生涯
- 史建瑭、鴈門の人。晋王が鴈門節度使であった頃、父の敬思は九府都督となり晋王に従って関に入り黄巣を破って京師を復し、秦宗権を陳州に撃ち、常に騎兵を率いて先鋒となった。晋王が東の寃胊で黄巣を追い、還る際に梁の軍のある城の北を通り、梁王が上源駅に酒を置いて晋王を饗した際、独り敬思は薛鉄山・賀回鶻ら十余人と共に晋王に侍し、晋王が酔って梁の駅に宿泊すると、梁兵は夜これを囲んで攻めた。敬思は駅楼に登り梁兵十余人を射殺し、たまたま大雨に会い晋王は従者と共に脱出でき、尉氏門から縄で下りて出たが、敬思は梁の追兵に捕らえられ殺された。
- 建瑭は若くして軍中に仕え裨校となった。晋が丁会の降を受け梁と潞州で対峙した際、建瑭はすでに晋兵の先鋒であり、梁兵はしばしば建瑭に殺され互いに「常に史先鋒を避けよ」と戒め合った。梁が王景仁を遣わして趙を攻めると晋軍は趙を救い、建瑭は先鋒兵で井陘から出て柏郷で戦った。梁軍は方陣を組み兵を二つに分け汴宋の軍は左に魏滑の軍は右にあり、周徳威がその左を撃ち建瑭がその右を撃つと、梁軍は皆逃げ大敗した。功により検校左僕射を加えられた。天祐九年(912年)、晋が燕を攻めると燕王劉守光は梁に師を乞い、梁太祖は自ら趙を撃ち棗彊・蓚県を囲んだ。この時晋の精兵は皆北の燕を攻めており、独り符存審と建瑭が三千騎で趙州に屯していた。梁軍はすでに棗彊を破り、存審は下博橋を扼し、建瑭はその麾下五百騎を五隊に分け、一は衡水、一は南宮、一は信都、一は阜城に向かわせ、自らはその一を率いて各隊に梁の芻牧者(草刈り・牧夫)十人を捕らえるよう約した。下博に会し夕暮れには梁兵数十人を捕らえて皆殺したが、それぞれ一人を残し逃がし「晋王の大軍がまさに至る」と告げさせた。翌日、建瑭は百騎を率い梁の旗幟を装って芻牧者に紛れ、夕方に梁営を叩いてその門番を殺し、火を放って大声で叫び数十百人を斬撃し、外に出ていた梁の芻牧者もそれぞれ晋兵に遭遇して損失を出した。逃がされた者は帰ってきて皆晋軍がまさに至ると語った。梁太祖は夜、営を引き払って去り、蓚県の人々はこれを追撃し、梁軍が棄てた輜重・鎧甲は数え切れなかった。梁太祖はちょうど病んでおりこれにより病状が悪化し、晋軍はこのため力を合わせて燕を収めることができたが、これは二人(存審と建瑭)の力によるものであった。
- 後に荘宗に従い魏博に入り、劉鄩を故元城で破り、功を積んで貝・相二州刺史を歴任した。十八年(921年)、晋軍が張文礼を鎮州に討った際、建瑭は先鋒兵で趙州を下しその刺史王鋋を捕らえた。兵が鎮州の城下に迫った際、建瑭はその城門を攻めていて流れ矢に当たり卒した。享年四十二。建瑭の子匡翰は晋高祖の女を娶り魯国長公主とされた。匡翰は将として沈毅で謀略があり、部下に接するに礼をもってし、部曲と語る際もいまだかつて名だけで呼ぶことはなかった。天雄軍歩軍都指揮使・彰聖馬軍都指揮使を歴任し、晋に仕えて懐・和二州刺史・鄭州防禦使・義成軍節度使となり、赴任先ではみな兵民に称え慕われた。史氏は代々将となる家柄であったが、匡翰は読書を好み、特に春秋三伝を好んで学者と終日講論して倦むことがなかった。義成軍の従事関徹は特に酒を嗜み、かつて酔って匡翰を罵り「近ごろ張彦沢が張式を切り刻んだと聞いたが、まだ史匡翰が関徹を斬ったとは聞いていない」と言った。世に語り伝える者もこのようなことを言われたことはなかったが、匡翰は怒らず杯を満たして自ら罰し慰め励ました。人は皆その度量に服した。享年四十で卒した。