新五代史卷十九 周家人傳第七 淑妃楊氏

淑妃楊氏

  • 鎮州真定の人。父は弘裕、真定少尹。妃は幼くして容色により趙王宮に選ばれ、王鎔に仕えた。王鎔が張文礼に殺され鎮州が乱れると、妃は民間に流寓し、後に里人石光輔に嫁いだ。数年後光輔が死に、太夫人がその容色と賢さを聞いて娶らせ継室とした。太祖が漢高祖に太原で仕えていた天福年間(936~944年頃)、妃は卒し太原近郊に葬られた。太祖の即位後、広順元年(951年)九月に淑妃に追冊され、妃の弟廷璋は右飛龍使を拝命したが、「父が老いているのでその任を父に」と辞退した。太祖は「お前の父を忘れてなどいない」と述べ、弘裕を召したが、弘裕は老いて行けず、その家で金紫光禄大夫・真定少尹を拝した。
  • 太祖の崩後、嵩陵に葬られたが、一后三妃は皆陪葬されるべきところ太原がまだ制圧されておらず、世宗は有司に嵩陵の側に虚墓を営ませて待った。顕徳元年(954年)、世宗が高平で劉旻を破り太原を攻めたが、太原は城を閉じて囲まれたため、妃の柩を遷して葬った。