出自と出仕
- 王仁裕、字は徳輦、天水の人。若くして書を知らず、狗馬・弾射を楽しみとしていたが、年二十五にして初めて学に就き、俊秀な人物として文辞で名を知られるようになった。秦帥に辟されて秦州節度判官となった。秦州が蜀に入ると、仁裕はその事により蜀に仕えて中書舍人・翰林學士となった。唐の莊宗が蜀を平定すると仁裕は唐に仕え、再び秦州節度判官となった。
廢帝への仕官
- 王思同が興元を鎮すると從事に辟され、思同が西京留守となると判官とした。廢帝が鳳翔で挙兵し思同が敗れると、廢帝は仁裕を得てその名を聞き殺さず軍中に置いた。廢帝の起事から入立に至るまで、諸鎮への檄文・詔書・誥命は皆仁裕がこれを作った。久しくして都官郎中として翰林學士に充てられたが、晉高祖の入立後は職を罷められ郎中となり、司封・左司郎中・諫議大夫を歴任した。漢高祖の時、再び翰林學士承旨となり、戸部尚書に累遷し、罷めて兵部尚書・太子少保となった。
晩年と文業
- 顯徳三年、卒した。年七十七。太子少師を贈られた。仁裕は音律に明るく、晉高祖が初めて雅樂を定め群臣を永福殿に宴した際、黄鍾の奏楽を聞いて「音が純粛でなく和声がない、必ず争いが起こるだろう」と言うと、まもなく両軍が昇龍門の外で校鬬し、その声が内に聞こえ、人々は仁裕を神のごとくとした。
- 仁裕は詩を作ることを喜び、若い頃かつて自らの腸胃を割いて西江の水で洗い流す夢を見、江中の沙石が皆篆籀の文になっているのを見た夢から、文思がますます進んだという。平生の作は詩万余首に及び、百巻に集めて『西江集』と号した。仁裕と和凝はともに五代の時に文章で名を知られ、また共に貢挙を知る立場にあった。仁裕の門生王溥、和凝の門生范質は皆宰相にまで至り、当時、人を得たと称された。