資治通鑑後周紀 世宗睿文孝武皇帝下 顯徳六年 六年 959年
春正月 安審琦の死と雅楽改革
- 正月、安審琦は酒に酔って熟睡していたところを、嬖妾が枕元の剣を安友進に渡して殺させた。口封じのため帳中の侍婢たちも皆殺しにされた。数日後に子の安守忠が事件を知り、安友進らを捕えて車裂きにした。
- このころ朝廷では正仗を立てる前夜、殿庭に楽器が並べられているのに鳴らされていない鐘磬があるのを世宗が見つけ、楽工に問うても答えられなかった。そこで竇儼に命じて古今を検討させ、王朴にも音律を諮問した。
- 王朴は、礼は外形を整え、楽は心を治めるものであり、礼楽が正しければ天下も治まると論じたうえで、黄鐘を基準に十二律を定め、律準十三弦を用いて旋宮の法により八十四調を整備する案を上奏した。長く廃れていた雅楽の体系を復活させるものとして、百官もこれを是認し、施行された。
- 同月、宋斉丘は九華山に退いたのち、自邸を封鎖されて食事だけ送られる身となった。かつて呉の譲位皇帝一族を泰州に幽閉する策を献じたことを思い、「その報いが自分に及んだ」と嘆いて縊死した。諡は醜繆とされた。
- 常夢錫は生前から宋斉丘一党を深く憎み、排除しなければ国が亡ぶと南唐主に何度も諫めていたが、ついに志を遂げぬまま病没していた。宋斉丘の死後、南唐主は夢錫にそれを見せられなかったのを惜しみ、左僕射を追贈した。
二月 治水・漕運・民政
- 王朴は河陰へ赴き、黄河堤防を視察し、汴口に斗門を設けた。
- 韓通・呉延祚は徐・宿・宋・単などの州から数万の民夫を発し、汴水を浚渫した。
- 韓令坤には大梁東城から汴水を蔡水へ導かせ、陳・潁方面への漕運路を開かせた。袁彦には五丈渠を浚わせて曹・済・梁山泊を東へ通し、青・鄆方面への漕運をつなげた。
- 開封府では田税調査を行い、従来十万二千余頃とされていたところ、実際には四万二千余頃の余剰耕地が見つかった。世宗はそのうち三万八千頃を減免し、諸州でも同様に余剰分を減ずるよう定めた。
- 淮南では戦乱後の飢饉が深刻だったため、世宗は米を貸し与えた。返済不能を憂える意見に対しては、「民は我が子であり、苦しんでいる子を父が救わぬ道理はない」と述べ、必ずしも回収にこだわらなかった。
二月末から三月 王朴の死と北征準備
- 樞密使王朴が死去した。世宗はその喪に臨み、玉鉞で地を打って何度も慟哭した。王朴は剛毅で鋭敏、才略が人に抜きん出ていたため、世宗は深く惜しんだ。
- 北辺未回復を理由に、世宗は滄州親征を決意した。孫行友に西山路の防備を命じ、呉延祚に東京留守兼開封府判事を、張美に大内都部署を臨時に委ねた。
- 韓通らが先発し、続いて世宗も大梁を出発した。
夏四月 契丹南境への進軍
- 韓通は滄州から契丹領へ入る水路を整え、乾寧軍南方で堤防修復や游口の開鑿を行い、瀛州・莫州へ通じる水路を開いた。
- 世宗は滄州に着くと、その日のうちに歩騎数万を率いてまっすぐ契丹領へ向かった。河北の州県では天子の行在が自分たちのところを通らないため、民間にはその進軍が知られないほど急だった。
- 乾寧軍では契丹の寧州刺史王洪が城を挙げて降った。
- さらに大規模に水軍を整備し、韓通を陸路都部署、太祖皇帝(趙匡胤)を水路都部署とし、世宗自身も龍舟に乗って北上した。艦船は数十里にわたって連なった。
