新五代史卷二十三 梁臣傳第十一 王景仁

生涯

  • 王景仁、廬州合淝の人、初名は茂章。若くして楊行密に従い淮南に起こった。景仁は将として驍勇剛悍で威儀に乏しかったが、敵に臨むと常に身を先んじて士卒の先頭に立ち、行密はこれを壮とした。梁太祖が子の友寧を遣わして王師範を青州に攻めさせると、師範は行密に援兵を求め、行密は景仁に歩騎七千を率いさせ師範を救わせた。師範の兵は城を背に二栅を構え、友寧が夜にその一栅を攻めると、栅から急を告げ景仁に出戦を促したが、景仁は兵を動かさなかった。友寧はすでに一栅を破って戦い続け、夜明けに景仁は友寧の兵が疲れたと見て出戦しこれを大破し、友寧を斬ってその首を行密に報じた。この時梁太祖はまさに鄆州を攻めていたが、子友寧の死を聞いて二十万の兵で倍道して至った。景仁は塁を閉じて怯えを装い梁兵が怠るのを待って栅を壊して出撃し、酣戦のさなか退いて座り諸将を召して酒を飲み、その後再び戦った。太祖は高所に登ってこれを望み、青州の降人に酒を飲む者は誰かと問うと「王茂章です」と答え、太祖は「この人を将として得られたなら天下を平らげるに足りぬことなどない」と嘆じた。梁兵は再び敗れ景仁の軍は帰還した。梁兵が急追すると、景仁は逃げられぬと判断し、偏将李虔裕に一旅を率いさせ山下に伏兵させて待ち、自軍は留めて動かず鞍を解いて臥した。虔裕は「追兵が来ました、速やかに逃げるべきです」と急いで呼びかけ、自ら死をもってこれを阻もうとしたが、景仁は「私もここで戦う」と言い、虔裕が三たび請うと景仁はついに出発し、虔裕はそのまま戦死した。梁兵はこのため追いつけず景仁の全軍は無事帰還した。
  • 景仁は行密に仕えて潤州団練使となった。行密の死後、子の渥が宣州から入って立ち、景仁に代えて宣州を守らせた。渥は即位すると旧時の物を宣州に求めたが、景仁は惜しんで与えず、渥は怒って兵で攻めたため、景仁は銭鏐のもとへ奔った。鏐は景仁を宣州節度使代行に表した。梁太祖は元来景仁を知っており人を遣わして召し、景仁は間道を通って梁に帰り、寧国軍節度使とされ同中書門下平章事を加えられた。長らく用いる場がなく参列して宰相の班に列するのみであった。開平四年(910年)、景仁を北面招討使とし韓勍・李思安らの兵を率いて趙を討たせた。魏州に行き着いた際、司天監が「太陰が虧け用兵に不利」と言い、太祖は急ぎ景仁らを呼び戻したが、まもなく再び遣わした。景仁がすでに出発した後、太祖は術者の言葉を思い出し使者を馳せて魏で景仁を止めて待たせようとしたが、景仁はすでに邢・洺を過ぎており、使者が追いついても景仁は詔を奉ぜず柏郷に進んで営した。乾化元年(911年)正月庚寅、日食があり、崇政使敬翔が太祖に「兵事は憂うべきです」と述べ、太祖はこれで食が進まなかった。この日、景仁は晋人と柏郷で大戦し大敗した。景仁は帰って太祖に訴えると、太祖は「私もそれは分かっている。韓勍・李思安がお前を客将として軽んじ節度に従わなかったのだ」と言い、景仁を罷めて邸に帰らせたが、数か月後にその官爵をすべて復した。末帝の即位後、景仁は淮南招討使とされ廬・寿を攻めさせられた。独山を通る際、山には楊行密の祠があり、景仁は再拝して号泣して去った。霍山で戦い、梁兵は敗走したが景仁は殿軍として力戦したため梁兵はさほど大敗しなかった。景仁は京師に帰り疽を病んで卒した。太尉を追贈された。