一字を改めて千人を救う
- 字は德卿。唐の掖廷令張從玫の養子。昭宗の代に范陽軍監軍として節度使劉仁恭と親しく、宦官大誅殺の際は仁恭が大安山北谿に匿った。梁が仁恭を攻めると居翰は晋王に従い梁の潞州を攻めさせその兵を牽制、晋が潞州を取ると昭義監軍となった。荘宗即位後、郭崇韜とともに枢密使。荘宗が梁を滅ぼし宦官が驕り出し崇韜が政を専断する中、居翰は黙々と保身に努めるのみであった。
- 魏王(繼岌)が蜀を破り王衍を京師に護送する途中、明宗の変が起こったため荘宗は使者を走らせ王衍殺害の詔を下したが、その詔書には「衍一行を誅す」とあり、居翰は「降人を殺すのは不祥」と考え、詔書の柱を削って「行」の字を消し「一家」に改めた。これにより、蜀の降人千余人が助命された。
- 荘宗が弑された後、明宗に至徳宮で謁見し田里への帰還を願い出て、天成3年、長安で71歳で卒した。
史論(宦者の禍について)
- 五代は文章も乏しく、喪乱で史官の職も廃れ、伝記・小説の多くが散逸したため事跡は不完全で誤りも交じる。英豪の奮起・戦の勝敗・国家の興廃の際にも、それを語るべき謀臣・弁士の才が文字に残らず、後世に伝わらずに終わったものは多い。しかし張承業の事跡だけは際立って人々の記憶に残り、故老が今なお語り継ぐ。その論議は宦者らしからぬ立派なものである。
- 古来宦者の害は女禍よりも深い。それは彼らが身近に仕えて主君の心を専らにし、忍耐強く小さな善と信で人主の心をつかみ、信頼と親愛を得たのちに禍福で脅して主導権を握るからである。忠臣碩士が朝廷にいても人主は身近な者ほど頼りになると感じ、次第に忠臣は疎まれ人主は孤立し、孤立するほど禍を恐れる心が募り、身近な者の支配力が強まる。禍は帷閥の内に潜み、頼みとした者こそが患いとなる。事が深刻化してから疎遠な忠臣と図ろうとしても、緩めれば禍を養い、急げば人主を人質に取られる。結局、国を亡ぼすか身を滅ぼすかであり、姦雄がこれに乗じて宦者の一族を根絶やしにする、という歴史が繰り返されてきた。女色の惑いは目覚めれば断ち切れるが、宦者の禍は悔い改めても容易には除けない、と言われるのはこのためである。
- 唐昭宗も宦者に近づき東宮に幽閉された。崔胤が梁の兵を借りて宦官誅殺を図ったが、宦者は昭宗を岐に連れ去り3年にわたり包囲された末に唐は滅んだ。昭宗が出奔した際、梁王(太祖)は唐の宦者第五可範ら700余人を誅殺し、地方の宦者も捕らえさせたが、諸鎮に匿われる者も多かった。荘宗が即位すると天下に旧宦者を訪ねさせ、数百人を京師に集めたため、宦者は再び用事するに至り、これが遂には荘宗の滅亡を招いた。これは既に覆った車の轍を自ら踏むに等しく、悲しむべきことである。
- 承業の死後、居翰は枢密使であっても実権を振るわなかったが、宣徽使馬紹宏(姓李を賜る)は信任を受け、誣告や賄賂を行い威福を専らにした。明宗が鎮州から入朝した際、荘宗が疑って紹宏に密偵させたが、紹宏はかえって明宗に通報し、これが明宗の二心の発端となった。郭崇韜が蜀を破った後、荘宗が宦者の言を信じて疑ったこと、崇韜の死を荘宗自身は知らなかったことも、すべて宦者の仕業であった。当時、唐の精鋭は蜀にあり、崇韜が死ななければ明宗の洛陽入りにも西方の憂いがあったはずである。
- 明宗即位後も天下の宦者を捕らえて殺すよう詔し、逃れて僧となった者も含め太原で70余人が捕らえられ都亭駅は血の海となった。明宗晩年、多病の中で王淑妃が内を専らにし宦者孟漢瓊が用事した。秦王が病篤い明宗を見舞った後、哭声を聞いて崩御と誤解し兵を挙げようとしたが、朱弘昭らが議論している間に漢瓊が先に明宗に「秦王謀反」と告げ、誅殺させた。これは明宗の晩年の恨みとなった。後に愍帝が衛州へ奔った際も漢瓊は廃帝を潞州に迎えたが、廃帝はこれを憎んで殺した。
史論(結び)
- 人は安楽に処すると、聖哲でない限り驕り怠りやすい。宦者・女色の禍はどの時代にも起こりうるが、幸いにも五代の多くの君主は在位が短く武人上がりで女色に耽る暇も少なく、宦者が大害をなす機会も限られていた。ただ張承業の議論は立派で、居翰が一字を改めて千人を活かした事跡は評価に値する。君子は人において善があれば取り、悪は戒める。善を取り悪を戒めるのが、愛してその悪を知り憎んでその善を知るということである。ゆえに両者の禍敗の由来を併せてこの篇に記す。