南唐の使者としての最期
- 孫晟は初め名を鳳、また忌といった。密州の人である。学を好み文辞があり、特に詩に長じた。若くして道士となり廬山簡寂宮に居り、常に唐の詩人賈島の像を描いて屋壁に置き朝夕これに事えていたが、簡寂宮の道士は晟を妖として杖でこれを追い出したので、儒服して北の趙・魏に赴き唐の荘宗に鎮州で謁見した。荘宗は晟を著作佐郎とした。天成中、朱守殷が汴州に鎮すると招かれて判官となったが、守殷が反して誅されると、晟は妻子を棄てて陳・宋の間に亡命した。安重誨は晟を憎み守殷に反を教えたのは晟だとみなし、その像を描いて懸賞をかけたが得られず、ついにその家を族滅した。晟は呉に奔った。
- 当時李昪はまさに楊氏を簒おうとしており四方の士を多く招いていたが、晟を得てその文辞を喜び、教令を作らせた、これより名を知られた。晟は人となり吃音で、人に会っても寒暄(挨拶)を言うことができなかったが、まもなく座が定まると談弁が鋒を生じ聴く者は倦むことを忘れた。昪は特にこれを愛し、引いてともに計議することが多く意に合い、右僕射とした。馮延巳とともに昪の相となったが、晟は延巳の人となりを軽んじ、常に「金の椀・玉の杯に狗の糞を盛るようなものだ」と言った。晟は昪父子に事えること二十余年、官は司空に至り、家はますます富み驕った。食事のたびに几案を設けず、多くの妓にそれぞれ一つの器を持たせ環らせて侍らせ、「肉台盤」と号した。当時の人はこれを多く真似た。
使者としての南唐外交と死
- 周世宗が淮を征すると李景(南唐元宗)は恐れ、初め泗州の牙将王知朗を徐州に遣わし書を奉じて和を求めたが、世宗は答えなかった。また翰林学士鍾謨・文理院学士李徳明を遣わし表を奉じ臣と称させたが、答えなかった。そこで礼部尚書王崇質を晟の副として遣わし表を奉じさせた。謨と晟らはみな景が寿・濠・泗・楚・光・海の六州の地を割き年貢百万をもって軍を助けたいと願い出たが、世宗はすでに滁・揚・濠・泗の諸州を取っており、淮南をことごとく取ろうとしてこれを止め、使者を留めて帰さず寿州への攻撃をますます急にした。謨らは世宗が英武で景の敵ではなく、しかも師は甚だ盛んで寿春もまさに危ういと見て、「陛下、臣に五日の猶予をお与えください、臣が還って景の表を取ってまいり江北の諸州をすべて献上させます」と言い、世宗はこれを許した。供奉官安弘道を遣わし徳明・崇質を護送して南に還らせたが、謨と晟はみな留め置かれた。
- 徳明らが還ると景は地を割くことを悔い肯じなかった。世宗もまた暑さと雨のため班師し、李重進・張永徳らを留めて廬・寿を分けて攻めさせたが、周の兵が得た揚・泰の諸州はみな守ることができず、景の兵は再び振るった。重進と永徳の両軍は互いに疑い隙があった。永徳は上書して重進の謀反を訴えたが世宗は聞かなかった。景は二将の相疑うことを知り、蠟丸に書を包んで重進に送りその反することを勧めた。
- 初め晟が使者として赴く際、崇質に「私はこの行で必ず免れないだろう、しかし私はついに永陵の一抔の土に背かない」と語った。永陵とは昪の墓である。崇質が還ると、晟は鍾謨とともに京師に至り都亭駅に館され、待遇は甚だ厚かった。朝会のたびに閤に入り東省の官の後に班し、召見されるたびに必ず醇酒を飲まされた。まもなく周の兵はしばしば敗れ得た諸州をことごとく失った。世宗はこれを憂い、晟を召して江南の事を問うたが、晟は答えなかった。世宗は怒ったが発するところがなかったところへ、重進が景の蠟丸書を上げ、その多くが周の過悪を非難する内容であったので、世宗はこれによって怒り「晟が来た時、私に景は我が神武を畏れ北面して臣と称し二心はないと願っていると言ったのに、どうしてこのような指弾の言葉があるのか」と言い、すぐさま侍衛軍虞候韓通を召して晟を捕らえ獄に下し、その従者二百余人とともにみな殺した。
- 晟は死に臨み、世宗はなお近臣を遣わして問わせたが、晟はついに答えず、神色は怡然とし、衣冠を正して南を望んで拝し「臣はただ死をもって国に報いるのみです」と言い、刑につかれた。晟がすでに死ぬと、鍾謨もまた耀州司馬に貶された。その後世宗は怒りが解けると晟の忠を憐れみその殺害を悔い、鍾謨を召して衛尉少卿を拝させた。景はすでに江北を割いていたので、謨を還らせた。景は晟の死を聞き、これにも魯国公を贈った。