清史紀事本末満洲の勃興(満洲初起)

満洲族の源流(粛慎・挹婁・靺鞨・女真)と清室の先世を述べたのち、努爾哈赤が万暦十一年の父祖殺害を機に挙兵し、周辺諸部族を次々に攻略し、九部連合軍を撃破するなどして扈倫四部の大半を服属させるまでの経過を描く。万暦十一年(1583年)から四十三年(1615年)までの33年間。

年表(22件)

満洲族の起源と清室の先世(背景)

  • 満洲族の先祖は古代の粛慎氏(ツングース系)に遡り、虞舜の時代に中国に入貢して以来、周代には稷慎、後漢代には挹婁と呼ばれた。
  • 南北朝時代には勿吉、隋唐時代には靺鞨と呼ばれ、粟末・伯咄・安車骨・仏涅・号室・黒水・白山の七部に分かれた。うち粟末靺鞨が高麗に服属したのち渤海国を建て、黒水靺鞨は高麗に協力して唐太宗を安市で破ったこともあったが、後に唐に服属し都督に任ぜられた。
  • 遼が渤海を滅ぼすと黒水靺鞨は遼に服属し、女真(のち契丹主の諱を避けて女直)と改称。混同江(松花江)東岸・長白山麓に居住し、南岸の遼籍者を「熟女真」、北岸の未服属者を「生女真」と呼んだ。
  • 生女真の始祖哈富は完顔部に入り、その子孫の阿骨打が金を建国(1115年)。金は1234年に宋・蒙古の連合軍に滅ぼされた。
  • 金滅亡後、その遺民は建州・海西・野人の三部に分かれて存続。明初、唐の羈縻州の制にならって諸衛を建て、建州衛内には満洲部五、長白山部三が置かれた。清室の祖はこの満洲部の一つに属する。
  • 「満洲」の名は満洲語「満珠(マンジュ)」に由来し、仏教の文殊菩薩(曼殊師利)にちなむ美称であり、地名ではなく部族名である。姓の愛新覚羅氏は、愛新(満洲語で「金」)に由来し、金朝の完顔氏と同族であることを示す。
  • 金末、布庫里雍順が長白山東南の俄朶里城に定住したのが清室の直接の祖とされる。国が乱れて一族が難に遭い、幼子の犯察のみが逃れて存続。数代を経て孟特穆(追諡肇祖)に至り、永楽十年(1412年)に明に入貢し建州左衛都督に任ぜられた。
  • 孟特穆は智略に富み、仇敵の子孫四十余人を誘い出して半数を討ち半数を服属させ、赫図阿喇(蘇克蘇滸河・嘉哈河の間、後の興京)に定住して建州左衛の基盤を築いた。
  • その子孫は充善―福満(興祖)―覚昌安(景祖)―塔克世(顕祖)と続き、覚昌安の代に近隣の碩色納・加虎二族を討って勢力を広げ、「寧古塔六貝勒」(六人の兄弟がそれぞれ城を構えた体制)と称された。
  • 塔克世の子が努爾哈赤で、武勇騎射に優れ「聡睿貝勒」と呼ばれた。

明神宗万暦十一年(1583年)

  • 建州の固倫城主に通じる尼堪外蘭が寧遠伯李成梁の軍を導いて古勒城を攻めた際、城主阿太章京(覚昌安の孫娘婿)を救おうとした覚昌安・塔克世父子が城内で巻き込まれ殺害された。
  • 努爾哈赤は深く悲しみ明に抗議。明は使者を送って弔い、龍虎将軍に封じ、建州左衛都督の勅書を与えてその職を継がせた。
  • 同年五月、努爾哈赤は挙兵して図倫を攻略。八月には甲版を攻めたが、尼堪外蘭は撫順を経て鵝爾渾に逃れ城を築いて拠った。努爾哈赤は近隣の諸部を次第に平定していった。

万暦十二年(1584年)

