新五代史卷六十五 南漢世家第五 劉鋹

宦官専政と滅亡

  • 鋹は初め継興といい衛王に封じられていた。晟の卒後長子として立ち大宝と改元。晟の代からの気性の剛忌さと宦官・宮婢(延遇・瓊仙ら)重用の弊が鋹に至って極まり、「群臣は家族を顧みて忠を尽くさない、宦者のみ親任できる」として政を宦者の龔澄樞・陳延寿らに委ねた。群臣の任用も去勢を条件とするに至った。鋹は宮婢波斯女らと後宮で淫戯に耽り朝政を顧みず、延寿が女巫樊胡子を引き入れると、胡子は玉皇降臨を称し内殿の帳幄で宝貝を身に着け冠を戴いて座し、鋹を「太子皇帝」と呼び国事を決した。澄樞らはこれに媚び、胡子は「澄樞らは上天の使いで太子輔佐に来た者、罪に問うてはならぬ」と述べた。
  • 尚書左丞鍾允章はこれを深く嫉み宦官誅殺を数度請うたため宦官らに恨まれた。大宝二年(959年)南郊祭天の三日前、允章が礼官と壇上を見て回る様子を宦者許彦真が「謀反」と讒言し、允章は捕らえられ族滅された(允章は死に際し薛用丕に「二子には後で真相を告げてほしい」と託したが、これも彦真に密告され二子も殺された)。陳延寿は「先帝(晟)が即位できたのは兄弟を尽く殺したから」と鋹に勧め、鋹は弟の桂王旋興を殺した(建隆元年、960年)。
  • 将の邵廷琄は「漢は唐末の乱に乗じ五十年この地を保ったが、驕り無事に慣れ、兵は旗鼓も知らず、今こそ真主(宋)が現れ天下を統一するだろう、兵備を整えるか珍宝を奉じて通好すべし」と諫めたが、鋹は聞かず廷琄を深く恨んだ。大宝四年(961年)芝菌が宮中に生え、野獣が寝門に触れ、苑中の羊が真珠を吐き、井戸の石が自ら立って歩くなど怪異が続き、樊胡子はこれを瑞祥として群臣に賀させた。大宝五年、鋹は宦者李托の養女を貴妃として寵愛し、托は内太師として専政。許彦真は鍾允章を殺した後、龔澄樞らが自分の上に立つのを疎み、逆に澄樞に族誅された。大宝七年、宋の南征軍が郴州を克し、晟の遣わした将暨彦贇と刺史陸光図は戦死、残兵は韶州に退いた。鋹は初めて廷琄の言を思い出し廷琄に洸口で宋軍を防がせたが、宋軍が退くとその備えを恨む讒言により廷琄は無実のまま賜死された(士卒が軍門で無実を訴えたが救えず、洸口に祠を立てて弔った)。
  • 大宝八年、交州で呉昌文が卒し呂処玶と峰州刺史喬知祐が争い交趾は大乱、驩州の丁璉がこれを平定し鋹は璉を交州節度に授けた。大宝九年、南海の民の妻が両頭四臂の子を生んだ。この頃太祖皇帝(宋)が李煜を通じ鋹に称臣を諭したが、鋹は使者龔慎儀を怒って幽閉した。大宝十三年(970年)、宋は潭州防禦使潘美を出師させ、白霞に軍を進める中、鋹は龔澄樞を賀州、郭崇岳を桂州、李托を韶州に配し備えたが、この秋潘美は賀州・韶州・桂州・連州を次々平定した。鋹は「韶・桂・連・賀は本来湖南の地、これ以上南進はすまい」と暢気に喜んだ。
  • 開宝四年(971年)正月、英・雄二州も平定され、鋹の将潘崇徹は先に降伏、瀧頭に軍が至ると鋹は講和・緩師を求めた。二月、宋軍が馬逕を渡ると鋹は右僕射蕭漼に降表を奉じさせたが、漼の出発後に鋹は再び拒戦を命じ、潘美らが進軍すると弟の祥王保興を降伏に遣わしたが受け入れられなかった。龔澄樞・李托らは「北師の目的は国の宝貨だ、府庫を焼けば空城となり撤退するだろう」と謀り府庫・宮殿を悉く焼いた。鋹は海船十余艘に珍宝・嬪御を満載し海に逃れようとしたが、宦官樂範がその舟を盗んで先に逃亡。宋軍が白田に至ると鋹は素衣白馬で降伏し、京師に献俘された。左千牛衛大将軍・恩赦侯に封じられ、その後の事跡は国史に見える(隠の興亡年数は諸書一致し、唐天祐二年隠が広州節度使となってより宋開宝四年の国滅まで六十七年である。『旧五代史』は梁貞明三年の龑僭号を起点とするため五十五年とする)。