資治通鑑後周紀三 世宗睿武孝文皇帝上 顯徳二年 一年 955年

正月 漕運・夏州・人事

  • 世宗は、晋・漢以来、漕運で一斛ごとの欠耗が公認されず、輸送役人が不足分の責任を負って死罪に追い込まれることが多いとして、今後は一斛につき一斗の耗を支給するよう命じた。
  • 定難節度使の李彛興は、折徳扆も節度使となって自分と同格に並んだことを恥じ、周の使者の通行を妨げた。
  • 宰相たちは夏州は辺境の大鎮であり、府州は小さいから、李彛興を宥めて大局を保つべきだとしたが、世宗は折徳扆の忠勤を捨てられないとし、むしろ夏州は中原との交易に依存するのだから絶交されれば困るのは向こうだと述べ、齊藏珍に詔書を持たせて責めさせた。
  • 李彛興は恐れて謝罪した。
  • 蜀では鳳州に威武軍が置かれた。
  • さらに、翰林学士と両省官に令・録の人選を推挙させ、任官時に推薦者名も明記させた。もし貪汚や失政があれば推薦者にも連座させる制度とした。

胡盧河の防備

  • 契丹は晋・漢以来しばしば河北へ侵入し、深州・冀州のあたりでは自然の障壁がなく、住民は略奪に苦しんでいた。
  • そこで、深冀の間を横切る胡盧河を浚い、敵騎兵の進入を防ぐべきだという意見が採用された。
  • 世宗は王彦超・韓通に兵と夫役を率いさせ、胡盧河を浚渫し、李晏口に城を築いて兵を置いた。
  • 世宗は徳州刺史の張藏英を召して辺境防備を問うた。張藏英は地形の要害を述べ、辺人の勇者を募って手厚く養い、自分が指揮して機宜に応じて討撃したいと願った。
  • 世宗はこれを許し、張藏英を沿辺巡検招牧都指揮使とした。まもなく千余人を募り、王彦超らが工事を巡視中に契丹に包囲された際、張藏英は新募の兵で急襲して大破した。
  • 以後、契丹は胡盧河を渡ることをはばかり、その南の民はようやく安堵できた。

二月 日食と広言の詔

  • 二月朔に日食があった。
  • 蜀では夔恭孝王孟仁毅が死去した。
  • 世宗は群臣に得失を極言させる詔を出し、自分はまだ群臣の才器・忠誠を十分に把握していないので、言葉と行いの両方を見て任用の当否を定めたいと述べた。
  • また、たとえ諫言が採用されなくても責めは自分にあり、求められても言わないならその咎は本人にある、とした。
  • 南唐では厳続が門下侍郎同平章事となった。

三月 王朴の戦略策

  • 李晏口は静安軍とされた。
  • 世宗は広明以来、中国が日に日に縮小したことを深く恨み、高平の勝利後には天下平定の志を強くした。
  • ちょうど秦州方面から来た民や夷人が旧疆回復の策を献じたため、世宗はこれを受け入れた。これは後の秦鳳攻略の伏線となる。
  • 蜀主はこれを聞き、趙季札を派遣して辺備を視察させた。趙季札は、韓繼勲や王萬迪には大敵を防ぐ才がないとして、自ら赴くことを願い出て、雄武監軍使となり宿衛精兵千人を率いた。

四月 大梁外城拡張と王朴の献策

  • 世宗は大梁城内が手狭だとして外城拡張を命じ、まず標を立てて、農閑期に少しずつ築城する計画を定めた。標の内では、街路・倉場・官舎の区画を定めたのち、民に随意に家を建てさせる方針とした。
  • 蜀では王昭遠に北辺の城塞・甲兵を巡察させた。
  • 世宗は、治世の要も天下統一の方策もまだ尽くし得ていないとして、近臣に「君は難しく臣は易くない論」と「開辺策」を書かせた。
  • 王朴は、中国が呉・蜀・幽・幷を失ったのは、君主の暗愚・姦臣の横行・兵の驕り・民の困窮に由来すると論じた。取り返すにはその逆を行い、賢を進め、不肖を退け、恩信で心を結び、賞罰を明らかにし、倹約と薄斂で財と民を充実させるべきだとした。
  • 軍略としては、まず接境の長い南唐を攪乱し、東西いずれかの守りを動かして虚実・強弱を見極め、江北諸州を奪うべきだと述べた。江北を得れば江南・嶺南・巴蜀、さらに燕地まで風のように服すると説いた。
  • 河東の北漢だけは宿怨の強敵で恩信では靡かず、まずは後回しにし、天下既平ののち一挙に取るべきだとした。
  • 世宗は大いに喜び、この策を採用した。王朴は識見と決断力を高く評価され、ほどなく左諫議大夫・知開封府事となった。

