新五代史卷二十二 梁臣傳第十 徐懐玉

生涯

  • 徐懐玉、亳州焦夷の人。若くして梁太祖に仕え、太祖と共に微賎の身から起こった。懐玉は将として雄豪を自任し戦陣に勇であった。太祖に従い宣武を鎮した際、永城の鎮将となった。秦宗権が梁の壁を金隄・霊昌・酸棗で攻めた際、懐玉は軽騎でこれを連撃破し、五千余人を俘殺した。左長剣都虞候に遷り、また宗権を板橋・赤岡で破りその八柵を抜いた。太祖に従い東の兗鄆を攻め徐宿を破り、懐玉の身は金瘡に覆われながらも戦えば必ず勝ち、得た賞賜はしばしば士卒に分け与え梁の名将となった。本名は琮、太祖が懐玉の名を賜った。太祖に従い魏を攻め魏兵を黎陽で破り、続けて東の兗を攻め朱瑾を金郷で破り、また龎師古に従い楊行密を攻めたが、師古は清口で敗れた際、懐玉は独り一軍を保ち道すがら散卒一万余人を収めて帰った。沂州刺史に遷り、豊作の年が続いたため兵を繕い壁を治め戦守の備えをなした。まもなく王師範が梁に叛き梁の東境を攻めると、懐玉はしばしば州兵でこれを撃破し、斉州防禦使に遷った。天復四年(904年)、州兵で昭宗を西に迎え洛陽に都させ、華州観察留後に遷り雍州に兵を屯した。右羽林統軍に遷り沢州に屯した際、晋人がこれを攻め隧道を穿って入ろうとしたが、懐玉は隧道の中でこれを撃ち、晋人は退いた。太祖の代に曹・晋二州の刺史を歴任し、晋がしばしば攻めたが懐玉は堅守し洪洞で晋を破り、保大軍節度使を拝した。太祖の崩後、友珪が自立すると、朱友謙が晋に附いて鄜州を襲い、懐玉を捕らえて殺した。