資治通鑑後周紀一 太祖聖神恭肅文武孝皇帝上 廣順 一年 951年

春正月 後周の建国と即位

  • 正月丁卯、漢の太后が詔を下し、監国の符宝に皇帝位を授けた。監国は皋門から宮中に入り、崇元殿で即位し、自らを周王室の後裔・虢叔の子孫と称して国号を「周」と定め、元号を広順に改め、大赦を行った。
  • 楊邠・史弘肇・王章らには追贈がなされ、官費で葬儀を営み、その子孫の登用も命じられた。
  • 倉庫・市場・官の収納で慣行化していた「斗余」「称耗」などの上乗せ徴収を禁じ、余分な進納物も廃止した。
  • 窃盗・姦淫などの刑罰は、後晋の天福元年以前の基準に戻された。反逆以外で親族連座や家産没収を行うことも禁じ、五代の苛酷な刑政を是正した。
  • 唐・後唐・後晋・後漢の皇帝陵については、守陵戸や供奉の制度をおおむね旧例どおりに存続させた。
  • かつて楊邠が、藩鎮の補佐のために三司の軍将を都押牙・孔目官・内知客などへ任じた結果、節度使を抑える専横が生じていたため、これを一括して廃止した。

李崇矩の誠実

  • 太祖は史弘肇の旧吏である上党の李崇矩に、弘肇の一族の所在を調べさせた。崇矩は弘肇の弟・弘福の生存を報告した。
  • 崇矩は、かつて弘肇の家産台帳を預かっていたため、その財産を把握しており、すべて弘福に返還した。太祖はこれを称賛し、崇矩を皇子の郭栄の配下に置いた。

人事と後漢宮廷の整理

  • 戊辰、前の復州防禦使王彦超を、徐州を預かる武寧節度使の仮任とした。徐州にはなお劉贇側の鞏廷美らが立てこもっていた。
  • 後漢の李太后は西宮に移された。己巳、尊号を昭聖皇太后とした。
  • 開封尹兼中書令の劉勲が死去し、その後、王峻を同平章事に加えた。
  • 衛尉卿の劉皞に、後漢の隠帝の喪事を主宰させた。これは劉勲の死後、近親者がいなかったためである。

河東の劉崇、独立へ傾く

  • 河東節度使の劉崇は、隠帝が殺されたと聞いて南征を考えたが、湘陰公劉贇が立てられると聞いて一度は思いとどまった。
  • しかし太原少尹の李驤が、郭威はいずれ自ら帝位を奪うはずだと密かに説き、太行を越えて孟津を押さえるべきだと進言した。
  • 劉崇はこれを父子の離間策だとして怒り、李驤をその妻とともに処刑し、あわせて朝廷に奏して自らに二心のないことを示した。
  • だが劉贇が退けられると、劉崇はやはり劉贇を晋陽へ迎えたいと申し出た。朝廷は、いま劉贇は宋州にいて、やがて京師に送ってしかるべく処置するので心配無用であり、協力すれば王爵を加えて河東を永く任せると返答した。

徐州の抵抗

  • 鞏廷美・楊温らは、湘陰公劉贇が失脚したと知ると、劉贇の妃董氏を奉じて徐州に立てこもり、河東の援軍を待った。
  • 太祖は劉贇自身の手紙で説得させた。彼らは降伏を考えたが、後で処刑されるのを恐れた。
  • そこで太祖は重ねて書を送り、彼らは主人への忠義を尽くしたのであって責めるべきでなく、新たな節度使が入城したのち、各自を刺史に任ずるつもりだと伝えた。

契丹との関係修復

  • 契丹は前年に内丘を攻めた際、死傷が多く、さらに月食や不吉な兆候が軍中に起こったため、深追いをやめて引き揚げた。
  • その後、契丹は後漢に和睦を求める使者を送ったが、到着したころには後漢が滅んでいた。安国節度使の劉詞がその使者を大梁へ送った。
  • 太祖は左千牛衛将軍の朱憲を返使として契丹へ遣わし、王朝交替の経緯を説明し、金器や玉帯を贈った。

鄴都の重視と王殷の赴任

  • 太祖は、鄴都が河北の鎮撫と契丹への備えの要地であるとみて、腹心を置こうとした。
  • 乙亥、寧江節度使・侍衛親軍都指揮使の王殷を、鄴都留守・天雄節度使・同平章事とし、侍衛親軍の統率権もそのまま持たせた。親軍司を率いて赴任させた。

後漢隠帝への礼

  • 丙子、太祖は百官を率いて西宮へ赴き、後漢隠帝のために哭礼を行い、喪服を着して、天子に準ずる礼を尽くした。
  • 慕容彦超は使者を送って貢物を献じた。太祖は彼が疑懼していることを察し、兄弟として民をともに安んずるよう慰撫する詔を与えた。

劉贇の殺害と北漢の成立

  • 戊寅、湘陰公劉贇は宋州で殺された。
  • 同日、劉崇は晋陽で皇帝を称し、後漢の乾祐年号をそのまま用いた。支配地は并・汾・忻・代・嵐・憲・隆・蔚・沁・遼・麟・石の十二州に及んだ。
  • 劉崇は節度判官の鄭珙を中書侍郎、観察判官の趙華を戸部侍郎として、ともに同平章事に任じた。次子の劉承鈞を侍衛親軍都指揮使・太原尹とし、李存瓌・張元徽・陳光裕らも要職に置いた。
  • ただし劉崇は、自分の即位はやむを得ぬ措置だとし、宗廟を建てず、祭祀も家人の礼で行い、宰相や節度使の俸禄もきわめて薄く抑えた。そのため北漢では清廉な官吏が育ちにくかった。
  • 客省使の李光美が制度設計を担い、北漢の朝廷体制は多く彼の知識に拠った。
  • 劉崇は劉贇の死を聞いて、李驤の諫言を用いなかったことを悔い、李驤の祠を立てて祭らせた。

