新五代史卷六十一 世家第一 徐温

徐温(字は敦美、海州朐山の人。享年六十六)は楊行密に仕え、楊渥の擁立に功があったのち、渥を殺した張顥を除いて呉の実権を掌握した。隆演・溥の二代にわたり大丞相として専政し、呉の建国・改元を主導したが、自らは帝位に即かないまま病没した。李昪(徐知誥)による簒奪の基盤を築いた人物である。

年表(6件)
  • 八年行軍司馬・潤州刺史・鎮海軍節度使・同平章事に遷る
  • 十年招討使李濤を遣わし越を攻めさせるが敗れる
  • 十二年斉国公に封じられ両浙招討使を兼ね、潤州に鎮する
  • 十四年治所を金陵(昇州)に移す
  • 十六年隆演を呉王位に即かせ、大丞相・東海郡王となる
  • 順義十年溥への即位を求めるが実現せぬまま病没する(享年六十六)

専権と後継の争い

  • 徐温は字を敦美といい、海州朐山の人である。若くして塩を売って生計を立て盗を働いたが、行密が合淝で挙兵すると帳下に隷属した。行密と共に事を起こした劉威・陶雅らの徒は「三十六英雄」と号されたが、徐温だけは戦功を挙げたことがなかった。行密が朱延壽らを殺そうとしたとき、温はその客厳可求の謀を用い、行密に目の病を偽らせて事を成し、その功によって右衙指揮使に遷り、初めて謀議に与った。行密が病むと、平生の旧将は皆戦守のため外にあったが、温だけは帳下にいて渥を立てる功に与った。渥を殺した後は張顥と隙を生じ、鍾章に殺させた。鍾章は承諾し壮士三十人を選んで牛を椎いて饗し、血を刺して盟を立てた。温はなお鍾章を疑い果たさぬのではと思い、夜半に人を遣わしその意を探らせ、偽って「温には老母があり事が成らないことを恐れている、ひとまず止めてはどうか」と言わせたが、鍾章は「言葉はすでに口から出た、どうしてやめられようか」と答え、温はようやく安心した。翌日、鍾章は張顥を殺し、温はそれに乗じて紀祥らを尽く殺し、渥を殺した罪を張顥に帰し、その事を渥の母史氏に報告した。史氏は驚いて泣き「我が子はまだ幼く、このような禍乱に遭ったが、百口を保って帰ることができたのは合淝公(徐温)の恵みである」と言った。
  • 隆演が立つと温はついに専政し昇州刺史に遷り、金陵に舟師を治めた。大将の李遇は温が用事するのを怒って驕慢な言葉を口にしたため、温は柴再用に宣州で李遇の一族を滅ぼさせた。行密の旧将はみな自ら疑心を抱いたが、温はそれゆえに偽ってへりくだり、行密の諸将に対するように恭謹に接したので、皆安堵した。八年、温は行軍司馬・潤州刺史・鎮海軍節度使・同平章事に遷った。十年、招討使の李濤を遣わし越を攻めさせ臨安で戦ったが、裨将の曹筠が越に奔り李濤は敗れて捕らえられた。温は密かに人を遣わし曹筠に「私はお前を将として用いたが、お前の軍が求めても私が給せなかったのは私の過ちだ」と語らせ、曹筠の妻子を赦して誅さず厚遇した。秋、越人が毗陵を攻めると温は無錫で戦い、曹筠は温の前の言葉に感じて陣中で寝返り帰順し、越兵はついに敗れた。十二年、温を斉国公に封じ両浙招討使を兼ねさせ、初めて潤州に鎮し、昇・潤・宣・常・池・黄の六州を斉国とした。温は昇州に大都督府を建て、十四年にはそこに治所を移し、その子知訓に隆演を輔佐させ広陵に置いたが、大事はなお温が遠くから決した。知訓が朱瑾に殺されると、温の養子知誥が潤州から先に入りついに政を得た。
  • 温は姦詐で疑い深かったが将吏を用いるのに巧みであった。江西の劉信が䖍州を包囲して久しく克てず、人を遣わし譚全播に説いて降させ、使者を遣わして温に報告すると、温は怒り「劉信は十倍の兵をもって一城を攻め落とせず、説客を用いて降させるとは、これでどうして敵国を威圧できようか」と言い、その使者を笞打って遣わし「私は劉信を笞打つのだ」と言って軍を進めさせ、ついに譚全播を破らせた。ある者が劉信が長く留まったことを誣告し、密かに譚全播を放って劉信が反乱を企てていると言い立てた。劉信はこれを聞いて自ら捷を献じるべく金陵に至って温に見えた。温は劉信と博打をし、劉信は骰子を握って「劉信が呉に背こうとするならこの骰は悪彩となり、二心なければ渾花(最上の目)となるべし」と厳かに祈って投げると、温は急ぎ止めたが、一投げで六つの目はすべて赤であった。温は恥じて自ら杯の酒を劉信に飲ませたが、なお終わりまで疑いを解かなかった。後唐が王衍(前蜀)を伐つと、温は急ぎ劉信を広陵に召して左統軍とし、内備を口実にその兵権を奪った。
  • 温の客で信頼された者に駱知祥・厳可求がいた。厳可求はよく籌画し、駱知祥は財利に長じ、温はかつて軍事は厳可求に、国用は駱知祥に問い、呉人はこれを「厳駱」と称した。温もまた自ら智詐を喜びこれをもって呉人の心を得た。はじめ行密が趙鍠を破ったとき、諸将は皆争って金帛を取ったが、温だけは残った囷(穀倉)を収めて粥を作り飢えた者に食べさせた。十六年、温は隆演に皇帝位に即くことを請うたが許されず、再び呉王位に即くことを請いようやく許され、建国・改元して温は大丞相・都督中外諸軍事・東海郡王に拝された。隆演が卒すると温は順序を越えてその弟溥を立てた。順義十年、温はまた溥に皇帝位に即くことを請うたが、溥がまだ許さぬうちに温は病んで卒した。享年六十六。斉王に追封され諡は忠武。李昪が僭号すると温を義祖と号した。

