新五代史卷十八 漢家人傳第六 皇后李氏

皇后李氏の出自

  • 高祖皇后李氏は晋陽の人。父は農民であった。高祖は若い頃兵卒として馬を放牧しており、夜に李氏の家に押し入って妻とした。高祖が既に高位に上ってから、夫人李氏は隠帝を生んだ。

起兵と諫言

  • 開運四年(947年)、高祖が太原で挙兵した際、軍資金が不足し民から取り立てようとした。李后は「今、義兵と称して事を起こしながら、民が恩恵を知らぬうちに先にその財を奪うのは、新天子が民を救う趣旨にそぐわない。後宮の財を悉く出すべきだ」と諫めた。高祖は改めて謝意を示した。

隠帝の即位と太后の諫め

  • 高祖の即位で皇后となり、高祖の崩御後、隠帝が即位すると皇太后に冊立された。隠帝は若く、郭允明・後贊・李業らとしばしば宮中で戯れ、太后はそのたびに叱責したが、隠帝は「国家の事は外に朝廷があり、太后が言うべきことではない」と反発した。太常卿張昭もこれを聞いて上疏し、帝に師傅に親しみ正人に問うて聡明を開くよう諫めたが、隠帝は改めなかった。その後帝はついに郭允明らと謀議して亡国に至った。
  • 隠帝が允明らと楊邠・史弘肇らの誅殺を謀り、議が定まって太后に入って告げたところ、太后は「これは大事であるから宰相と相談すべきだ」と述べた。李業が傍らから「先皇帝は生前、朝廷の大事を書生に問うなと仰せだった」と口を挟み、太后は深く不可としたが、帝は衣を払って去り「何ぞ必ずしも閨門に謀るを要せんや」と言い放ち、楊邠らは殺された。
  • 周太祖(郭威)が京師に向け挙兵し、慕容彦超が劉子陂で敗れると、隠帝は自ら出陣して兵に臨もうとしたが、太后は「郭威はもともと我が家の人で、危疑がなければここまで至らなかった。今、兵を動かさず詔で威を諭せば、君臣の情がなお全うできるかもしれない」と止めた。帝は聞かず出陣し、ついに難に遭った。

周太祖の擁立と太后の詔

  • 周太祖が京師に入って挙兵すると、事は皆太后の誥と称して行われた。まもなく湘陰公贇を天子に立てる議が定まったが、贇が未だ着かないうちに太祖は太后に臨朝を請うた。その後太祖が契丹征討に出ると、軍士が太祖を擁立して戻り、太祖は太后に母として仕えることを願い出た。太后は誥で「侍中の功烈は崇高で徳声著しく、禍乱を除いて邦家を安定させた。軍民の推戴も歴数の帰するところであり、老身は残年をこれに託し、母として見ることに感激している」と応えた。
  • こうして太后は太平宮に遷され、昭聖皇太后の尊号を受けた。顕徳元年(954年)春に崩じた(隠帝期の旧史・実録にはいずれも皇后についての記載がなく、隠帝は即位から三年、二十歳で崩じているため、実際には后を立てなかったとみられるという)。

