清史紀事本末博学鴻詞科等の特科(鴻博經學諸特科)

康熙十七年(1678年)の博学弘儒科詔挙から乾隆十六年(1751年)の経学者推薦に至る73年間、明の遺臣を懐柔するために設けられた博学鴻詞科・経学特科の実施経緯を描く。彭孫遹・劉綸ら特科出身者の登用と、文字の獄下で推薦が滞った雍正期の空白を経て、清朝が漢人知識人を取り込んでいった過程を記す。

年表(8件)

康熙十七年(1678年)

  • 春、皇帝は博学弘儒の士を詔挙し、顧問・著作にあてることとした。明の遺臣らを懐柔する意図から、在朝・在外の大臣・督撫・学政に、既仕・未仕を問わず優れた学識の士を推薦させた。

康熙十八年(1679年)

  • 春、推薦された者たちを体仁閣に集めて試験を行った。杜越・応撝謙・魏禧・范鄗鼎・傅山・李顒の六人は応じなかったが、他は多くが喜んで応じた。
  • 試題は「璿璣玉衡賦」「省耕詩」(五言排律二十韻)。彭孫遹・倪燦・張烈ら一等・二等あわせて五十人が合格し、翰林院官として明史編纂にあてられた。
  • 一方で捐納で官を得た者も多く、朝士の間には冷ややかな評もあり、高士奇の「三不如」の説などにより皇帝の熱意も次第に薄れた。唐の李林甫による「野に遺賢なし」との賀に例える批判もあった。

雍正十一年(1733年)

  • 夏、皇帝は在朝・在外の大臣に博学弘詞の推薦を命じたが、近年の文字の獄への警戒から応じる者は乏しく、また前回の挙主(李紱)が文字の獄に連座して以来、推薦を引き受ける者もなく、雍正の代には結局実施されなかった。

雍正十三年(1735年)

  • 冬、大学士・九卿・督撫に博学鴻詞人才の推薦を督促する詔が下った。この年秋、雍正帝が崩じ、即位した乾隆帝が改めて詔を発し、一年以内に候補者を京に集めるよう命じた。

乾隆元年(1736年)

  • 秋、保和殿で博学鴻詞百七十六人を試験し、十五人を採用。劉綸・潘安礼・諸錦・于振・杭世駿を一等として翰林院編修に、陳兆崙・劉玉麟ら二等を検討などに任じた。

乾隆二年(1737年)

  • 秋、続けて到着した候補者を体仁殿で試験し、萬松齢・張漢・朱銓・洪世澤の四人を翰林院・検討・庶吉士などに任じた。

乾隆十四年(1749年)

  • 冬、大学士・九卿・督撫に、進士・挙人・諸生・退休者を問わず経学に精通した人材を選ぶよう命じた。

乾隆十六年(1751年)

  • 夏、経学者として推薦された呉鼎・梁錫璵の著書を翰林・中書に武英殿で書写させて進呈させ、両名を国子監司業に任じた。
  • 秋、経学者として推薦された陳祖範・顧棟高は老齢のため上京できず、国子監司業の職銜のみを与えられた。

史論(按)

  • 順治・康熙期は天下が明を慕う気運が強かったため、聖祖は博学弘儒科と明史館を開いて遺民を朝廷に取り込み、人心を鎮めた。
  • 高宗(乾隆帝)もこれを踏襲して二度の特科を開き、さらに四庫全書館を開いて偽学を提唱させることで、士子を無用の学に向かわせ、民気を静め、廉恥を失わせた面もある。
  • しかし両代の博学鴻詞出身の学者たちの文章活動は、その一代の文物の隆盛に大きく寄与し、漢人の朝廷への帰順の情を醸成する効果もあった。