一生
- 夏魯奇は字を邦傑といい、青州の人である。唐の荘宗の時、姓名を賜わり李紹奇と言ったが、その後荘宗は賜姓名の者をみな元に復させたので魯奇に戻った。初め梁に仕えて宣武軍校となり、後に晋に奔り衛護指揮使となった。周徳威に従って劉守光を幽州に攻めた際、守光の将単廷珪・元行欽は驍勇を自負していたが、魯奇はこの二将と戦うたびに勝負がつかず、両軍とも兵を止めてこれを見守った。
- 晋がすでに魏博を落とし梁の将劉鄩が洹水に軍したとき、荘宗が百騎で敵を偵察していて鄩の伏兵に遭い幾重にも囲まれ、危うく脱出できないところであったが、魯奇は力戦して手ずから百余人を殺し、身に二十余の傷を負いながら荘宗とともに囲みを破って脱出した。荘宗はますますこれを奇とし、磁州刺史とした。中都の戦いに従って王彦章を捕らえると、荘宗はこれを壮とし絹千匹を賜って鄭州防禦使を拝し、河陽節度使に遷った。政を為すに恵愛があり、忠武に鎮を移す際、河陽の人々が引き留めて行かせず、父老が京師に詣り留任を乞うたので、明宗は中使を遣わしこれを諭してようやく魯奇は去ることができた。
- 唐の師が荊南を伐つ際、魯奇を招討副使としたが功はなく還った。武信に鎮を移すと、東川の董璋が反して遂州を攻めたので、魯奇は城を閉じてこれを拒んだ。旬月の間、救兵が至らず城中の食が尽きると、魯奇は自ら首をはねて死んだ。年四十九。