魏博の分割と晋への帰順
- 河西の人。若くして滑州牙将となり、梁太祖の宣義軍領有に従い征伐の功で累進し平盧軍節度使となった。貞明元年、魏州の楊師厚が没すると、末帝は魏兵の驕慢を恐れ相・澶・衛三州を分けて昭徳軍を建て張筠を節度使とし、魏博貝三州はなお天雄軍として徳倫を節度使とした。劉鄩に兵六万を率いさせ鎮・定を攻めると偽って渡河させ、王彦章の騎兵五百は金波亭に屯し変に備え、魏の牙兵の半分を昭徳に移し租庸使は魏兵の兵籍と府庫を検めさせた。
- 徳倫が牙兵の出発を促すと、親戚と決別する哭声が満ち、効節軍将張彦は「朝廷が我が軍府の強盛を憎み法をもって破壊しようとしている、六州はもとより長く藩府であったのに一旦離れれば生きるより死ぬ方がましだ」と衆に語り、夜に金波亭を襲い彦章を走らせ、翌日牙城を攻め五百余人を殺し徳倫を捕らえ楼上に据えて大掠した。末帝は扈異を遣わし彦を刺史の官で懐柔しようとしたが、彦は「六州を魏に返し劉鄩の兵を退かせよ、さもなくば渡河して掠奪する」と伝え、末帝の使者が三度往来しても応じず、羅紹威の旧吏司空頲に「依違(あいまいな返答)するなら渡河して掠める」と奏文を書かせた。
- 末帝は優詔で答え王鎔死去による鎮州鎮撫を理由に劉鄩の兵を退かせると約したが、彦は楊師厚の招討使の名で徳倫に迫り論難した。末帝が許さず詔書で諭すと、彦は詔書を地に投げつけ「愚かな主に人が鼻づらを取られるとは、ともに事を為せぬ」と言い、徳倫を脅して晋に降らせた。徳倫は恐懼して命に従い、牙将曹延隠に書を持たせ莊宗に奉じさせた。莊宗が魏に入ると徳倫は彦に迫られたことを密かに訴え、莊宗は臨清で彦を斬った後に入城した。
- 徳倫は大同軍節度使に転じ太原に至ったが、監軍張承業に留められ、王檀が太原を攻めた際に徳倫の麾下が多く檀の方へ奔ったため、承業は徳倫の変心を恐れこれを殺した。