荊南割拠の始まり
- 高季興、字貽孫、陝州硤石の人。本名は季昌だったが後唐献祖の廟諱を避けて季興と改めた。若くして汴州の富人李譲の家僮となり、梁太祖が宣武を初めて鎮した際、譲は財を投じて幸を得て養子とされ朱友譲と改名していた。季興は友譲の縁で太祖に見え、太祖はその才を認め友譲の子として遇し、朱姓を冒して制勝軍使に補され毅勇指揮使に遷った。
- 天復二年(902年)梁が鳳翔の李茂貞を攻めた際、茂貞が籠城して出撃せず太祖が撤兵を議した時、季興は独り「天下の豪傑がこの一戦を一年も注視している、岐人は疲弊し破滅は目前、閉門籠城を口実に撤兵すべきでない、誘い出す策がある」と進言。太祖はその言を壮とし勇士を募らせ、季興は騎士馬景に計を授け、景は「この行きに生還はない、後嗣を頼む」と願い出て太祖を感動させたが固く出撃を望み実行、数騎で城門に馳せ「梁兵は東へ去った、先鋒はもう発った」と偽り岐人を誘い出させ、梁兵は景の後を追う敵を挟撃して九千余人を殺した。景は戦死し、後に茂貞と梁が講和した際、昭宗は景に忠壮の諡を贈った。
- 季興はこれにより名を知られ、翌年宋州刺史を拝し青州攻略に従軍、潁州防禦使に転じ高姓に復した。唐末、襄州の趙匡凝が雷彦恭を荊南で破りその弟匡明を留後としたが、梁兵が襄州を攻め破ると匡凝は呉へ、匡明は蜀へ逃れたため、季興は荊南節度観察留後とされ、開平元年(907年)節度使、二年(908年)同中書門下平章事を加えられた。荊南は唐末までに十州を有していたが諸道に侵食され、季興が着任した時は江陵の一城のみで戦火の後は町も荒廃していた。季興は人士を招き集め、倪可福・鮑唐を将帥、梁震・司空薫・王保義らを賓客とした。
唐との駆け引きと南平王封爵
- 太祖の崩後、季興は梁の衰弱を見て自立を図り、城隍を修め楼櫓を設けたが、帰峡への出兵は蜀将王宗寿に敗れ、梁の晋討伐支援を名目に襄州へ侵攻した兵も孔勍に敗れ、以後数年貢賦を絶った。梁末帝は寛容にも季興を渤海王に封じ袞冕剣佩を賜り、貞明三年(917年)ようやく貢を再開した。梁の滅亡後、唐荘宗の入洛に際し季興は慰諭の詔を受け、司空薫らは入朝を勧めたが、梁震は「梁唐は世々の仇敵で二十年黄河を挟んで血戦した、今上は梁を滅ぼしたばかり、大王は梁の旧臣として強兵を擁し重鎮に居る、自ら入朝すれば虜囚となるだけだ」と反対した。季興はこれを聞かず二子を人質に残し騎兵三百を衛として洛陽に朝した。
- 荘宗は季興を留めようとしたが、郭崇韜が「唐は梁を滅ぼし天下を得たばかりで大信を示すべき時、諸侯は子弟や将吏を遣わすのが常なのに季興は自ら述職し諸侯の模範となった、厚く礼遇して他の来朝を促すべきで、逆に留めては天下に度量の狭さを示し四方の内向の意を絶つことになる」と諫めたため荘宗は思いとどまり厚礼で帰した。荘宗が「梁を滅ぼした、呉と蜀のどちらを先に討つべきか」と問うと、季興は「蜀を先に」と答え自ら本道兵での先陣を願い出て荘宗は大いに喜び手でその背を撫でた。季興はこれを誇りとし工人にその手形を衣に刺繍させた。
- しかし季興が去った後、荘宗は後悔し密かに襄州の劉訓に季興を図るよう命じた。季興は襄州に至って胸騒ぎを覚え夜に関を斫って脱出、その後に密詔が届いた。帰国後、季興は梁震に「あなたの言を聞かなければ危うかった」と語り、「今回の入朝には二つの誤りがあった、朝見したこと自体と、放って帰されたことだ」と述べ、さらに荘宗が百戦で河南を得た自負から手ずから『春秋』を写した自慢や「我は手指の上で天下を得た」と誇る様を見て「これほど自らを誇り遊猟に耽り政事を廃するなら、もう懸念は要らない」と評した。同光三年(925年)南平王に封じられた。
- 魏王継岌が蜀を破り蜀の金帛四十余万を峡から下らせていた最中、荘宗の変事(弑逆)が起きると、季興は京師の政変を聞き蜀の物資を悉く邀留し使者韓珙ら十余人を殺した。唐が蜀征討に際し季興に夔・忠・万・帰・峡等州の自力攻略を許し峡路東南面招討使としていたが、季興は実際には出兵しなかった。魏王が蜀を破った後、明宗が即位すると季興は夔・忠等州を属郡とするよう請うたが、唐の大臣は「季興は自ら取ると言いながら出兵せず功もなかった」として拒み、再三の請いにやむなく認めたものの唐はなお自ら刺史を任命し、季興はこれを拒んで受け入れなかった。明宗は襄州の劉訓を招討使として攻めさせたが克てず、唐の別将西方鄴が夔・忠・万三州を克した。季興はついに荊・帰・峡三州を挙げて呉に臣従、呉は季興を秦王に冊立した。天成三年(928年)冬、季興は七十一歳で卒し武信と諡された。季興には子が九人あり、長子の従誨が立った。