三司使としての善政
- 幽州文安の人。若くしてやや書を知り吏事に通じ、唐興令から范陽牙校に補された。劉守光が僭号すると審交を兵部尚書とし、守光が敗れ太原に帰ると唐莊宗はこれを従事とした。その後趙徳鈞が范陽に鎮した際、北面転運使馬紹宏は審交を判官に招き、王晏球が王都を討つ際には転運供軍使とし、定州平定後は遼州刺史を拝し、再び北面転運使となり慈州刺史に改められたが、母が老いていたため官を去り、母の喪に哀毀は礼を過ぎ数年復職しなかった。晋高祖の即位後、楊光遠が范延光を魏州で討つ際、審交は再び供軍使となった。この時、晋高祖は戸部・度支・塩鉄を三使に分けていたが、一年余りで三司はますます煩弊し再び一つに合わされ、審交は三司使を拝した。議者が天下の民田を検査すれば租を増やせると請うと、審交は「租には定額があり、天下は近年閑田がない、民の苦楽は等しくない」と言いついに検査を止めさせ、民はこれによって騒がされずに済んだ。右衛上将軍・陳州防禦使に遷り、民田を視察して耕器が粗末であるのを見ると河北の耕器を範として民のために鋳造し直した。安従進の平定後に審交は襄州に徙り、また青州に徙り、いずれも善政を行い、罷めて還った。
- 契丹が京師を犯し蕭翰を留めて去ると、翰は再び審交を三司使とし、まもなく翰は許王従益を召し京師を守らせた。漢高祖が太原で挙兵すると従益は高行周を召しこれに拒ませようとしたが行周は至らず、従益の母王淑妃は群臣と高祖を迎えることを謀った。ある者は京師にいる燕兵はなお数千あり城を守って行周を待つべきだと言ったが、淑妃は従わず議は決しなかった。審交が進み出て「私は燕人です、今燕のために城を守るなら燕のために謀るべきですが、事の勢いはもはやどうにもなりません」と言うと、太妃はこの言葉を是とし従益は諦め、備えを設けず人を西に遣わし高祖を迎えた。高祖が至ると審交は罷められ用いられなかった。隠帝の時、汝州防禦使として能名があり、乾祐三年に卒した。年七十四。州人は柩前に集まって哭し、上疏して近郊に留葬し民が歳時に祠祭できるようにと乞い、詔して特に太尉を贈り祠を建て碑を立てさせた。