清史紀事本末文字の獄(文字之獄)

康熙二年(1663年)の莊廷鑨『明史』獄から乾隆四十六年(1781年)の尹嘉銓事件に至る約120年間、清朝で頻発した文字の獄(言論弾圧事件)の経緯を描く。康熙・雍正期の自衛的性格の獄から、乾隆期に些細な語句を口実とした連座の拡大に至る過程を、戴名世『南山集』事件、曾静の獄、徐述夔『一柱楼詩』事件など主要事件を通じて記す。

年表(25件)

康熙二年(1663年)

  • 浙江湖州の莊廷鑨が、亡き大学士朱国楨の未刊の明史草稿を買い取り自分の名で刊行、明末の事績(李成梁の建州衛都指揮使王杲討伐の記述など)を補入したことが問題視された。歸安知県呉之栄の告発で大獄となり、莊廷鑨は死後に戮屍、父胤城・弟廷鉞は斬首。序文を書いた李令晳や関係した子・書き手・刊行者・所蔵者ら七十余人が連座して死罪となった。呉之栄はこの功で復官し、没収財産まで与えられた。

康熙六年(1667年)

  • 江南の沈天甫・呂中・夏麟奇が、忌諱に触れる詩を明の遺臣の作と偽って恐喝に使おうとしたことが発覚し、いずれも処刑された。事件に巻き込まれた者の生死は不明のままとなった。

康熙五十二年(1713年)

  • 翰林院編修戴名世が処刑され、学士方孝標は戮屍とされた。戴名世が南明三代(弘光・隆武・永暦)の史実が正史に記録されないことを憂い著した『孑遺録』、および方孝標の『滇黔紀聞』を引用した『南山集』が問題視された。都御史趙申喬の告発により、戴名世一族は棄市、方孝標は戮屍、関係した編修や連座者三百余人が処罰された。

雍正三年(1725年)

  • 浙江挙人汪景祺が、青海従軍中に著した『西征随筆』の中に聖祖を譏る詩や年羹堯を功臣と称える文があったとして斬首され、家族は流罪となった。

雍正四年(1726年)

  • 侍講銜の錢名世が、年羹堯の功績を称える詩を作ったことを理由に免職され、皇帝自ら「名教罪人」の額を書いて自宅に掲げさせ、朝臣に非難の詩を作らせて各地の学校に配布させた。
  • 冬、浙江での文字の獄が相次いだことから、光禄寺卿王国棟を浙江観風整俗使とし、浙江の郷試・会試を停止させた。

雍正五年(1727年)

  • 太常寺卿鄒汝魯が「河清頌」中の語句を譏訕とみなされ荊州の堤工に流された。
  • 礼部侍郎査嗣庭は、江西での試験題「維民所止」が「雍正」の首を切る意と邪推され、また日記の記述も問題視されて獄死。死後に戮屍とされ、子や親族も処刑・流罪となった。

雍正七年(1729年)

  • 革職主事陸生柟が『通鑑論』の封建・立儲・兵制論を問題視され処刑され、御史謝濟世も大学の注釈が程朱を誹謗したとして軍中の苦役に処された。

雍正八年(1730年)

  • 庶士徐駿が、詩集中の「清風不識字、何得乱翻書」の句を譏訕とみなされ処刑された。

雍正十年(1732年)

  • 曾静が呂留良の著作の影響を受け、川陝総督岳鍾祺に清朝打倒を呼びかける書を送った事件(曾静の獄)に連座し、既に死去していた呂留良とその子葆中は戮屍、次子毅中らは斬首、関係した学者や協力者も広く処罰された。曾静・張熙本人は皇帝の判断で赦免された。

雍正十三年(1735年)

  • 湖南の儒士曾静・張熙が、先に雍正帝が赦免を約束していたにもかかわらず、乾隆帝の代になって処刑された。『大義覚迷録』の講義・頒布も禁止された。

乾隆十八年(1753年)

  • 江蘇巡撫莊有恭が、浙江人丁文彬の著書『文武記』等を放置したことを理由に、養廉銀を十倍加罰された。丁文彬は後に山東で再び別の人物に書を献じ、皇帝の怒りを買った。

乾隆十九年(1754年)