秦鳳攻略の開始

  • 世宗が秦鳳攻略の将を求めると、王溥は向訓を推薦した。世宗は向訓に王景・昝居潤を加えて出征させた。
  • 五月戊辰朔、王景は散関を出て秦州へ向かった。
  • このころ世宗は、勅額のない寺院をすべて廃し、僧尼の私度を禁じ、出家は親族の承認を要すると定めた。戒壇は両京・大名府・京兆府・青州のみに許した。
  • また、身を焼く、手足を切る、指を焼く、肌に灯を掛けるなど、仏教を口実に民を惑わす行為を禁止し、寺院・僧尼の戸籍も毎年整備させた。
  • この年、存続を許された寺院は二千六百九十四、廃された寺院は三万三百三十六、僧は四万二千余、尼は一万八千余であった。

五月 黄牛八寨攻略と蜀の動揺

  • 王景らは黄牛八寨を攻め落とした。
  • 蜀主は李廷珪を北路行営都統、高彦儔を招討使、呂彦珂を副招討使、趙崇韜を都監に任じて迎撃態勢を整えた。
  • 趙季札は徳陽まで来ると、周軍がすでに入境したと聞いて恐れ、前進できなくなった。辺任の解任を願って先に輜重や妓妾を送り返し、自身も単騎で成都へ逃げ帰った。
  • そのため成都では敗報と受け取られて大混乱となり、蜀主は趙季札を御史台に繋いだのち、五月庚午に崇礼門で斬った。

六月 獄政と西方戦線

  • 世宗は内苑で囚人を親録し、汝州の馬遇という者の父と弟が役人に冤殺された事件を、自らの臨問によってようやく正した。これにより、諸長吏はみな獄訟の実情を親しく調べるようになった。
  • 西方では王景らが威武城東で李廷珪らと戦って敗れ、排陣使の胡立らが蜀に捕えられた。
  • 蜀主は密使を北漢と南唐へ送り、後周を牽制するため同時に出兵しようと図った。両国はこれに応じた。
  • 世宗は韓通を西南行営馬歩軍都虞候に任じた。
  • 南漢では通王劉弘政が殺され、高祖劉龑の子はついに絶えた。
  • また、澶州時代から財務能力を買っていた張美を、権點検三司事に任じた。しかし世宗は、かつて張美が公私を曲げて自分の求めに応じたことを知っていたため、能力は認めつつも公忠の臣とは見なさなかった。

七月 秦鳳攻略継続

  • 王景は西南行営都招討使、向訓は行営兵馬都監を兼ねた。
  • 宰相たちは久しく戦果がなく補給も続かないとして撤兵を請うたが、世宗は太祖皇帝を派遣して実情を見させた。
  • 太祖皇帝は秦鳳攻略は可能だと報告し、世宗はその意見を採用して続戦した。
  • 景範は判三司を罷め、まもなく父の喪により政事からも退いた。

八月から閏月 秦州・成州・階州の降伏

  • 王景らは蜀兵を破り、将卒三百を捕えた。
  • 蜀では伊審徵を行営へ送り、慰撫と督戦に当たらせた。
  • 後周では銅不足と私鋳対策のため、監を立てて採銅・鋳銭を再開し、官用・軍器・寺観の鐘磬などを除き、民間の銅器や仏像を期限内に官へ納めさせた。
  • 世宗は、仏を敬うとは善を行うことにほかならず、銅像そのものが仏ではない、民を救えるなら自らの身体であっても惜しまないと語った。
  • 蜀軍は李進を馬嶺寨に、別働隊を斜谷・白澗・唐倉鎮・黄花谷へ出して周の糧道を断とうとした。
  • 閏月、王景は張建雄を黄花へ、別の兵を唐倉へ向かわせ、蜀の帰路を断った。蜀の王巒は黄花で敗れ、唐倉でもまた敗れて捕えられ、将士三千人が虜となった。
  • 馬嶺・白澗の蜀軍も総崩れとなり、李廷珪・高彦儔らは青泥嶺へ退いた。韓繼勲は秦州を捨てて成都へ逃げ、観察判官の趙玭が城ごと降伏した。斜谷からの援軍も潰走した。
  • 成州・階州も相次いで降り、蜀中は震えた。世宗は趙玭を節度使にしようとしたが、范質が強く争って止めたため、郢州刺史にとどめた。

