新五代史卷二十五 唐臣傳第十三 周徳威

周徳威、字は鎮遠、朔州馬邑の人、幼名を陽五という(?–918年)。晋(後の後唐)に仕えた驍将で、勇と智謀を兼ね備え、柏郷の戦いで梁の大軍を破るなど数々の戦功を立てた。胡柳陂の戦いで輜重の乱れに乗じられ、子とともに戦死した。荘宗の覇業を支えた武将の一人。

年表(3件)
  • 天祐七年910年梁の王景仁が趙を攻めると先んじて趙州に屯し、鄗邑に退いて敵を誘った
  • 天祐七年910年柏郷で梁軍を大破した
  • 十五年918年胡柳陂の戦いで、輜重の乱れに乗じられ子とともに戦死した

前半生

  • 周徳威、字は鎮遠、朔州馬邑の人。人となり勇にして智謀多く、その容貌は魁偉、笑っても顔色を変えず、人はこれを見ると凛としたものを感じた。晋王に仕えて騎将となり、次第に鉄林軍使に遷り、王行瑜を破るのに従い功により内衙指揮使に遷った。その幼名を陽五といい、梁晋の頃、「周陽五」の勇名は天下に聞こえた。梁軍が晋の太原を囲んだ際、軍中に「周陽五を生け捕りにできた者を刺史とする」と令した。驍将陳章という者があり、「陳野义」と号し常に白馬に乗り朱甲をまとって己を目立たせ、陣中を出入りして周陽五を求め必ず生け捕りにしようとした。晋王が徳威に「陳野义はお前を捕らえて刺史を得ようとしている。白馬朱甲の者を見たらよく備えよ」と戒めると、徳威は笑って「陳章は大言を好むだけだ、刺史が私のものにならないと誰が知ろうか」と言い、その部兵に「白馬朱甲の者を見たら偽って逃げ避けよ」と戒めた。両軍が共に陣した際、徳威は微服で卒伍に紛れ、陳章が出て挑戦し兵が交わり始めると、徳威の部下は白馬朱甲の者を見て退き逃げた。章は果たして矛を奮って急追し、徳威は章が過ぎるのを見計らって鉄鎚を振るってこれを撃ち、章は馬から落ち生け捕りにされた。
  • 梁が燕を攻めると、晋は徳威に五万人を率いさせ燕のために梁を攻めさせ、潞州を取り、代州刺史・内外蕃漢馬歩軍都指揮使に遷った。梁軍が燕を捨てて潞州を攻め、夾城で包囲すると、潞州の守将李嗣昭は城を閉じて守り、徳威は梁軍と外で年を越えて対峙した。嗣昭と徳威は元来確執があり、晋王は病がひどくなった際、荘宗に「梁軍が潞州を囲み、徳威は嗣昭と確執がある、私は甚だこれを憂えている」と語った。王の喪はまだ殯に置かれ、荘宗は新たに立ち叔父の克寧を殺したばかりで国中は定まらず、晋の重兵はことごとく徳威に属して外にあり、晋人は皆恐れた。荘宗は人を遣わして喪と克寧の難を徳威に告げさせ、かつその軍を召した。徳威は命を聞くとその日のうちに軍を太原に還し、その兵を城外に留めて徒歩で入り、梓宮の前に伏して慟哭しほとんど絶え入るほどであった。晋人はこれにより安んじた。そのまま荘宗に従い再び梁軍を撃って夾城を破り、李嗣昭とも初めのように和した。夾城を破った功により振武節度使・同中書門下平章事を拝した。
  • 天祐七年(910年)秋、梁は王景仁に魏・滑・汴・宋等の兵七万を率いさせ趙を撃たせた。趙王王鎔は晋に師を乞い、晋は徳威を先に趙州に屯させた。冬、梁軍が柏郷に至り趙人が急を告げると、荘宗は自ら兵を率いて贊皇に出て石橋で徳威に会い、進んで柏郷から五里の野河北に営した。晋兵は少なく、景仁が率いる神威・龍驤・拱宸等の軍は皆梁の精鋭で、人馬鎧甲は組繡・金銀で飾られ日に光り輝き、晋軍はこれを望んで顔色を変えた。徳威は衆を励まして「これらは汴宋の傭販の輩に過ぎず、ただ外見を飾っているだけで恐れるに足りない。その甲一領の値は数十千、これを得ればちょうど我らの資となる。ただ望んで羨むだけでなく、努めて取りに行くべきだ」と言い、退いて荘宗に「梁兵は甚だ鋭く、まだ争うべきではありません。少し退いて時を待つべきです」と告げた。荘宗は「私は孤軍を率いて千里を出ており、その利は速戦にある。今、勢いに乗じて急撃しなければ、敵に我が兵の寡少を知られ、施す術がなくなる」と言うと、徳威は「そうではありません。趙人は城を守ることはできても野戦はできず、我らが勝ちを取る利は騎兵にあり、騎兵の長所は平川広野にあります。今、我らは河のほとりに軍し敵の営門に迫っており、我らの長所を用いる地ではありません」と述べた。荘宗は不悦で帳中に退いて臥し、諸将はあえて入って見る者がなかった。徳威は監軍張承業に「王は老兵が速戦しないことを怒っているが、怯えているのではない。しかも我が兵は少なく敵の営門に臨んでおり、頼みとするのはただ一水を隔てているのみだ。梁が舟筏を得て河を渡れば我らは全滅する。鄗邑に退軍し、敵を営から誘い出し騒がせ疲れさせるほうがよく、策をもって勝つことができる」と語った。承業が入って「徳威は老将で兵を知っています、その言葉を軽んじないでください」と言うと、荘宗は急に立ち上がり「私はちょうどそれを考えていたところだ」と言った。まもなく徳威は梁の遊兵を捕らえ景仁が何をしているか問うと、「舟数百を治め浮橋にしようとしている」と答えた。徳威はこれを連れて荘宗に見せると、荘宗は笑って「果たして公の予測通りだ」と言い、鄗邑に退軍した。