- 独流口から西へ溯り、益津関では契丹守将終廷輝が降伏した。これより西は水路が狭く大型艦が進めなかったため、世宗は舟を捨てて陸路へ移った。
- 野営中、護衛兵はまだ少数だったが、周囲に現れた胡騎はあえて接近しなかった。
- 趙匡胤は先んじて瓦橋関に到達し、契丹守将姚内斌の降伏を受けた。翌日には莫州刺史劉楚信も降った。
五月 関南平定と幽州進攻断念
- 李重進ら後続の大軍もようやく到着し、瀛州刺史高彦暉も降った。これによって瓦橋関以南、いわゆる関南の地はすべて平定された。
- 世宗は行宮で諸将を宴し、幽州攻略を議したが、諸将は「わずか四十余日で兵をほとんど損なわず燕南を取ったのは不世の功であり、今は契丹騎兵が幽州北方に集結しているので深入りは危険」と進言した。世宗は不満で、劉重進に固安を先に押さえさせ、自らも安陽水まで進んで橋を造らせたが、その日病気が起こり、結局進軍を止めた。
- 契丹主は急使を晋陽へ送り、北漢に命じて後周辺境を攪乱させようとしたが、世宗が南帰したと聞いて出兵をやめた。
- 孫行友は易州を攻め落とし、契丹刺史李在欽を捕らえて軍市で斬った。
- 世宗は瓦橋関を雄州とし、容城・帰義二県を属させた。また益津関を覇州とし、文安・大城二県を属させた。さらに濱・棣両州から民夫を出して覇州城を築かせ、韓通に工事を監督させた。
- 李重進には土門から出て北漢を撃たせ、韓令坤を覇州都部署、陳思讓を雄州都部署として守備に当たらせた。
- 世宗は雄州から南還した。途中、李重進は百井で北漢軍を破っている。
六月 北辺・唐との往来
- 李筠は北漢の遼州を攻略し、その刺史張丕を捕えた。
- 鄭州では黄河が原武で決壊し、呉延祚に近県二万余人を動員して修築させた。
- 留従効は後周へ使者を送り、大梁に進奏院を置いて中朝へ直隷したいと願い出た。だが朝廷は、南唐がようやく服属したばかりであり、久しく金陵に仕えてきた留従効の立場も考え、現状のまま旧主に事えよと諭した。遠方から職貢を修めること自体が忠義の表れであり、それで十分だとした。
- 南唐主は子の紀公従善を鍾謨とともに入貢させた。世宗は鍾謨に、江南でも兵備を修めているかと尋ねた。鍾謨は、すでに大国に臣従した以上そんなことはしないと答えたが、世宗は「今は一家だが後世は分からぬ。自分の代のうちに城郭を修め、甲兵を整え、要害を押さえて子孫のために備えよ」と諭した。鍾謨が帰ってこれを伝えると、南唐主は金陵をはじめ諸州城郭の修築と戍兵増強を行った。
司馬光の論評
- 司馬光は、五代の帝王のうち唐の荘宗と後周の世宗はいずれも英武と称されるが、その器量には大きな差があったと論じる。荘宗は戦には強かったが、天下を治める道を知らず、策略や利害で人を動かしたため短期間で離叛を招いた。
- これに対して世宗は、群臣には信賞必罰をもって臨み、降らぬ者も守り抜く者も、それぞれ義に即して評価した。江南が未服なら自ら矢石を冒して征し、服してからは子を愛するように接して遠い将来まで思いやった。その宏大な度量は荘宗と同日に論じられないとする。
六月末 皇后・皇子・宰相任命
- 楊廷璋は北漢の堡寨十三を降した。
- 符氏を皇后に立てた。先に崩じた宣懿皇后の妹である。
- 皇子宗訓を梁王・左衛上将軍、宗讓を燕公・左驍衛上将軍とした。
- 世宗は魏仁浦を宰相にしようとしたが、科挙出身でないことを問題視する声があった。世宗は、古来用いるべきは文武の才略ある人材であって、科第だけで決めるものではないと退けた。
