出自と史学
- 賈緯、鎮州獲鹿の人。若くして進士に挙げられようとしたが及第せず、州から參軍に辟された。唐の天成中、范延光が成徳を鎮すると趙州軍事判官に辟され、石邑令に遷った。緯は史学に長じ、唐は武宗以後実録がなく史官の職も廃れていたので、緯は伝聞を採り次いで『唐年補録』六十五巻を編んだ。唐末は王室が弱く諸侯が強盛で征伐が絶えず、天下多事であったため緯の論次には欠誤も多かったが、喪乱の際の事跡がほぼ残されており、史書に補いとなるところもあった。
- 晉の天福中、太博士となったがこれは緯の望むところではなく、しばしば史職を求めて屯田員外郎・起居郎・史館修撰に改まり、『唐書』の編纂に加わった。母の喪に服し、服除後は知制誥を務め、中書舍人・諫議大夫・給事中に累遷し、再び修撰となった。漢の隠帝の時、詔により王伸・竇儼らと共に晉高祖・出帝・漢高祖の実録を修めた。
實録編纂と失脚
- かつて桑維翰が宰相であった時、常に緯の人柄を悪んで薄遇していた。緯は維翰の伝を書くにあたり「維翰の死に銀八千鋌があった」と記し、翰林学士徐台符はこれを不可としてしばしば緯に非を説いたので、緯はやむを得ずこれを数千鋌に改めた。廣順元年、実録が完成すると、緯は昇進を求めたが得られず、これによって怨望した。この時、宰相王峻が国史を監修していたが、緯の日暦には当時の大臣の過失を記すことが多く、峻はこれを見て怒り「賈給事の子弟の仕宦にも門閥が必要だ。当朝の士を厯詆してその子孫にどう仕進させるのか」と言い、高祖に言上して緯は平盧軍行軍司馬に貶され、翌年、青州で卒した。