新五代史卷十九 周家人傳第七 徳妃董氏

徳妃董氏

  • 鎮州霊寿の人。祖父の文広は唐の深州録事参軍、父の光嗣は趙州昭慶尉。妃は幼くして頴悟で、音楽を聞けばその律呂を知った。七歳のとき鎮州の乱により家を失い、潞州の牙将に拾われ、褚の中に入れられて連れ帰られた。潞将の妻はたびたび女児を産みながら育たず、妃を憐れんで子として育て実子以上に可愛がった。五、六年後、妃の実家では兄の瑀が悲しんで人づてに捜し求め、潞将が京師で瑀に出会い妃を送り返した。時に妃は十三歳。瑀は里人劉進超に嫁がせたが、進超は晋に仕えて内職にあり、契丹の乱で戦死した。
  • 妃は洛陽に寓居していたが、漢高祖が太原から京師に入る際、太祖も洛陽を経て妃の賢行を聞き、これを娶った。太祖が建国し中宮の位が空いていたため徳妃に冊立された。広順三年(953年)、三十九歳で卒した。妃の兄は三人おり、瑀は太子左賛善大夫、玄之と自明は共に刺史に至った。
  • 帝(周太祖)が魏で挙兵した際、漢が帝の邸を包囲し、張貴妃と諸子の青哥・意哥、姪の守筠・奉超・定哥は皆誅された。青哥・意哥は生母が誰か分からない。太祖の即位後、詔により、故第二子青哥は太尉を追贈され侗の名を賜り、第三子意哥は司空を追贈され信の名を賜った。皇姪守筠は左領軍衛将軍を追贈されたが、筠の字が世宗(榮)の諱に近いため守愿と改名された。奉超は左監門衛将軍、定哥は左千牛衛将軍を追贈され遜の名を賜った。
  • 顕徳四年(957年)夏四月癸未、世宗は詔して「礼は情に縁り恩は往時を悼む。友于の情はことに切なる」として、贈太保侗を太傅に進め郯王を追封、贈司徒信を杞王を追封するとした。また皇従弟の贈左領軍衛将軍守愿・贈左監門衛将軍奉超・贈左千牛衛将軍遜らについても「非業の死を悼む」として、守愿を左衛大将軍、奉超を右衛大将軍、遜を右武衛大将軍にそれぞれ進めた。