  • 満洲は董鄂を攻め、大雪により一時攻撃を中断したが、城兵が撤退したと油断して出てきたところを奇襲し戦果を挙げた。

万暦十三年(1585年)

  • 満洲は哲陳を攻め、五城連合軍を少数の兵で撃破(努爾哈赤は「四人で八百人を破った、天の助けである」と喜んだという)。
  • 蘇克蘇滸河の安土瓜爾佳城を攻略し、城主諾一漠混を討った。

万暦十四年(1586年)

  • 渾河の播一混寨、哲陳の托漠河、鵝爾渾城を相次いで攻略。
  • 尼堪外蘭を捕らえて処刑した。

万暦十五年(1587年)

  • 平岡に三層の城と宮室を築造。
  • 哲陳の山寨、把爾達城、洞城などを攻略し勢力を拡大した。

万暦十六年(1588年)

  • 哈達貝勒の娘を娶り、蘇完部・董鄂部・雅爾古寨など周辺勢力が相次いで帰順。
  • 帰順者を要職に登用し、勢力はさらに拡大。王甲城を攻略し城主を討った。

万暦十七年(1589年)

  • 兆佳城を攻略し、城主を討った。

万暦十九年(1591年)

  • 長白山部の鴨緑江路を平定し疆域を拡大。葉赫貝勒納林布祿が言語の近さを理由に領地割譲を要求したが、努爾哈赤はこれを一喝して拒絶した。

万暦二十一年(1593年)

  • 葉赫が扈倫諸部(哈達・輝発・烏喇)・蒙古諸部(科爾沁・錫伯・卦勒察)・長白山部(朱舎里・訥殷)を糾合した九部連合軍で満洲に侵攻したが、努爾哈赤は寡兵で奇襲を成功させ大勝(斬首四千・馬三千匹捕獲・烏喇貝勒の弟を捕虜とする)。以後軍威が大いに高まった。
  • 朱舎里・訥殷など周辺の部も相次いで平定。

万暦二十三年(1595年)

  • 輝発の多壁城を攻略。

万暦二十六年(1598年)

  • 安褚拉庫路を攻め、屯寨二十余を奪取。

万暦二十七年(1599年)

  • 蒙古文字を基に満洲文字を創製し国内に頒布。金銀鉱・製鉄業も開始。
  • 葉赫と結んだ哈達貝勒孟格布祿の裏切りが露見し、努爾哈赤は自ら哈達を攻めて滅ぼした。

万暦三十二年(1604年)

  • 満洲兵、葉赫を攻め、二城二寨を奪い、捕虜二千余を得た。

万暦三十五年(1607年)

  • 東海の渥集部(烏喇に付属していた諸路)を平定。輝発国を滅ぼした。

万暦三十六年(1608年)

  • 烏喇の宜罕阿麟城を攻略。薊遼総督蹇達と、両国の臣民が互いに国境を守る旨の盟約を結び、辺境に碑を建てた。

万暦三十七年(1609年)

  • 渥集部の滹野路を攻略。

万暦三十八年(1610年)

  • 渥集部の那木都魯・綏分・寧古塔・尼馬察の四路を攻略。

万暦三十九年(1611年)

  • 渥集部の烏爾古辰・木倫二路、扎庫塔城を攻略。

万暦四十年(1612年)

  • 烏喇の侵攻を撃退し、逆に沿岸の諸城を攻略、金州城にも駐軍した。

万暦四十一年(1613年)

  • 烏喇を滅ぼした。扈倫四国のうち三国が滅び、残る葉赫は危機感を強めて明に援軍を要請。努爾哈赤は明に中立を求めたが返答なし。

万暦四十二年(1614年)

  • 明使が入貢を促しに来訪。努爾哈赤は丁重に応対し、歳貢再開を約束した。
  • 渥集の雅攬・西臨二路を攻め、住民を服属させた。

万暦四十三年(1615年)

  • 渥集の顧納喀・庫倫を攻略し、多数の捕虜と住民を服属させた。