新五代史卷二十七 唐臣傳第十五 劉延朗
廃帝擁立の首謀
- 劉延朗は宋州虞城の人である。はじめ廃帝(潞王従珂)が鳯翔で挙兵したとき、ともに事に当たった者は五人、節度判官の韓昭胤、掌書記の李専美、牙将の宋審䖍、客将の房暠、そして延朗は孔目官であった。愍帝の即位後、廃帝を北京留守に移す際に制書を下さず、供奉官の趙処愿を遣わして帝の上道を促したので、帝は疑い惑い、昭胤らを召して計議させた。昭胤らはみな帝に反することを勧め、これより事の大小を問わずこの五人が謀った。房暠はまた鬼神・巫祝の説を好んだ。
- 盲人の張濛という者があり、自ら太白山神(神とは魏の崔浩である)に仕えると称し、その吉凶の予言は的中しないことがなかった。暠は日頃からこれを信じ、かつて濛を帝に引見させたところ、帝はその声を聞いて驚き「これはただ者ではない」と言った。暠が濛に神に問わせると、神は「三珠併せて一珠となり、驢馬人を駆る無く没す、歳月甲庚午、中興戊己土」と伝えた(暠はその意味が分からず濛に問うたが、濛は「神の言葉はこの通りで、伝えることはできても解くことはできない」と答えた)。帝は濛を館駅巡官とした。帝が反そうとしたが兵少なく食も乏しかったため大いに恐れ、暠に濛へ問わせると、濛は神の言葉として「王はまさに天下を有すべし、憂うるなかれ」と伝えた。ここに反することを決し、専美に檄文を作らせ、朱弘昭・馮贇が明宗の病に乗じ秦王を殺して愍帝を立てたこと、帝が年少で小人が権を用い骨肉を離間させていることを述べ、朝廷に罪を問おうとした。諸鎮に使者を走らせたがみな応じず、ただ隴州防禦使の相里金がその判官薛文遇を遣わして計事に応じた。帝は文遇を得て大いに喜び、延朗は城中の民財を徴発して軍に給した。王思同が諸鎮の兵を率いて鳯翔を囲むと、廃帝は恐れ、また暠に神へ問わせると、神は「王の兵は少ないが、東の兵が来るのは王を迎えるためである」と答え、まもなく東の兵は果たして叛いて帝に降った。
- 帝は京師に入り、即位の日、明宗の柩前で冊を受けた。冊に「維れ応順元年歳次甲午四月庚午朔」とあり、帝は暠を顧みて「張濛の神言は的中したではないか」と言った。これより暠はいよいよ親信され、専ら巫祝によって用事した。
枢密副使としての専横
- 帝の即位後、昭胤を左諫議大夫・端明殿学士、専美を比部郎中・枢密院直学士、審䖍を皇城使、暠を宣徽北院使、延朗を荘宅使とした。久しくして昭胤・暠を枢密使、延朗を副使、審䖍を侍衛歩軍都指揮使とし、薛文遇も職方郎中・枢密院直学士とした。これより審䖍は兵を率い、専美・文遇は謀議を主り、昭胤・暠・延朗が機密を掌った。
- 初め帝は晋高祖(石敬瑭)とともに明宗に仕えていたが心中互いに悦ばなかった。帝が即位すると高祖はやむを得ず来朝したが内心大いに自ら疑い、鎮に帰ることを求めたいが言い出しにくく、偽って病弱を装い全身に灸を焼いて帝の憐れみを乞い遣わされることを望んだ。延朗らは敬瑭を京師に留め置くべきだと多く言ったが、昭胤・専美は「敬瑭は趙延寿とともに唐の公主を娶っており、独り留めるべきではない」と言い、再び高祖に河東を授けて遣わした。当時契丹がしばしば北辺を侵していたため、高祖を大同・振武・威塞・彰国等軍蕃漢馬歩軍都総管とし忻州に屯させたが、屯兵が突如変事を起こし高祖を擁して万歳を呼んだ。高祖は恐れて三十余人を斬りようやく鎮めたので、帝はいよいよこれを疑った。
- このとき高祖は精兵をことごとく北方に握っており、糧秣の輸送は遠近ともに疲弊した。帝は延朗らと日夜謀議し、専美・文遇は交代で中興殿廬に宿直し、召見・諮問はしばしば夜半に及んでようやく終わった。当時高祖の弟重胤は皇城副使であり、石氏公主の母曹太后が宮中にいたため帝の動静・言語をうかがい高祖に報じることができた。高祖はいよいよ危惧を深め、帝が使者を遣わして労軍するたびに偽って病弱で堪えられぬふりをし、たびたび総管の解任を求めて帝の心をさぐった。