  • 盛京礼部侍郎世臣が、詩の中の懶惰な句や不遜と取れる句を問題視され黒竜江に流された。

乾隆二十年(1755年)

  • 内閣学士胡中蔵が棄市され、広西巡撫鄂昌は賜死、工部侍郎張泰開は革職、故大学士鄂爾泰は賢良祠から除かれた。胡中蔵の詩集の号や試題の語句が皇帝の年号にかけた不敬とみなされ、師弟関係にあった鄂爾泰一族にも累が及んだ。以後、満洲八旗が漢文を学び漢人と交流することが厳禁された。

乾隆二十二年(1757年)

  • 原浙江布政使彭家屏に死を賜い、河南生員段昌緒・司存存・司淑信を処刑。段昌緒が所持していた呉三桂の檄文、彭家屏が所蔵する明末史書や自家の族譜が問題視された。

乾隆二十九年(1764年)

  • 泰州知州頼宏典が、書中の隠語を逆詞とみなされ処刑された。

乾隆三十二年(1767年)

  • 浙江の斉周華が磔刑となった。呂留良に連座して流刑となっていた斉周華が、その著作を再刊したことが発覚し、原任礼部侍郎斉召南も連座して失職した。

乾隆三十三年(1768年)

  • 故謝済世の『梅荘雑著』、故李紱・李任渶・傅占衡の著書の版木が、怨望の語などを理由に焼却された。

乾隆三十四年(1769年)

  • 故銭謙益の『初学集』『有学集』が、清朝や薙髪への痛烈な批判を含むとして版木ごと焼却された。

乾隆三十七年(1772年)

  • 各省に古今の著作の進呈を命じた(禁書調査の始まり)。

乾隆三十九年(1774年)

  • 各省の蔵書の焼却を督促。広東総督李侍堯が、故屈大均の詩文(明の掖庭の秘事や順治朝を詠んだもの、埋葬地に関わる記述など)を摘発し焼却させ、その墓の破壊も命じられた。

乾隆四十年(1775年)

  • 呂留良の孫懿兼・曾孫敷光が黒竜江に流された。『遍行堂集』『皇明実紀』『喜逢春伝奇』などの明末遺民の著作も焼却が命じられ、所蔵者の高秉も流罪となった。

乾隆四十二年(1777年)

  • 江西挙人王錫侯が、『康熙字典』を改編した『字貫』の序文・凡例に歴代皇帝の御名を列挙したとして逮捕・投獄され、巡撫以下の監督責任者も革職となった。

乾隆四十三年(1778年)

  • 山西挙人王爾揚が墓誌に不敬な用字をした件は迂闊な誤用として不問とされた。
  • 東台挙人徐述夔とその子懐祖が、詩集『一柱楼詩』中の語句(「壺兒」=「胡兒」への当て推量など)を反清の意ありとされ戮屍。孫二人は斬首、校対や地方官も連座処罰された。
  • 故礼部尚書沈徳潜も、詠黒牡丹の句を逆詞とみなされ剖棺戮屍となった。
  • 江蘇贛榆県民常玉振の行状文の語句、寶山県職員范起鵠の蔵書『亭林集』も摘発されたが、他の疑わしい詩文事件は実害なしとして不問となった例もあった。

乾隆四十四年(1779年)

  • 福建巡撫黄檢が、祖父廷桂の奏稿に世宗・帝の硃批を無断掲載したとして知府に降格。
  • 直隷の民、智天豹が『大清天定運数』を献じ、乾隆年号を五十七年までしか記さなかったこと等が不敬とされ斬首。

乾隆四十六年(1781年)

  • 在籍大理寺卿尹嘉銓が、父の諡号や孔廟従祀を求めた上奏の狂妄さと、著書中の悖逆の語を理由に絞殺された。

史論(編者曰)

  • 康煕・雍正期の文字の獄は天下平定間もない中での自衛的な性格があったが、乾隆朝に入ると些細な事柄を口実に連座を広げ、告訐が横行した。
  • 御史曹一士がかつて上奏し、井田封建や述懐詠史などの常套的な文章表現を悖逆と結びつけるべきでないと諫めていたことを紹介し、当時の文禁の厳しさと冤獄の多さを指摘する。