明宗の恩人からその晩節まで
- 遼州榆杜の人。唐の明宗が代州刺史であった時、建立を虞候将とした。莊宗がかつて女奴を代州の墓祭りに遣わした際、女奴が代の人々を侵擾したので建立はこれを捕らえ笞したが、莊宗は怒って殺そうとし、明宗が庇護してようやく免れた。明宗が魏から兵を返し京師を犯した際、曹皇后・王淑妃はともに常山にいたが、建立は常山の監軍とその守兵を殺し、明宗の家族はこれにより無事であった。これにより明宗はますます建立を愛した。明宗の即位後、成徳軍節度副使とし、まもなく節度使・検校太尉同中書門下平章事を拝した。
- 建立は安重誨と日頃仲が悪く、定州の王都が異心を抱き書を通じて建立と兄弟の約を結ぼうとしたことを重誨が知って言上したが、明宗は建立を傷つけたくないと考え急ぎ京師に召還した。建立は入見の際にも重誨の過失をしきりに言い立て、明宗は大いに怒り重誨をすぐに罷めさせようとしたが群臣が取り成しようやく止んだ。しかし結局建立を右僕射同中書門下平章事判三司事とした。一年余り経つと、建立は自ら文字を識らないと言って三司の解任を願ったが明宗は許さず、しばらくして病と称すると明宗は「人にはまことに詐病から実病になる者がいるものだ」と笑い、平盧軍節度使として出させ、また上党に徙した。建立は怏怏として志を得ず解職を求め太子少保をもって致仕した。建立はしばしば朝見を請うたが許されず、自ら京師に詣り後楼に闌入して明宗に見え、涙を流して自分は無罪なのに重誨に排斥されたと訴えると、明宗は「お前は節度使として良いことをしなかった、重誨だけがお前を讒言したわけではあるまい」と言い、茶薬を賜って遣った。
- 廃帝の即位後、再び起用され天平軍節度使となり、晋高祖の時に平盧に鎮を移した。天福五年に来朝すると高祖は「三十年前の老兄なら拝礼せずともよい」と労い、肩輿で入朝させ二人の宦者に助けさせて昇殿させ、宴見は甚だ厚遇された。さらに昭義に徙り玉斧・蜀馬を賜い、韓王に累封された。建立は人を殺すことを好んだが、晩節になって仏法に惑い殺生を戒めるようになり、至る所で人々はやや安んじた。卒す。年七十。尚書令を贈られた。子の守恩は蔭により諸衛将軍に累遷し、建立の死後は潞に家を構えた。守恩が京師から告暇で帰った折、契丹が晋を滅ぼし、昭義節度使張従恩は守恩の姻戚であったので、守恩を権廵検使として潞州を守らせ従恩は契丹に入見した。従恩が去った後、守恩は従恩の家財を掠め奪い潞州をもって漢に降った。漢高祖の即位後、守恩を昭義軍節度使とし、静難に鎮を移し西京留守・同中書門下平章事を加えた。守恩は性が貪鄙で人々は大いに苦しんだ。その頃、周太祖が枢密使として白文珂らの軍を率い西の三叛を平定して洛陽を過ぎた際、守恩は使相をもって自ら処し肩輿で出迎えたところ、太祖は怒りその日のうちに頭子(命令書)で文珂に守恩に代わり留守とさせた。守恩はまさに館に詣り客次に坐して謁見を待っていたが、吏が「新しい留守がすでに府で視事しています」と馳せ報じると、守恩は大いに驚き為すすべを知らず罷免され京師で奉朝請となった。後に隠帝が史弘肇らを殺し群臣を召して殿に上らせ慰諭した際、群臣は恐懼して誰もあえて言う者がなかったが、守恩独りは進み出て「陛下はようやく目覚められましたな」と答え、聞く者はみな首を縮めた。顕徳中、左金吾衛上将軍として卒した。
史論
- 道徳仁義は治のためのものであり、法制綱紀もまたこれを維持するためのものである。古来、乱亡の国は必ず先にその法制を壊し、その後に乱がこれに従う。乱と壊とが相乗じてついに綱紀が蕩然として無くなれば必ず大乱の極みに至ってようやく反転する、これが勢いというものであり、五代の時代はまさにこれに当たる。文珂・守恩はいずれも位が将相を兼ねる漢の大臣であったのに、周太祖は一枢密使の頭子でこれを更戍の卒のように易置した。この時、太祖と漢との間にまだ間隙の端はなく、君を無みし上に叛く志はまだ心に萌していなかったはずなのに、このような振る舞いをしたのはなぜか。それは常事として習い慣れていたため、喜怒頤指の間に特に発したのであり、文珂はあえて逆らわず守恩は拒めず、太祖はすでにこれを疑わず処し、漢廷の君臣もまた置いて問わず、上下ともに安然としてこれを怪しまなかったのは、朝廷の法制綱紀が壊乱し相乗じてきたことが遠く、すでに極まってこの有様に至ったからではないか。ゆえに天下のために善く慮る者は微細を忽せにせず常にその萌しを杜ぐのである、戒めずにいられようか。