- 王溥を門下侍郎として范質とともに樞密院事に参与させ、魏仁浦を中書侍郎同平章事・樞密使に任じた。魏仁浦は権要の地位にありながら謙抑を守り、厳格な世宗の怒りに触れた近臣の罪をしばしば自分に引き受けて助けたため、多くの人命を救った。
- 呉延祚も樞密使となり、韓通・張永徳には同平章事を加えた。趙匡胤には殿前都点検を兼ねさせた。
- 張昭が李濤を宰相に推した際、世宗は軽薄だとして難色を示した。張昭は、李濤には国家安危を先見する大節があると弁護したが、世宗はなお中書には置けないと判断した。
- 世宗は王著を旧知として重んじ、宰相にしたいとたびたび考えたが、酒癖と放縦のため取りやめていた。
六月末 世宗崩御
- 病が重くなると、世宗は范質らを召して遺命を授け、「もし自分が起きられなければ王著を宰相にせよ」と言った。范質らは、王著が終日酒に溺れて宰相に堪えないことを知っていたため、この言葉を漏らさぬよう互いに戒めた。
- この日、世宗は崩じた。年三十九。
- 司馬光はその事績を総括して、世宗は若いころは才能を隠していたが、即位後の高平の戦い以降、人々はその英武に心服したと評する。軍令は厳明で、矢石の中でも色を変えず、判断は人意表に出た。政務にも精勤し、簿籍を一目見れば忘れず、奸伏を摘発すること神のごとく、閑暇には儒者を召して前史を読み大義を論じた。奢侈や音楽玩好を好まず、群臣の過失は面前で責め、服すれば赦し、功あれば厚く賞したため、人々はその明を畏れ、その恵みを慕った。
- ただし法の運用は厳しすぎ、些細な職務怠慢でも極刑に処すことが多く、才能名望のある者にも容赦しないことがあった。晩年にはやや寛くなり、崩御の日には遠近の者がみな哀慕した。
- 遺詔によって梁王宗訓が帝位を継いだ。まだ七歳であった。
秋七月 新帝即位と南唐の貨幣政策
- 李重進を淮南節度使、韓通を天平節度使、太祖皇帝趙匡胤を帰徳節度使とした。向拱を西京留守とし、のち侍中を加えた。向拱はもとの名を向訓といったが、恭帝の名を避けて改めた。
- 大赦が行われた。
- 南唐では、金陵が後周領と長江一水を隔てるのみとなり、洪州の方が険固で上流を抑える地であるとして、遷都を議した。多くの群臣は反対したが、樞密副使唐鎬だけが賛成し、豫章を新都とする計画が始まった。
- ただ、淮上の戦争と江北割譲、後周への臣従と年貢で、南唐の府庫は疲弊し、銭は減って物価は高騰していた。鍾謨は大銭、韓熙載は鉄銭を提案した。唐主は当初は従わなかったが、鍾謨の強い請いにより、当十大銭の永通泉貨と、当二銭の唐国通宝を鋳造し、開元銭とともに流通させた。
八月 蜀と後周皇族
- 蜀主は李昊に武信節度使を兼領させた。これに対し右補闕李起は、宰相が方鎮を兼ねるのは先例に反すると諫めた。蜀主は、李昊の家には多くの出費があるので厚禄で優遇しただけだと答えた。李起は剛直な人で、李昊に沈黙を守れば翰林学士になれると言われても、「舌がなくなれば黙る」と言い返すような性格だった。
- 宗讓を曹王として名を熙讓と改め、熙謹を紀王、熙誨を蘄王とした。これは新帝の名を避けて宗字を改めたものである。
九月 南唐の継承と鍾謨誅殺
- 南唐皇太子弘冀が死去した。有司は浙西での軍功を根拠に武宣と諡そうとしたが、張洎が「太子の徳は孝敬を本とすべきで、武功で諡するのは慎徳の道に反する」と上言したため、文献と改められた。張洎はこれにより上元尉へ抜擢された。