柏郷の戦いと後半生

  • 徳威は朝、三百騎を遣わして梁営を叩いて挑戦させ、自らは精兵三千で続いた。景仁は怒りその全軍を出して徳威と数十里にわたり転戦し、鄗の南に至った。両軍は共に陣し、梁軍は横に六、七里に亘り、汴宋の軍は西に、魏滑の軍は東にいた。荘宗は馬を走らせ高所に登って望み喜んで「平原浅草、進退自在、真に我が勝地だ」と言い、人を遣わして徳威に「私が公のために先んじる、公は続いて進め」と告げた。徳威は馬を止めて諫め「梁軍は軽々しく出て遠くから来て我らと転戦しており、来る際は必ず糧秣を持つ暇がなかったでしょう。たとえ持てても食する暇はなく、日が正午になる前に人馬共に飢えるでしょう。その退こうとする時を狙って撃てば勝てます」と述べ、諸将も皆これに賛同した。未申の時に至り、梁軍の東側から塵が起こると、徳威は太鼓を鳴らして進み、西側に向かって「魏滑の軍が逃げるぞ」と叫び、また東側に向かって「梁軍が逃げるぞ」と叫んだ。梁の陣は動揺し再び整えられず、皆逃げた。ついに大敗し、鄗から柏郷まで追撃し横たわる屍は数十里に及んだ。景仁は十余騎でかろうじて免れた。梁と晋が争って以来数十戦あったが、その大敗はいまだかつてこのようなことはなかった。
  • 劉守光が燕で僭号すると、晋は徳威に兵三万を率いさせ飛狐から出てこれを撃たせた。徳威は祁溝関に入り涿州を取り、守光を幽州に囲んでその外城を破った。守光は門を閉じて拒守したが、晋軍は燕の諸州県をことごとく下し、独り幽州のみ下らず、囲むこと年を越えてついに破った。功により盧龍軍節度使を拝した。徳威は大将でありながら常に自ら士卒と共に矢石の間を馳駆した。守光の驍将単廷珪は陣中の徳威を望見して「これは周陽五だ」と言い、槍を挺げて馬を馳せて追った。徳威は佯って逃げ、廷珪が追いつこうとするたびに身を側らせて少し避け、廷珪の馬はまさに馳せていて止まれず、少し行き過ぎさせてから檛を奮って撃ち、廷珪は馬から落ち生け捕りにされた。
  • 荘宗が劉鄩と魏で対峙した際、鄩は夜に密かに軍を黄沢関から出して太原を襲おうとした。徳威は幽州から千騎で土門に入りこれを牽制した。鄩は楽平に至って雨に遭い進めず戻った。徳威と鄩は共に東へ臨清を争ったが、臨清には積んだ粟があり晋軍の餉道でもあったため、徳威が先に馳せてこれを占拠し、これにより荘宗はついに鄩の軍を困らせ破ることができた。荘宗は勇敢で戦を好み特に敵に会うことに鋭かったが、徳威は老将として常に持重を務め敵の鋭気を挫くことを心がけ、その用兵は常に敵の隙をうかがって勝を取った。
  • 十五年(918年)、徳威は燕兵三万を率い鎮定等の軍と共に荘宗に従い河上に至り、麻家渡から進軍し臨濮に至って汴州に向かい、胡柳陂に宿営した。夜明けに斥候が「梁軍が至りました」と報告した。荘宗が戦について徳威に問うと、徳威は「ここから汴州までは二晩の近さです。梁軍の父母妻子は皆その中におり、梁の家国はこの一挙にかかっています。我らは深く敵地に入った兵で必死の戦をする彼らに当たれば、計略で勝つことはできても力で争うのは難しいでしょう。しかも我が軍は先にここに至っており、糧炊はすでに整い営栅も完備しています、これは逸をもって労を待つ軍というものです。王は軍を動かさず、臣に騎兵で彼らを揺さぶらせ、営栅を完成させず樵炊も間に合わないようにさせ、彼らの疲労に乗じて撃てば勝てるでしょう」と答えた。荘宗は「我が軍は河上で終日敵を待っていた、今、敵を見て撃たないでどうする」と言い、李存審を顧みて「公は輜重を率いて先に行け、私は公の殿を務める」と言って軍を督して出た。
  • 徳威はその子に「私はどこで死ぬか分からない」と語った。先に梁軍と遭遇して陣した際、王の軍は中央に、鎮定の軍は左に、徳威の軍は右におり、輜重はその西に次いだ。兵がすでに交わると、荘宗は銀槍軍を率いて梁の陣に馳せ入り、梁軍はやや敗れたが晋の輜重を犯し、輜重を守る者は梁の朱旗を見て皆驚き徳威の軍に逃げ込んだ。徳威の軍は乱れ、梁軍がこれに乗じ、徳威父子は共に戦死した。荘宗は諸将と共に相い持して泣き「私が老将の言葉を聞かず、その父子をこのようにさせてしまった」と言った。荘宗の即位後、徳威に太師を追贈し、明宗の代にさらに太尉を追贈し荘宗廟に配享した。晋の高祖(石敬瑭)は徳威を燕王に追封した。子の光輔は官が刺史に至った。