高祖の兄弟子息と湘隂公贇の経緯

  • 高祖には弟二人(崇・信)、子三人(承訓・承祐・承勲)があった。崇の子が贇で、高祖はこれを愛して自らの子のように扱った。乾祐元年(948年)、贇は徐州節度使に任じられた。
  • 承訓は早世し魏王を追封された。承祐が跡を継いだのが隠帝である。承勲は開封尹となった。
  • 周太祖が北郊で漢の兵を破り、隠帝が弑逆されると、太祖は京師に入った。漢の大臣が推戴するものと思っていたが、宰相馮道らにその意志はなかった。太祖はやむなく道に会って拝礼したが、道は平時同様に拝を受け、労うのみだった。太祖は漢の大臣に推戴の意がなく、また自立も難しいと悟り、太后に嗣君の選定を求めた。宗室で節度使の任にある者は崇ら四人おり、太后は誥で「河東節度使崇・許州節度使信は高祖の弟、徐州節度使贇・開封尹承勲は高祖の子。文武百官はこの中から嗣君を選べ」とした。
  • 周太祖と王峻が太后に謁見し、承勲を推したが、承勲は久しく病んで嗣たり得ないとされた。群臣が輿で承勲を運び出させて見たところ、実際に病であることが確認された。そこで群臣は「徐州節度使贇は高祖が愛して子とした者」として贇を嗣に推し、太師馮道を遣わして贇を迎えさせた。
  • 馮道は周太祖の意が贇にないことを察し、「公のこの挙は本心か」と問うと、太祖は天を指して誓った。道は出発した後、人に「私は生涯偽りを言わなかったが、今回は偽りを言った」と語った。道は贇に太后の意を伝えて召した。
  • 贇が宋州まで至ったところで、太祖は澶州から兵士に擁立されて京師に戻った。王峻は贇の側近に変事が起こることを懸念し、侍衛馬軍指揮使郭崇に兵七百騎で贇を護衛させた。郭崇が宋州に至ると、贇は楼に登り来意を問い、崇は「澶州の軍変を懸念し、護衛のために遣わされたのみで悪意はない」と答えた。贇が崇を召したが崇は進み出ず、馮道が出て崇と話し、崇はようやく楼に登り贇に見えた。その後、贇の部下の兵は奪われた。
  • 太祖は書を送って道を先に呼び戻し、副使の趙上交・王度に贇を奉じて太后に朝させ、道はそのまま先に帰った。贇は道に「私がここまで来られたのは公という三十年来の旧相を頼みにしていたからだ」と言ったが、道は黙して答えなかった。贇の客将賈正らが道を除こうと目配せしたが、贇は「軽々しく事を起こすな。それは公の意によるものか」と止めた。
  • 道が去った後、郭崇は贇を外館に幽閉し、賈正および判官董裔、牙内都虞候劉福、孔目官夏昭度らを殺した。太祖はすでに監国となっており、太后は誥を下して「先に枢密使郭威が宗社の安定を図り、徐州節度使贇を高祖の近親として漢の嗣に立て、藩鎮から京師に召したが、詔命は行われたものの軍情がこれに服さず、天道は北に、人心は東になびかなかった。改めて択び直すべきであり、当初の分土の命に戻すべきである」として、贇を開府儀同三司・検校太師・上柱国に降し、湘陰公に封じた。贇はまもなく幽閉先で死んだ。
  • 贇が徐州から入京した当初、都押衙の鞏廷美・教練使の楊温に徐州を守らせていた。廷美らは贇が即位できなかったと聞き、城門を閉じて命に抗った。太祖は王彦超を徐州節度使に任じ、詔を下して廷美らに刺史の地位を与えると諭し、贇の名でも廷美らの赦しを命じた。広順元年(951年)三月、彦超が徐州を落とし、廷美らは皆殺された。承勲は広順元年、病により卒し、陳王を追封された。

史論

  • 著者は湘陰公贇の一件を悲しみつつ、鞏廷美・楊温の行いを称える。贇は漢の嫡長ではなく、周氏が国を移すにあたり天下の反発を恐れて仮に立てられた存在にすぎず、当時の人々も贇が立たないことを知っていた。それでも廷美・温は孤城を守って死んだ。その最期は死節の士に恥じないものだが、実録を調べても二人の死の詳細は明らかでない。周が徐州を攻めた際に招降の詔書を送り、廷美らが一度は周に帰順しながら後に罪を恐れて再び叛いたとする説もあるが、その帰順の証も見当たらず、真偽は不明である。史書の欠落は慎むべきであり、疑わしきは疑わしいまま伝えるのがよい。著者は二人の忠を称え、その志を悲しみながらも、死節の士の列に加えられないことを惜しむ。