資治通鑑後周紀二 太祖聖神恭肅文武孝皇帝 廣順三年 953年

正月 湖南人事と野鶏族政策

  • 劉言を武平節度使・武安および静江等軍の制置使・同平章事とし、王逵を武安節度使、何敬真を静江節度使、周行逢を武安行軍司馬とした。
  • 折従阮には、野鶏族で改過する者には官爵と財物を与え、従わぬ者だけを討てと命じた。
  • 折従阮は、酋長の李万全らが誓約して帰服したが、なお従わぬ者もあると報告した。

営田務の廃止

  • 以前から辺地には屯田が設けられ、後には富民に耕作させる営田務が戸部の独立機関として運営されていた。しかし州県の統制が及ばず、役免れや盗賊の温床にもなっていた。
  • また、梁の太祖が淮南から大量に牛を奪って東南諸州の農民に貸し与え、年々租を納めさせたため、牛が死んでも租だけが残るという苦しみが続いていた。
  • 張凝と李穀の建議を受け、帝は戸部営田務を全面廃止し、その民を州県に編入した。田地・家屋・牛・農具は現に耕す者へ永業として与え、牛租も全廃した。
  • この年、戸部の戸籍は三万戸余り増えた。民はようやく安んじて家を修理し木を植え、土地の収益も大きく増した。
  • 一部には肥沃な田を売れば巨額の収入になると言う者もいたが、帝は「民の利益はそのまま国家の利益でもある」として退けた。

葉仁魯処刑

  • 萊州刺史の葉仁魯は帝の旧吏だったが、絹一万五千匹と銭千緡の収賄で死を賜った。
  • 帝は中使に酒食を持たせ、「法に当たる以上どうしようもないが、母は保護する」と伝えたため、葉仁魯は感涙した。

王峻の牽制と柴栄の入朝

  • 河の決壊を憂えた帝は、王峻の希望により視察を許した。
  • 一方、鎮寧節度使の栄はたびたび入朝を願っていたが、王峻はその英邁さを忌み、いつも妨げていた。
  • 閏月、王峻が河上に出ている間に、栄は再度入朝を求め、帝はこれを許した。

契丹の侵攻と撃退

  • 契丹は定州へ侵入し、義豊軍を包囲したが、定和都指揮使の楊弘裕が夜襲して大勝し、敵は退いた。
  • さらに鎮州へも侵攻したが、本道軍に撃退された。

栄の入朝と馬全乂の抜擢

  • 鎮寧節度使の栄が入朝した。旧李守貞配下の騎士・馬全乂も従って来たため、帝は召見して殿前指揮使に補した。
  • 帝は、馬全乂が主君に忠で、かつて河中で自軍を幾度も苦しめたことを称え、左右にも見習わせた。

高允権死去と延州問題

  • 彰武節度使の高允権が死ぬと、その子の高紹基は父の病を偽って自ら軍府を知ると称し、世襲を図った。
  • 観察判官の李彬が強く諫めると、高紹基は怒って李彬を斬り、逆に李彬が謀反したと奏した。
  • 王峻は藩鎮兼領を強く求め、帝はやむなく平盧節度使を兼ねさせた。
  • 高紹基はしきりに辺境警報を奏し、継承を既成事実にしようとしたが、朝廷が張仁謙を延州へ巡検に送ると、ついに隠し切れず父の喪を発した。

