魏博の牙軍粛清
- 字は端已。先祖は長沙の人。祖の讓が北遷して魏州貴郷に住み、父弘信は牧馬監。文德元年、魏州の牙軍が反乱を起こし帥樂彦貞を殺し、趙文建を立てるもすぐ殺害。牙軍が新たな帥を求めた際、弘信が「私が帥になれる」と応じて立てられ、唐昭宗により節度使を拝命。
- 梁太祖が晋を攻める際に糧を求めたが弘信が応じず不和となり、梁が魏を攻めて黎陽等を奪う中、弘信は懼れて和議、その後太祖の疑いを解くため兄事し、梁太祖も厚遇して魏を味方につけた。弘信没後、紹威が立ち学問を好み蔵書数万巻に及んだ。
- 幽州劉仁恭が60万と称し魏を攻めた際、梁の助けで内黄・老鵶隄で燕軍を破った。魏博は田承嗣以来約200年、牙軍が代々婚姻で結束し、先代の帥史憲誠・君雄・樂彦貞らも怒ればすぐに牙軍に殺されてきたため、紹威は牙軍粛清を決意。天祐2年、魏州の地陥没を機に牙校李公佺の乱を誅した後、梁に乞兵。太祖は葬儀に見せかけ長直軍千人を輿夫に紛れさせ紹威の奴兵と合流して牙軍とその家族をことごとく殺した。しかしこれにより魏博の兵は乱れて叛乱、魏境は数か月大混乱に陥り、紹威は勢力を大きく損ない後悔した。
- その後、太祖の滄州攻めの兵站を支え、太廟造営、五鳳楼など洛陽の宮殿用材の献上でも功があり、太祖に高く評価された。劉守光の父仁恭幽閉時には守光に降伏を勧める書簡一本で「用兵十万に勝る」と称された。太祖に唐簒奪を促す進言も行った。
- 病を得て子の周翰に後事を託し、梁で太師・中書令に至り34歳で卒、尚書令を追贈、諡は貞壮。子3人(廷規・周翰・周敬)のうち廷規は太祖の娘、周翰・周敬は末帝の娘をそれぞれ娶った。周翰は楊師厚に逐われ宣義軍節度使に転じ官途にて没、周敬も各地の節度使を歴任し晋天福2年に32歳で卒した。