史論(吳世家総評)

  • ああ、盗賊にも道はあると言うが、まことにその通りである。行密の伝記には、行密は人となり寛仁で信を重んじ、よく士心を得ていたと記される。その将蔡儔が盧州で叛き、行密の墳墓を悉く毀したが、蔡儔が敗れると諸将は皆その墓を毀して報復するよう請うた。行密は嘆いて「蔡儔がこれで悪事を働いたのに、私までそれをまねてよいものか」と言った。かつて従者の張洪に剣を負わせ侍らせていたが、張洪は剣を抜いて行密を撃とうとして中らず自らも死んだ。それでも行密は張洪が親しくしていた陳紹に剣を負わせても疑わなかった。またかつてその将劉信を罵ったところ劉信は憤って孫儒のもとに奔ったが、行密は左右に追わせず「信がどうして私に背く者だろうか、酔って去ったのだ、酔いが醒めれば必ず戻ってくる」と言い、翌日果たして戻ってきた。行密は盗賊の出であるが、その部下は皆驍勇で荒々しい者たちでありながら喜んで用いられたのは、こうした信頼ゆえである。ゆえに二世四主にわたって五十年近く続き、渥以下の代になって政は徐温に移ったが、この間、天下は大いに乱れ中国の禍は簒奪弑逆が相次いだにもかかわらず、徐氏父子はわずかな詐力をもってしても三代の主を廻り、たやすくこれを奪おうとしなかったのはなぜか。それはその恩威がなお人々の心にとどまっていたからではなかろうか。(呉録・運歴図・九国志ではいずれも、行密が唐の景福元年に再び揚州に入ってから後晋の天福二年に李昪に簒奪されるまで実に四十六年としているが、旧唐書・旧五代史ではいずれも大順二年に揚州に入ってから簒奪されるまで四十七年とする。呉録は徐鉉ら、運歴図は龔頴の撰で、二人とも江南の旧臣で実情を得ているはずだが、唐末の喪乱により中朝の文字には食い違いが多い。ゆえに今は徐鉉・龔頴の記すところをもって定める。)