生涯
- 張帰覇、清河の人。末帝はその娘を娶り徳妃とした。帰覇は若くして弟の帰厚・帰弁と共に黄巣に従い、巣の敗後東走し梁に降った。秦宗権が汴を攻めた際、帰覇は戦にしばしば功があった。張晊の軍が赤岡にあり騎兵で挑戦した際、矢が帰覇に中ったが帰覇はこれを抜いて逆に賊を射て一発で斃し、その馬を奪って帰った。太祖は高丘から望見して大いにこれを壮とし金帛で賞し、その馬を賜って弓手五百人を濠中に伏せさせた。太祖は騎兵数百で遊兵として晊の柵を過ぎ、晊が出て太祖を追うと、帰覇は伏兵を発して晊の兵千人を殺し馬数十匹を奪った。太祖が蔡州を攻めた際、蔡の将蕭顥が太祖の営を急襲すると、帰覇は請う暇もなく徐懐玉と共に東南の壁門から出て合撃しこれを破り、太祖は営を撤して脱することができた。太祖が兗鄆を攻めて曹州を取ると、帰覇に兵数千でこれを守らせ、朱瑾と金郷で正面から戦い大いにこれを破り、また濮州を破った。晋人が魏を攻めた際、帰覇は葛従周に従い魏を救い洹水で戦い、克用の子落落を捕らえて魏人に与え、また劉仁恭を内黄で破りその功は諸将に勝った。光化二年(899年)、邢州を権知し、莱州刺史に遷り、左衛上将軍・曹州刺史を拝命した。開平元年(907年)、右龍虎統軍・左驍衛上将軍を拝命し、二年(908年)、河陽節度使に任じられ病により卒した。子の漢傑は末帝に仕えて顕官となり、張徳妃の縁で用事したが、梁が滅び唐の荘宗が汴に入ると一族は誅された。
- 弟の帰厚、字は徳坤。将として弓槊を善くし、少数で多数を撃つことに長けた。張晊が赤岡に屯した際、帰厚は独り陣前で晊と戦い、晊は疲れて退き、諸将がこれに乗じて晊は大敗した。太祖は大いに喜び騎長とした。梁が時溥を攻めた際、帰厚は麾下を率いて先に九里山に進み徐兵と遭遇して戦い、梁の旧将で徐にいた陳璠を望見して認め、目を怒らせ大いに罵り馬を馳せてこれを捕らえに向かったが、矢が左目に中った。郴王友裕が鄆を攻めて濮州に屯した際、太祖は後から至ったが、友裕は柵を移して太祖と連絡を失い、太祖は不意に鄆兵と遭遇した。太祖は高所に登って望むと鄆兵はわずか千人ほどであった。太祖は帰厚と共に庁子軍で直衝したが、戦いが合するとまもなく鄆の大軍が至り、帰厚は支えきれないと判断し数十騎で太祖を先に護送して還らせた。帰厚の馬は矢に中って倒れ、槊を持って歩戦した。太祖は軍中に戻ると張筠に馬を馳せて迎えに行かせ、必ず死んだと思っていたが、帰厚は身に十余の矢を受けながら筠の馬を得て帰った。太祖はこれを見て泣き「お前が喪われれば軍にとってどれほどの損失か」と言い、宣武に運ばせた。右神武統軍に遷り、洺・晋・絳三州刺史を歴任し晋人としばしば戦って屈することがなかった。乾化元年(911年)、鎮国軍節度使を拝命し病により卒した。子の漢卿。
- 弟の帰弁も将として善く戦い、開平の初め滑州長剣指揮使となった。子の漢融。梁が亡ぶと一族は皆誅された。