野鶏族の帰服

  • 折従阮は、野鶏族二十一部族が降ったと奏上した。

唐の邵棠の進言

  • 唐の在野人・邵棠は、淮上を巡って後周の君主が恭倹で政治を修めていること、唐軍が潭州・朗州で新敗したことを挙げ、後周の南征に備えるべきだと説いた。

湖南内紛の深まり

  • 王逵は潭州を得た後、何敬真・朱全琇・張文表・周行逢らにそれぞれ重職を与えた。
  • しかし何敬真と朱全琇は独自の牙兵を持って王逵と並び立ち、政務も分掌して、官民は誰に従うべきか迷った。宴席では諸将が酒に任せて騒ぎ、市井のようで上下の別がなかった。
  • その中で周行逢と張文表だけは王逵に礼を尽くし、王逵も二人を親愛した。
  • 何敬真は王逵と不和になって朗州へ帰ろうとし、劉言とも折り合えず、朱全琇と乱を企てた。
  • 劉言はもともと王逵の勢力を警戒しており、王逵が何敬真を使って自分をうかがわせているのではないかと疑った。王逵もそのことを聞いて恐れた。
  • 周行逢は「劉言はもとより我々と心を同じくしていない。何敬真・朱全琇も公の下にあるのを恥じている。早く手を打つべきだ」と説き、王逵も同意した。
  • ちょうど南漢が全州・道州・永州を侵したので、周行逢は朗州へ行き、劉言を説いて何敬真・朱全琇に南漢討伐を命じさせ、長沙に着いてから計略で除くことを提案した。
  • 劉言は何敬真を南面行営招討使、朱全琇を先鋒使として潭州兵と合流させた。
  • 王逵は郊外まで出迎えて歓待し、美妓をあてがって何敬真を長く酒宴に溺れさせた。
  • さらに朗州の李仲遷の部兵三千を先に嶺南へ向かわせたが、部下の符会らは帰郷心を利用されて反乱し、李仲遷を脅して勝手に朗州へ帰還した。
  • 王逵は、劉言の使者を装わせて何敬真を責め、「南漢の侵入が深いのに遊宴にふけるとは何事か、太師の命で西府へ護送する」と言わせ、何敬真を捕えて獄に入れた。朱全琇は逃走した。

二月 何敬真・朱全琇の誅殺

  • 朔日、王逵は何敬真を斬って軍中に示した。
  • まもなく朱全琇とその党十余人も捕えられ、皆斬られた。
  • 劉言もやむを得ず、擅帰して変事の原因となった符会ら数人を処刑した。

栄の帰鎮と新宝作成

  • 鎮寧節度使の栄は澶州へ帰った。
  • かつて契丹の徳光帝が晋の伝国宝を持ち去った後、後周ではこれに代えて白玉の宝二顆を新造した。一つは「皇帝承天受命之宝」、もう一つは「皇帝神宝」である。

王峻失脚

  • 晩年の王峻はますます狂躁となり、顔衎・陳観を宰相にして范質・李穀を代えよと迫った。
  • 帝が軽々しく宰相を替えられぬと答えても、王峻は言い募り、言葉は次第に不遜となった。帝は食事も取れぬほど責め立てられた末、寒食の休暇明けに取り計らうと言って退かせた。
  • その後、帝は宰相・枢密使らを密かに呼び、王峻を別室に幽閉した。そして、王峻が大臣たちを追い払い、唯一の皇子である栄の来朝にも怨みを抱き、枢密・宰相・藩鎮を兼ねてなお飽き足らぬと涙ながらに訴えた。
  • 翌日、王峻は商州司馬に左遷された。
  • 帝は鄴都留守の王殷が不安にならぬよう、その子・王承誨を派遣して事情を説明した。
  • 王峻は商州で腹痛を患い、帝はなお憐れんで妻を見舞いに行かせたが、ほどなく死去した。

延州への介入

  • 帝は折従阮に兵を分けて延州へ駐屯させた。
  • また、張懐貞に禁軍二指揮を率いさせて鄜延に置き、高紹基を圧迫した。
  • 高紹基はようやく恐れ、軍府事を副使の張匡図にすべて委ねた。
  • 客省使の向訓が延州の軍政を代行することとなった。

