新五代史卷二十一 梁臣傳第九 敬翔

史論

  • 著者は述べる。孟子は「春秋に義戦なし」と言ったが、著者もまた五代に全き臣なしと考える。ただし一人もいないわけではなく、僅かにいるのみである。著者が得た死節の士は三人のみであった。二代を超えて仕えなかった者は、それぞれ仕えた国ごとに分けて梁・唐・晋・漢・周の臣伝を作り、一代に限らず仕えた者は国で括れないため雑伝とした。雑伝に入ることは君子の恥じるところだが、一代の臣がみな貴ぶべきとは限らない。読者はその善悪を詳らかにされたい。

出自と朱全忠への出仕

  • 敬翔、字は子振、同州馮翊の人。自ら唐の平陽王暉の後裔と称した。若くして学を好み書檄に巧みで、乾符年間(874~879年頃)に進士に挙げられなかったため大梁に身を寄せた。同郷の王発が汴州観察支使であったのでこれを頼ったが、長らく推薦を得られず、困窮して人のために書状を書き軍中に伝わった。太祖(朱全忠)は元来書に通じなかったが、翔の書く俚俗の文を気に入り、王発に「故人がいるなら共に連れてこい」と告げ、翔は太祖に見えた。太祖が「春秋を読んだと聞くが、春秋は何を記した書か」と問うと、翔は「諸侯が戦争を繰り返した事を記したもの」と答えた。太祖が「その用兵の法は今の用に足るか」と問うと、翔は「兵は変に応じ奇を出して勝を取るもので、春秋の古法は今には用いられない」と答え、太祖は大いに喜んだ。翔を軍職に補したが好むところでなかったため館駅巡官とした。太祖が汴郊で蔡人と戦った際、翔はしばしば謀略を献じてよく的中し、太祖は翔を得るのが遅かったと喜び、以後は動静のたびに翔に相談した。
  • 太祖が昭宗を岐から長安に護送した際、昭宗は翔と李振を延喜楼に召して労い、翔に太府卿を拝させた。かつて太祖が殿上で待していた際、昭宗の衛兵が太祖を捕らえようと企み、履の紐を結び直すふりをして太祖を顧みたが、太祖は跪いて自ら結び、周囲の者はあえて動かなかった。太祖はこの時汗を流し背を濡らし、以後めったに参内しなくなった。昭宗が洛陽に遷った際、崇勲殿での宴の半ばで人を遣わし太祖を内殿に召し何かを託そうとしたが、太祖は益々懼れ病と称して辞退した。昭宗は「卿が来ないなら敬翔を寄こせ」と言い、太祖は慌てて翔を出したが、翔も酔ったふりをして去った。

軍師としての活躍

  • 太祖が趙匡凝を破って荆襄を取り、続けて淮南を攻めようとした際、翔は新たに勝った兵は威を養うべきと切に諫めたが、太祖は聞かず光州から出兵し、大雨に遭ってほとんど進めず、寿州攻めも成功せず多くを失った。太祖は大いに悔い恨み、帰って怒りのまま唐の大臣をほとんど殺したが、翔をますます信任するようになった。梁の簒奪も翔の謀略によるところが大きい。太祖の即位後、唐の枢密院が宦官によるものだった旧例を改め崇政院とし、翔をその使とし、兵部尚書・金鑾殿大学士に遷した。翔は人となり深沈で大略があり、太祖の用兵に従うこと三十余年、細大の務めを必ず取り仕切り、心を尽くして昼夜眠らず、自ら「馬上でしか休めない」と語った。太祖は剛暴で近づき難かったが、不可なことがあれば翔はあえて表立たず、微かにその端を開いて太祖の心を悟らせ、太祖も多くはそれで改めた。
  • 太祖が徐州を破って時溥の寵姫劉氏を得た際、劉氏は元は尚讓の妻であったが、これを翔に妻とした。翔が貴顕になっても劉氏はなお太祖の寝所に出入りし平時と変わらず、翔はこれを患いとした。劉氏は翔を嘲り「私がかつて賊に身を落としたことを恥じているのか。尚讓は黄巣の宰相、時溥は国の忠臣だったが、あなたの家柄でなお私を辱めと思うなら、これで別れましょう」と言い、翔は太祖のゆえに謝ってこれを止めた。劉氏は車馬衣服が驕奢で、独自に典謁を置いて藩鎮・権貴と結び、寵信・言事の力は翔に劣らず、当時の貴家もこれを真似た。

梁末の忠節と最期

  • 太祖の崩後、友珪が自立すると、翔が先帝の謀臣で自らを図ろうとするのを恐れ、翔を内職に置きたがらず、李振を崇政使に代えて翔を中書侍郎・同中書門下平章事とした。翔は友珪に疑われることを恐れてしばしば病と称し事に関わらなかった。末帝の即位後、趙巖らが用事して旧臣を離間したため、翔は益々鬱々として志を得なかった。その後梁は河北の大半を失い晋と楊劉で対峙し、翔は「かつては河朔の半ばが我にあり、先帝の武と貔虎の臣をもってしてもなお晋に対して志を得られなかった。今、晋は日増しに強く梁は日増しに削られ、陛下は深宮にあって近習と親戚の私情に頼るのみで、どうして事を成せようか。聞けば晋が楊劉を攻めた際、李亜子(李存勗)は薪を負い水を渡って士卒の先頭に立ったという。陛下は儒雅に安んじ委蛇として賀瓌を将に遣わすのみで、あの鋭鋒に当たれようか。私は老いたが国恩は深く、もし用いる材があるなら自ら効を尽くしたい」と述べたが、趙巖らはこれを怨言とみなし用いなかった。
  • その後王彦章が中都で敗れると末帝は懼れ、段凝を河上から呼び戻そうとしたが、梁の精兵は皆凝の軍にあり、凝は異志を抱いて顧望し来なかった。末帝は翔を呼び「朕は日頃卿の言を軽んじたが、今は急事だ。恨みに思わず教えてほしい、どうすべきか」と問うた。翔は「臣は先帝に三十余年仕え、今宰相といっても実は朱氏の老奴に過ぎない。陛下に仕える心に何ら隠すことはない。陛下が初め段凝を用いた際、臣はすでにこれを争ったが、今凝は来ず敵勢はすでに迫っている。陛下のために謀ろうとしても小人がこれを妨げ用いられまい。ただ先んじて死に、宗廟の滅亡を見るに忍びないだけです」と答え、君臣は相い向かって慟哭した。
  • 翔と李振はともに太祖に信任されていたが、荘宗(李存勗)が汴に入り梁の旧臣を赦す詔を出すと、振は喜んで翔に「詔があり、洗い清められて新君に朝することができる」と告げ、共に入朝しようと誘った。翔は夜、高頭の車坊にとどまった。夜明け前、左右の者が「崇政の李公が入朝された」と報せると、翔は嘆いて「李振は丈夫として誤った。何の面目あって梁建国の門に入れようか」と言い、自ら首を縊って死んだ。