新五代史卷四十四 雜傳第三十二 丁會

梁への忠勤と晋への帰順

  • 壽州壽春の人。若くして挽喪の歌(葬送歌)を巧みに歌い、後に盗となり梁太祖とともに黄巣に従った。太祖の宣武鎮で宣武都押衙となり、光啓四年、東都の張全義が河陽を破り李罕之を逐うと、罕之は晋兵を率い河陽を囲んだ。全義の急を受け梁軍を率い葛從周らと九鼎を渡り不意を突いて河陽の囲みを解いた。大順元年には魏を撃ち黎陽・臨河を破り羅弘信を内黄で敗り、徐州の時溥を攻める際は別に宿州を攻め、刺史張筠が拒むと汴水を堰き止め水攻めで降した。兗州の朱瑾が単父を攻めると金郷で大破した。
  • 光化二年、李罕之が晋に叛き潞州をもって梁に降ると、會は河陽から晋の澤州を攻め落とし昭義軍留後となったが、太祖の猜忌を畏れ長年病と称した。天復元年、太祖は再び會を昭義軍節度使に起用し、昭宗が弑されると三軍とともに縞素して哀を発した。梁が燕の滄州を攻め、燕王劉守光が晋に救援を乞うと、晋人が潞州を攻めたため會は晋に降った。晋王は會を太原に帰し甲第を賜い諸将の上位に置いた。莊宗が即位すると都招討使とし、天祐七年、病により太原で卒し、唐は太師を追贈した。