新五代史卷四十 雜傳第二十八 楊崇本

河中の妻をめぐる屈辱と離反

  • 幼くして李茂貞に養われ李繼徽と称した。茂貞の表で靜難軍節度使。梁太祖が岐を攻め落とせず邠州に矛先を転じると崇本は降り、本姓に復して家族を人質として河中に移された。崇本の妻は美貌で、太祖が河中往来のたびに彼女を意のままにしたため、妻は「大丈夫たるもの妻を守れず、私はもはや朱公の婦、刃を持つのみ」と使者を通じて崇本を責めた。崇本は憤激し、梁が岐の囲みを解いて妻が帰ると再び梁を離れ茂貞に戻った。
  • 茂貞と結んで蜀兵とともに雍・華を攻め関西を震撼させたが、梁の劉知俊・康懷英らに大敗し以後東方への進出を失った。乾化4年、子の彦魯に弑され、崇本の養子李保衡が彦魯を殺して梁に降った。