新五代史卷六十八 閩世家第八 王延政

要約

延政は審知の子。建州節度使として兄曦の淫虐をしばしば書で諫めたため、曦は監軍杜建崇を送って軍を監視させたが延政はこれを逐い、曦の討伐軍も逆に撃退して、建州をもって国を建て「殷」と号し天徳と改元した。

連重遇・朱文進が曦を弑すると朱文進を推し立て、福州にいた王氏の子弟は老いも若きも皆殺しにされた。しかし泉州の留従效が偽情報で州人に王継勲を迎えさせ、漳州も王継成を刺史に迎えるなど泉州・漳州・汀州が相次いで延政に帰順、重遇も文進を殺してその首を建州に送り自ら帰順した。福州でも将林仁翰が重遇を殺して延政を迎えようとしたが、南唐の李景が閩の乱に乗じて出兵、福州の将李仁達は延政配下の継昌を殺し、僧卓儼明を傀儡皇帝に立てた末にこれを殺して自立し南唐に款を通じた。

南唐軍は建州を攻め落とし延政とその一族を金陵へ遷して鄱陽王に封じた。留従效は延政の降伏を機に王継勲を金陵へ送り、南唐から晋江王に封じられて泉州・漳州を実質確保、後周の世宗の代には商人を装い京師に内属を求めたが受け入れられず南唐に留まった。閩の存続年数は、王潮の泉州入り(光啓二年)を起点とすれば六十一年、審知の福建観察使就任(景福元年)を起点とすれば五十五年である。

年表

王延政は王審知の子。建州節度使として兄曦の淫虐を諫めて不和になり、攻められた末に建州で独立して国号を殷と称した。曦の死後、朱文進・連重遇の簒奪と内紛に乗じて福建の大半を得たが、南唐李景の侵攻により建州を破られ、一族は金陵に遷され国は滅んだ。

年表(3件)
  • 天徳元年建州にて即位し、国号を殷と称して建国する
  • 開運元年留従效らが泉州・漳州で王氏を擁立し延政に帰属させる
  • 保大四年南唐李景の攻撃で建州が陥落し、一族が金陵に遷される

現代語訳全文

建国から滅亡まで

  • 延政は審知の子である。曦が立って淫虐であったので、延政はしばしば書を貽ってこれを諫めた。曦は怒り、杜建崇を遣わしてその軍を監督させたが、延政はこれを逐った。曦はそこで兵を挙げて延政を攻めたが、逆に延政に敗れた。
  • 延政はそこで建州をもって国を建て殷と称し、改元して天徳とした。翌年、連重遇はすでに曦を殺しており、閩の群臣を集めて告げて「昔、太祖武皇帝(審知)は自ら矢石を冒して閩を啓かれ、その子孫に及んでは淫虐で道なきに至った。いま天は王氏を厭い、百姓は能ある者に与するもの。まさに有徳の者を求めてこの地を安んじるべきである」と言った。
  • 群臣は誰もあえて異議を唱えず、そこで朱文進を推し立てて殿に登らせ、百官は北面してこれに臣従した。文進は重遇に六軍諸衛事を判させ、福州にいた王氏の子弟は老いも若きも皆殺された。
  • 黄紹頗に泉州を守らせ、程贇に漳州を守らせ、許文縝に汀州を守らせ、晋の年号を称した。時に開運元年である。泉州の軍将である留従效はその州の人を偽り「富沙王(延政)の兵がすでに福州を取った。わが輩は代々王氏の臣であったのに、どうして手をこまねいて賊に仕えられようか」と告げた。
  • 州人は共に紹頗を殺し、王継勲を迎えて刺史とした。漳州もこれを聞いてまた贇を殺し、王継成を迎えて刺史とした。二人とも王氏の子である。文縝は懼れ、汀州をもって延政に降った。
  • 延政はすでに三州を得ていた。重遇もまた文進を殺し、その首を建州に送って自ら帰順した。福州の裨将である林仁翰はさらに重遇を殺し、延政を迎えて福州の都とすることを謀った。
  • このとき南唐の李景は閩の乱を聞いて兵を発してこれを攻めた。延政はその従子の継昌を遣わして福州を守らせたが、南唐の兵がまさに急攻すると、福州の将である李仁達がその徒に「唐の兵が建州を攻めれば、富沙王は自らを保つこともできないだろう、どうしてこの地を有し続けられようか」と言った。
  • そこで継昌を捕らえて殺し、自立しようとしたが、衆が付き従わないことを懼れ、雪峰寺の僧である卓儼明をもって衆に示し「これはただの人ではない」と言い、袞冕を着せ諸将吏を率いて北面してこれに臣従した。まもなくまた儼明を殺し、みずから立って李景に款を送った。
  • 景は仁達を威武軍節度使とし、その名を弘義と改めさせた。そして景の兵は建州を攻め破り、延政の一族を金陵に遷し、鄱陽王に封じた。この年は景の保大四年である。
  • 留従效は延政が唐に降ったと聞いて、王継勲を捕らえて金陵に送った。李景は泉州を清源軍とし、従效を節度使とした。景がすでに延政を破ると、人を遣わして李仁達を召し入朝させようとしたが、仁達は従わず、ついに呉越に降った。
  • 留従效もまた景の守兵を逐い泉州・漳州の二州を拠有した。景はなおも従效を晋江王に封じた。周の世宗の時、従效は牙将の蔡仲興を遣わして商人と偽り間道を経て京師に至り、邸を置いて内属することを求めた。
  • このとき世宗は李景と江をもって界を画すことに合意していたため、ついに従效を受け入れなかった。従效はなおも南唐に臣従した。その後のことは国史に具さに記されている(晋の開運三年丙午は南唐の保大四年である。この年、李景の兵は建州を破り王氏を滅ぼした。江南録には「保大三年に王氏の族を虜として金陵に遷す」とあるが、これは誤りである。王潮の実際について言えば唐の景福元年に福州に入り観察使を拝しており、後の記録者が「騎馬来騎馬去」の讖に基づいたためであろう、王潮の光啓二年(歳次丙午)に泉州刺史に拝されたことを始年とし、保大四年(歳が再び丙午に当たる)に滅んだので六十一年としたのである。しかし閩国を有していたことをもって言えば景福元年を始めとすべきであり、実際には五十五年である。今、諸家の記録では国の滅んだ年を丙午とするのは正しいが、その始年は讖書に牽引されて誤っている。江南録もまた、その末年についても違っている)。