冬 秦鳳獲得後の情勢

  • 群臣が入賀すると、世宗は王溥に杯を与え、これは将帥の人選がよかったからだと述べた。
  • また、大寒の日に宮中で珍膳を食べるのは民に対して無功で禄を享けるようで心苦しい、だからこそ自ら矢石を冒して民の害を除くしかない、と語った。
  • 蜀の李廷珪は罪を待つ表を上った。
  • 十月、伊審徵が成都に戻って請罪した。蜀主は和を乞う書を送り、自ら「大蜀皇帝」と称したが、世宗は対等の礼を許さず返答しなかった。
  • 蜀主はさらに恐れ、剣門・白帝に兵糧を集め、防備を固めた。兵が増えて費用が足りず、鉄銭を鋳造し、国内の鉄器を専売化したため、民は苦しんだ。

南唐討伐への布石

  • 南唐主は温和で文章を好んだが、佞臣を喜んで登用したため政事は乱れた。建州攻略や湖南撃破の成功でますます驕り、かつては李守貞や慕容彦超の叛乱にも遥かに呼応して中原を乱そうとした。
  • さらに海路で契丹・北漢と通じ、中国攻略を約していた。
  • それまで毎冬、淮水浅瀬の要地には守兵を置く「把淺」が行われていたが、寿州監軍の呉廷紹が辺境は無事だとしてこれを廃止した。清淮節度使の劉仁贍は強く反対したが、聞き入れられなかった。
  • 十一月乙未、世宗は李穀を淮南道前軍行営都部署として廬州・寿州方面を管掌させ、王彦超を副え、韓令坤ら十二将を率いて南唐征討に向かわせた。
  • あわせて武行徳に命じ、唐末以来荒廃していた汴水の旧堤を埇橋以東から泗州方面へ疏導させた。人々は成し難いと言ったが、世宗は数年後には大利があるとした。

大梁外城の整備と鳳州陥落

  • 世宗は、刑賞は怒りや喜びに任せて行わないと語った。
  • さらに大梁では民が街路を侵して家を建て、車が通れないほど狭くなっていたため、街路をまっすぐにし、広いところでは三十歩にまで広げた。標内の墳墓も移させた。
  • 世宗は怨嗟の声が多いことを承知しつつ、結局は人々の利益になるのだから自分が非難を引き受けると述べた。
  • 王景らは鳳州を包囲し、韓通は城固鎮を築いて蜀の援軍を遮断した。
  • 十一月戊申、鳳州が落ち、蜀の威武節度使王環と都監趙崇溥ら、および将士五千が捕えられた。趙崇溥は絶食して死んだ。
  • 世宗は秦・鳳・階・成四州の蜀将士について、留まる者は厚遇し、帰る者には旅費を与えて返し、その四州の民には蜀が設けた臨時課役をすべて廃した。

淮南戦線の開始

  • 南唐では周軍来襲の報に恐慌が広がったが、寿州を守る劉仁贍だけは落ち着いて部署を整え、軍民の不安を抑えた。
  • 南唐主は劉彦貞を北面行営都部署として二万人を率い寿州救援へ向かわせ、皇甫暉・姚鳳には三万人を率いて定遠に屯させた。
  • さらに宋齊丘を金陵へ呼び戻し国難に備えさせ、殷崇義を知樞密院とした。
  • 李穀らは正陽から淮水を渡るため浮橋を架けた。
  • 十二月、王彦超・白延遇らは寿州城下や山口鎮で南唐兵を破った。
  • 年末には鄭仁誨が死去し、世宗は時日を避けずにその喪を弔って深く哭した。
  • 呉越王銭弘俶が朝貢してくると、世宗は詔を与え、出兵して南唐を撃つよう促した。