも海蘭察の奮戦で大勝し木城・石卡を次々陥落、雍雅山まで追撃した。敵は和を請うたが許さず進軍を続けた。
- 八月、福康安は熱瑣橋で敗れたが、敵と旧怨のある南境の披楞部に挟撃を命じたことで廓爾喀は再度講和を求め、これを許して盟約の後に班師した。熱瑣橋は国都カトマンズ(可莽多)まで一日程の距離であったが、連戦連勝に驕った福康安が油断して守備を解いた隙を突かれ、護軍統領台斐英阿以下十余名が戦死する敗北を喫していた。
史論(編者曰)
- この一連の戦役では、まず巴忠が国威を辱め、後に福康安も一敗を喫したが、披楞部の介入によりかろうじて事なきを得た。絶域への用兵にあたる者は、この経緯を戒めとすべきであろう。