新五代史卷二十六 唐臣傳第十四 烏震

生涯と史論

  • 烏震、冀州信都の人。若くして趙王王鎔に軍卒として仕え、次第に功により裨校に遷り符習の軍に属した。習が河上で荘宗に従っていた頃、王鎔は張文礼に弑され、震は習に従って文礼を討伐したが家は趙にあった。文礼は震の母・妻および子十余人を捕らえて震を招こうとしたが、震は顧みなかった。文礼はそこでその手足と鼻をことごとく断ち切ったが殺しはせず、放って習の軍まで至らせると、軍中は皆正視するに忍びなかった。震は一たび慟哭してすぐに止め、憤激して自ら励み、常に士卒に先んじた。晋軍が鎮州を破ると、震は功により刺史を拝し、深・趙二州を歴任した。震は人となり純質で若くして学を好み左氏春秋に通じ、詩を作るのを喜び書に善かった。刺史となってからは廉潔・公平な政をもって聞こえ、冀州刺史・北面水陸転運使を兼ねるに遷った。明宗はその名声を聞き、河北道副招討使・寧国軍節度使に抜擢し、房知温に代えて渤台軍に戍させた。着任したばかりのところ、戍兵の龍晊らが乱を起こし殺された。太師を追贈された。

史論

  • 著者は述べる。忠と孝はその義において両立できるものであり、著者はすでにこのことを述べた。烏震のような者は忠と言えるだろうか。震の思慮の足りなさはひどいものである。そもそも人の禄を食み人の事を任される場合、その事に専らの責任があり国の利害がその為すか為さぬかによる時は、たとえその為すことが国に利があっても自分の親に害があるなら、なおその禄を辞して去るべきである。まして誰にでもできる事で専らの責任もなく、為すと為さぬとが国の利害に関わらない場合であれば、このようであってなお自分の親を顧みないのは、たとえ利を求めないとしても不孝と言われよう、まして利を得るとなればなおさらである。親に孝をもって仕えることができてこそ主君に忠をもって仕えられるものだが、烏震のような者は大いに不孝と言うべきである、どうして忠があるといえようか。