新五代史卷五十五 雜傳第四十三 劉岳

礼制整備の功と失

  • 劉岳、字は昭輔、洛陽の人。唐の民部尚書・政会の八代孫、崇亀・崇望はその諸父にあたる。名家の子として好学で文才に優れ弁舌もよく、進士に挙げられ梁に仕え左拾遺侍御史となった。末帝の時に翰林学士となり兵部侍郎に累官、梁が亡ぶと均州司馬に貶されたが後に太子詹事に復用された。
  • 唐の明宗の時、吏部侍郎となった。旧例では吏部が発行する文武官の告身(辞令書)は朱膠紙軸の料金を納めて初めて交付され、位の高い者は賜与され貧しい者は勅牒のみで告身を得られないことがしばしばで、五代の乱の中これが常態化し官の卑い者は告身自体が発行されず、中書は制辞だけを記録し勅甲に編んでいた。岳は「制辞は才能を任じ功行を褒め訓誡を含むものなのに、受官者が告身を得なければ受命の由来を知らない、これは王言による告詔の意に反する」と建言し、一律に告身を賜うこととした。これにより百官が告身を賜う制度は岳に始まった。
  • 宰相の馮道は元来田家の出で容貌も質朴であったため朝士に陋であると笑われることがあり、道が朝に入る際、兵部侍郎の任贊と岳が後ろに従っていた際、道がたびたび振り返るのを贊が岳に問うと、岳は「兔園冊(田舎の俗儒が農夫や牧童に教える書)を忘れたのだろう」と道を揶揄した。道はこれを聞いて激怒し岳を秘書監に左遷した。その後李愚が宰相となると岳は太常卿に遷った。
  • かつて鄭餘慶が唐の士庶の吉凶の書式を集め、当時の家人の礼を交えて「書儀」二巻を編んだことがあり、明宗はそこに起復(喪中の出仕)や冥婚の制があるのを見て「儒者は孝悌を隆んじ風俗を厚くするものだが、金革の事もないのに起復してよいのか、婚礼は吉礼で死者に用いてよいのか」と嘆じ、岳に文学に通じた者を選んで删定させた。岳は太博士の段顒・田敏らと増損したが、その内容は俚俗にわたり当時の家人女子の伝習によるところが多く、しばしば本来の姿を失っていた。それでも礼の遺制は時に残っていたが、後に散逸しさらに本末を究めがたくなった。その婚礼の「女が壻の鞍に座り髪を結い合わせる」という説はことに常道を外れており、公卿の家でも用いられ久しく行われるほどに訛りが増し笑うべきものとなった。岳は官にあって卒した。年五十六、吏部尚書を追贈された。子に温叟がいる。

史論

  • 嗚呼、人は礼を好むあまり誤ることが甚だしい。上にある者が礼の本来の姿を示さなければ、人はその本を見ず、失われた習俗をなお拳拳として行い続ける。五代の干戈の乱の中、礼を顧みる暇もなく久しかったが、君主が草莽の出で文字にも通じなくとも、民に礼を知らしめようとする意志はあった。それなのに岳ら当時の儒者たちは何ら発明することなく、ただ旧書に増損を加えただけであった。しかし後世の士庶の吉凶の礼はみな岳の書を法とし、そのうえで十のうち三、四をさらに失った。嘆かわしいことである。