- 鍾謨はたびたび後周へ使いして世宗の信任を受けていたため、南唐国内で驕横となり、三省の政務にも関与した。東宮兼官を求めて得られないと、親しい閻式を薦めて東宮の文書を扱わせた。
- また、李徳明の死に唐鎬が関わったと聞いて面前で責め、唐鎬を恐れさせた。鍾謨は張巒とも親しく、夜更けまで密談することが多かったため、唐鎬は「北人と通じて異謀あり」と唐主に讒言した。
- さらに弘冀の死後、唐主が弟の鄭王従嘉を立てようとすると、鍾謨は「従嘉は徳が軽く意志が弱く、仏教に傾きすぎて君主の器ではない。紀公従善の方が決断力がある」と述べた。これで唐主は怒り、従嘉を呉王として尚書令・知政事とし、東宮に居らせた。
- 十月、鍾謨が張巒に兵を率いて都城を巡徼させたいと求めたことで、唐鎬の讒言は決定的となった。唐主は鍾謨の越権を暴く詔を下し、鍾謨を国子司業に落として饒州へ流し、張巒を宣州副使に左遷した。ほどなく両人とも殺され、永通大銭も廃止された。
十一月 世宗の葬礼と南漢の宦官専横
- 世宗は慶陵に葬られ、廟号を世宗とした。
- 南漢主は旧藩時代の僚友鍾允章を尚書右丞・参政事に抜擢して重用した。允章は綱紀を正すため、乱法の者数名の処罰を求めたが、南漢主は宦官勢力を抑えられなかった。宦官たちは允章を憎んだ。
- 南漢主が円丘祭を行う三日前、允章が礼官を率いて壇上で神位の配置を指図しているのを見た許彦真は、これを謀反の準備だとして騒ぎ立てた。龔澄樞・李托らもこれに同調し、南漢主はついに允章を捕えて獄に下した。
- 審理に当たった薛用丕は允章と親しかったので、助からないと密かに伝えた。允章は嘆きつつも、幼い子の邕昌が成長したら自分の無実を語ってほしいと頼んだ。ところがこれが「子に復讐をさせるつもりだ」と取られ、允章は二子とともに斬られた。
- これ以後、南漢では宦官の専横がさらに進んだ。まもなく龔澄樞は左龍虎観軍容使・内太師となり、軍国の大事はすべてその裁断に帰した。才能ある臣下・科挙首席・僧道で談じ得る者まで、まず去勢されてからでなければ登用されない有様となり、自ら進んで宦官になる者、死罪を免じられて去勢される者まで現れ、宦者は二万人近くに膨れ上がった。南漢の高官権臣の多くは宦官となり、士人は「門外人」と呼ばれて政事から閉め出された。これが後の亡国につながることになる。
南都建設・蜀国内の反乱計画・契丹との断交
- 南唐は洪州を南昌府と改め、南都とした。何敬洙を南都留守、陳継善を南昌尹に任じ、遷都準備を進めた。
- 先年、後周が秦鳳を攻めた際に蜀中は動揺し、徐及甫が前蜀高祖王建の孫である王令儀を担いで叛乱を起こそうと、ひそかに党与を集めていた。周軍が退いたため計画は中止されていたが、この時に仲間の密告で発覚し、徐及甫は自殺、王令儀は賜死となった。
- 竇儀が後周使として南唐に赴いたとき、雪が降っていたため、南唐主は廡下で詔書を受けたいとした。しかし竇儀は、使者として旧礼を変えることはできない、衣服が濡れるなら日を改めてもよいと述べたので、南唐主は庭上で拝詔した。
- 契丹主はその舅を南唐へ使者として送ったが、泰州団練使荊罕儒が刺客を募って殺した。南唐側は清風駅で夜宴を開き、使者が酔って席を立って更衣に行ったまま戻らないので探すと、すでに首を失っていた。これによって契丹と南唐は断交した。