三月 晋王立と辺境整理

  • 栄を開封尹・晋王とした。
  • 鄭仁誨を鎮寧節度使に任じた。
  • 殺牛族は野鶏族と不和だったため、官軍に食糧を出し迎えたが、官軍がその財畜を掠めたため、今度は野鶏族と合流して反乱し、寧州刺史の張建武を包山で破った。
  • 帝は、これが郭彦欽の蛮族圧迫に起因するとして、郭彦欽を家居のまま廃した。

郭元昭の再起用

  • かつて解州刺史の郭元昭は、榷塩使の李温玉と争い、その婿である魏仁浦が権勢を利用していると疑って、温玉父子や魏仁浦を叛逆に連座させようとしたことがあった。
  • 当時、帝は冤罪と見抜いて不問に付していた。
  • 郭元昭は任期を終えて帰京するにあたり、魏仁浦が今や枢密承旨であることから報復を恐れた。
  • だが魏仁浦は私怨を抱かず、かえって帝に奏して郭元昭を慶州刺史に任じさせた。弟の魏仁滌が「兄は公事に私を交えない」と語った通りであった。

王仁鎬と馮延已の復帰

  • 王仁鎬を宣徽北院使兼枢密副使に任じた。
  • 唐主は馮延已をふたたび同平章事とした。

四月 張倣の誅殺

  • 周行逢は武平節度副使の張倣を嫌い、何敬真の親類であり、何敬真が臨刑の際に後事を託した相手でもあるから警戒せよと王逵に告げた。
  • 王逵は張倣を酒宴に招き、酔わせて殺した。

常思の入朝と債務免除

  • 帰徳節度使の常思が入朝し、在任中に宋州の民へ貸し付けた生糸四万余両を徴収したいので、そのまま上納したいと願った。
  • 帝は頷いて聞いたが、のちに宋州へ命じて、常思の貸付はすべて免除させた。常思は恥じる様子を見せなかった。

蜀の学校復興

  • 唐末以来、各地で学校教育は衰絶していた。
  • 蜀の毋昭裔は私財百万を投じて学館を建て、さらに九経を版刻して印刷することを願い出た。蜀主が許可したため、蜀中の学問は再び盛んになった。

六月 契丹将の来降と九経刊行

  • 滄州から、契丹の盧台軍を統轄していた張蔵英が来降したと報じた。
  • かつて唐明宗の時代に冯道・李愚が田敏へ九経校正と版刻を進言しており、この年ついに板木が完成して献上された。長年の事業であり、乱世にあっても九経が広く流布する基盤となった。

王逵、朗州を襲い劉言を幽閉

  • 王逵は周行逢に潭州を任せ、自ら兵を率いて朗州を急襲し、これを奪った。
  • 指揮使の鄭珓を殺し、武平節度使・劉言を捕えて別館に幽閉した。

七月 王殷入朝請願と唐の飢饉

  • 王殷は三度にわたって入朝を請うたが、帝は真意を疑い、使者を送って停止させた。
  • 唐では大旱魃で井戸も涸れ、淮水すら徒歩で渡れるほどとなった。飢民は続々と北へ逃れ、濠州・寿州は兵で阻んだが、民は兵と争ってなお北へ来た。
  • 帝は「彼も我も同じ民だ」と言い、淮北へ米を買いに来ることを認めた。
  • すると唐側は倉を築いて大量に米を買い入れ、軍糧に充てた。

八月 唐民への米輸送制限と湖南承認

  • 帝は、唐の民が人や家畜で背負って米を運ぶことは許すが、舟や車で大量輸送することは禁止した。
  • 王逵は、劉言が朗州をもって唐へ降ろうとし、さらに潭州を攻めようとしたので、部下が従わず廃して幽閉したと、劉言に罪を着せて奏した。
  • また、自分はすでに朗州を平定し軍府を安んじたので、節度使府を再び潭州へ移したいと請うた。
  • 朝廷は翟光裔を湖南に派遣して慰撫させ、王逵の請願を認めた。
  • 王逵は長沙へ帰り、朗州のことは周行逢に任せた。
  • さらに潘叔嗣を遣わして、劉言を朗州で殺させた。