- このとき帝の母魏氏は宣憲皇太后に追封され、墓は太原にあった。有司が寝宮の造営を議すると、高祖は「陵墓が民家の墓と入り混じっており宮を立てるべきではない」と建言した。帝は高祖が民の墓を毀して国のために怨みを買わせようとしていると疑い、これによって怒り、高祖を総管から罷めて鄆州に移そうとした。延朗らは多く不可と言い、司天の趙延義もまた天象が度を失っているので安静にして災いを弭めるべきだと言ったので、この事はついに止んだ。それから一月余り後、文遇一人が宿直していた夜、帝はこれを召して敬瑭のことを語り終えると、文遇は「臣は聞く、道端に家を作れば三年経っても完成しないと。国家の事は陛下が決断されるべきです。かつ敬瑭は移しても反し移さなくても反する、遅速の違いだけです。先んじて事を図るに如くはありません」と言った。帝は大いに喜び「占い師が朕は今年賢佐を一人得て天下を定めると言ったが、卿がそれではないか」と言い、文遇に人事案を手書きさせ、夜半に学士院へ下して制書を起草させた。翌日制を宣すると、文武両班はみな顔色を失った。五、六日経って、敬瑭が反したとの知らせが入った。
廃帝の敗死
- 敬瑭は上書して「帝は明宗の子ではなく、許王従益こそ次に立つべきである」と言った。帝はこれを見て大いに怒り、手ずから引き裂いて投げ捨て、学士の馬胤孫を召して詔の答えを作らせ「悪言をもってこれに当たれ」と命じた。延朗らは帝の親征を請うたが、帝は心に憂懼し常に敬瑭のことを口にするのを嫌い、人を戒めて「誰も石郎のことを言うな、私の肝が地に落ちる」と言い、これによって出征を欲しなかったが、延朗らがたびたび促したのでついに行った。懐州に至り、帝は夜に李崧を召して計策を問うたが、文遇がそれと知らず後から来たので、帝はこれを見て顔色を変えた。崧は帝の足を踏んで文遇を退出させた。帝は「私は文遇を見ると肉が震え、すぐさま刀を抜いて刺したくなった」と言った。崧は「文遇は小人で大事を誤らせただけです、これを刺せばますます醜いことになります」と言い、事は止んだ。
- このとき契丹はすでに敬瑭を天子に立て、兵を率いて南下していた。帝は惶惑してどこへ向かうべきか分からず、審䖍に千騎を率いて白司馬坂へ戦地を踏査させると、審䖍は「どこの地も戦えないわけではないが、たとえその地があっても誰がここに立とうとするか。帰るに如かず」と言った。帝はついに帰り、自ら焼身した。高祖が京師に入ると、延朗ら六人はみな除名されて庶人とされた。
- 初め延朗は暠とともに機密を掌ったが、延朗が専ら事を任せ、諸将が州を得るのに功の順によらず、賄賂を多く納めた者が良い州を得て、少ないか無い者は悪い州を得、あるいは久しくして得られない者もあった。これによって人々はみな怨んだが、暠は心に憂えても争うことができず、ただ日々満腹して高枕に過ごすばかりで、延朗が事を議するたびに頭を垂れて眠ったふりをし関知しなかった。晋の兵が入るに及び、延朗は一騎で南山へ逃げたが、自邸を過ぎる際指さして「私はここに銭三十万を蓄えていたのに、誰の手に渡ったか分からぬ」と嘆き、ついに追手に殺された。晋高祖は暠が常に延朗の専横に与しなかったと聞き、これを哀れんで後に再び将としたが、一年余りで没した。専美は晋に仕えて大理卿となり、開運中に没した。晋がまさに興ろうとしたとき、廃帝は昭胤を中書侍郎・同中書門下平章事とし、出して河陽節度使としたが、審䖍・文遇とともにその最期は伝わっていない。
史論
嗚呼、禍福成敗の理は戒めずにいられようか。張濛の神託は的中したが、それが災いの端緒でなかったとどうして知れよう。私が記すところは大抵このようなものであり、読む者は深く思いをめぐらすべきである。廃帝が事を図った相手はこの五、六人に過ぎない。逆順の理を考えれば、智者がこれを謀ったとしても必ずしも敗れずに済むとは限らないのに、まして此の五、六人のような者たちにおいてをや。ゆえに併せて述べ、延朗にこれを附し、その始終の際を示す。