新五代史卷二十九 晉臣傳第十七 呉巒

雲州籠城

  • 呉巒は字を寶川といい、鄆州盧県の人である。若くして明経に挙げられたが及第しなかった。清泰中、大同の沙彦珣の節度判官となった。晋の高祖が太原で挙兵し契丹を援けとして招くと、契丹は雲州を過ぎた際、彦珣は城を出て迎謁したため契丹に掠め取られた。城中は巒を推して州事を主らせ、巒はすぐさま門を閉じて拒守した。契丹は兵をもってこれを囲んだ。高祖が即位すると雲州を契丹に与えたが、巒はなお城を守って下らなかった。契丹の包囲は凡そ七か月に及んだが、高祖は巒の行いを義とし、書をもって契丹に告げ兵を解かせた。高祖は巒を召して武寧軍節度副使、諫議大夫、復州防禦使とした。

貝州の陥落

  • 出帝の即位後、契丹との盟を絶つと、河北の諸州はみな警戒した。貝州は水陸の要衝で緩急に転餉できると考え、芻粟数十万を積んだ。王令温を永清軍節度使としたが、令温の牙将邵珂はもとより驕り狠く制しがたく、令温はその職を奪った。珂は閑居して不満を抱き、密かに人を契丹に送り、貝州には積粟が多く守る兵が少ないので攻め取れると告げた。令温は事があって京師に朝したが、心に珂を頗る疑い、その子崇範を人質として自ら従わせた。晋の大臣は巒がかつて雲中を七か月守り契丹が陥落させられなかったことから、巒を駅伝で遣わし令温に代わって貝州を守らせた。巒は士卒をよく撫し、たまたま天が大いに寒いとき、自らの帷幄を裂いて士卒に着せたので、士卒はみなこれを愛慕した。珂はこれによって巒に見え自ら効を尽くしたいと願い出たので、巒は心を推してこれを信じた。
  • 開運元年正月、契丹が南寇し貝州を囲んだ。巒は珂に南門を守らせた。契丹の包囲は三日にわたり四面から急襲した。巒は城上から薪草を投げてその梯・衝をほとんど焼き尽くしたが、まもなく珂は自ら南門から契丹を引き入れた。巒は東門を守っており戦の最中に左右から珂が反したとの報を受け、城中がすでに乱れていることを見て、井戸に身を投げて死んだ。令温の家属は契丹に掠め取られた。出帝はこれを憐れみ、令温を武勝軍節度使とし、その後しばしば方鎮を歴任し、周の顕徳中に没した。令温は瀛州河間の人である。