九月 洪水・内応未遂・南漢の冊立

  • 白重賛が、決壊した黄河の堤防を塞いだと報告した。
  • 契丹は楽寿へ侵攻した。斉州の戍兵にいた劉漢章は都監杜延熙を殺し契丹に応じようとしたが、失敗して一党ともども誅された。
  • 南漢主は子の劉継興を衛王、劉璇興を桂王、劉慶興を荆王、劉保興を禎王、劉崇興を梅王に立てた。
  • 青州・徐州から南は安州・復州、西は丹州・慈州、北は貝州・鎮州に至るまで大水となった。

帝の病と郊廟造営

  • 帝は秋以来、風痺を患い、飲食や歩行に支障をきたした。
  • 術者が財を散じて厄を払うよう勧めたこともあり、帝は南郊祭祀を行おうとした。
  • 梁以来、郊祀は洛陽で行う例だったため迷ったが、執政たちは「天子のいる都で百神を祀ってよい」と進言した。
  • そこで大梁に円丘・社稷壇を築き、太廟も創建した。梁以来、郊廟整備はなおざりだったため、これは大きな制度整備であった。
  • 馮道を洛陽へ遣わし、太廟・社稷の神主を迎えさせた。
  • 南漢は大赦を行った。

十一月・十二月 神主迎奉と王殷失脚

  • 太常は洛陽にならって四郊の諸壇を築くよう請い、採用された。
  • 十二月朔日、神主が大梁へ着き、帝は西郊まで出迎えて太廟に祔した。
  • 鄴都留守・天雄節度使・侍衛親軍都指揮使・同平章事の王殷は、功を恃んで専横となり、河北諸鎮への勅命も勝手に書面で出し、民財の収奪も多かった。
  • 帝は「鄴都の府庫は豊かだ。必要ならそこから取ればよい」と、遠回しに戒めた。
  • 成徳節度使の何福進が入朝し、王殷の密事を帝に告げたため、帝はますます疑いを深めた。
  • 王殷が入朝すると、帝は京城内外巡検に任じて都に留めた。
  • その後、王殷は巡邏のため鎧や武器を数百の従者に支給してほしいと求めたが、帝は難色を示した。
  • 帝は病身のまま郊祀を控え、しかも王殷が震主の勢いで近侍していたため、周囲の疑念は強まった。
  • 壬申、帝は力をふりしぼって滋徳殿に出御し、起居に来た王殷をその場で捕えた。郊祀の日に乱を起こそうとしていたという名目で登州へ流し、城外で殺した。
  • 鄭仁誨を鄴都へ派遣して安撫させたが、鄭仁誨は王殷の家財を利して、その子も勝手に殺し、家族を登州へ移した。
  • 唐では徐鉉が、科挙は始めたばかりで急に廃止すべきではないと論じ、唐主はこれを容れて再開した。
  • また楚州刺史の田敬洙が白水塘修築による灌漑を提案し、馮延已・李徳明らが屯田拡張を進めたが、民田の侵奪と大きな労役を生んだ。徐鉉が実地調査して民田を返還すると、かえって讒言で舒州へ流された。白水塘事業自体も結局成らなかった。
  • 唐主はさらに馮延魯を巡撫使として派遣しようとし、徐鍇がその無才を諫めたため、徐鍇も左遷された。徐鍇は徐鉉の弟である。
  • 道州の盤容洞蛮の酋・盤崇は、自ら盤容州都統を称し、郴州・道州をたびたび侵した。

十二月乙亥 太廟親祭

  • 帝は太廟で朝享し、袞冕を着けて左右に支えられながら階段を上ったが、一室に到っただけで、酒を捧げ頭を下げるのが精一杯で、拝礼もできず退いた。
  • そこで晋王栄に後の礼を終えさせた。
  • その夜は南郊に宿したが、病はいよいよ重くなり、一時は危篤に陥った。夜半にやや持ち直した。