政務の刷新

  • 己卯、馮道を中書令とし、竇貞固を侍中、蘇禹珪を司空に加えた。
  • 徐州の鞏廷美らがなお門を開かなかったため、王彦超は討伐の許可を求め、朝廷は進軍を命じた。
  • 太祖は王峻に対し、自分は寒微から起こり乱世の苦しみを知るので、帝王になったからといって自らの奉養を厚くして民を苦しめるつもりはないと語った。
  • 庚辰、四方からの珍味・美物の進献を大幅に停止し、「君主一人への奉仕のために庶民が損を受けるべきではない」とした。さらに、有益な治国安民の策があれば文武官は飾らず上奏せよと命じた。

王峻の慎み

  • 太祖は蘇逢吉の邸宅を王峻に与えようとしたが、王峻は、それはかつて李崧一族を滅ぼす原因になった家であるとして辞退した。

契丹と北漢の接近、晋州侵攻の始まり

  • 契丹主が北帰した際、横海節度使の潘実納は本鎮を棄てて従い、契丹では西南路招討使とされた。
  • 北漢成立後、契丹主は潘実納を通じて劉承鈞に書を送り、劉承鈞はこれに返書して、晋朝の前例にならって北朝の援助を請いたいと述べた。
  • 契丹主はこれを喜び、北漢も陰地・黄沢・団柏に兵を置いて周側の動きをうかがった。
  • 丁亥、劉承鈞を招討使とし、白従暉・李存瓌らと歩騎一万を率いて晋州に侵攻させた。白従暉は吐谷渾の出身であった。
  • 郭崇威は郭崇、曹威は曹英と、それぞれ太祖の諱を避けて改名した。

二月 郭栄の出鎮

  • 丁酉、皇子で天雄牙内都指揮使の郭栄を鎮寧節度使に任じ、王敏・崔頌・王朴らを幕僚として付した。王朴の起用は、のちの世宗政権で重用される端緒となった。

北漢軍の晋州・隰州攻撃

  • 戊戌、北漢軍は五路から晋州を攻めた。節度使王晏は城門を閉ざして出撃せず、劉承鈞はこれを臆病と見て城をよじ登らせたが、伏兵の反撃で大損害を受けた。
  • 承鈞は安元宝に晋州西城を焼かせようとしたが、安元宝は周に降伏した。
  • そのため北漢軍は隰州へ転進した。癸卯、隰州刺史許遷は孫継業に迎撃させ、長寿村で程筠らを捕えて斬った。
  • 北漢軍はなお州城を数日攻めたが陥せず、死傷者が増えたため退いた。許遷は鄆州の人である。

楚と南唐

  • 甲辰、楚王馬希萼は掌書記の劉光輔を南唐へ派遣して入貢した。
  • 太祖は後漢宮中の宝玉器を庭に出させて砕き、帝王にとってこのような物は不要だと示した。隠帝が嬖幸とともに禁中で遊び、珍玩を手放さなかったことを戒めとしたのである。
  • 丁未、契丹主は舒古済を朱憲とともに派遣し、太祖の即位を祝賀した。
  • 戊申、前資官に外州居住の自由を認め、従来の制限を解いた。
  • 陳思讓は湖南へ向かっていたが、その頃すでに馬希萼が長沙を奪っていたため、郢州にとどまり、召還された。

契丹・北漢・慕容彦超

  • 丁巳、尚書左丞の田敏を契丹へ遣わした。
  • 北漢は通事舎人の李𧦬を契丹へ派遣して援兵を請うた。
  • 慕容彦超には中書令を加え、翰林学士魚崇諒を兗州へ派遣して慰撫した。魚崇諒は、もとは魚崇遠といったが諱避けで改名していた。
  • 慕容彦超は表を上げて謝意を示した。

三月 慕容彦超への詔

  • 壬戌朔、太祖は慕容彦超に返詔した。かつて少主が讒言を用いたために急遽入京を命じたが、彦超は国難を顧みて直ちに駆けつけた、その忠節は疑っていない、今後も国と民のために尽くせば交代は考えない、という内容であった。

南唐の楚冊封と湖南の混乱

  • 南唐は馬希萼を天策上将軍・武安武平静江寧遠節度使兼中書令とし、孫忌・姚鳳を冊礼使として送った。
  • 丙寅、陳思讓を磁州へ移し、黄沢路を扼させた。
  • 馬希萼は長沙を取ったのち、旧怨を思って多くを殺し、昼夜酒色にふけった。政務は馬希崇に委ねたが、希崇も私曲が多く、財政は乱兵への賞で尽き、士卒や民衆の不満が高まった。
  • 劉光輔は南唐で、湖南は民が疲れ、主君は驕っていて取るに足ると密告した。南唐主は辺鎬を信州刺史として袁州に屯させ、湖南進出をひそかに計画した。

謝彦顒への反感と朗州兵の離反

  • 馬希萼の寵臣・謝彦顒は、もとは家奴だったが寵遇を受けて妻妾と同席し、希崇にも無礼にふるまうほどで、諸将の憎しみを買っていた。
  • 長沙の府舎が焼けたため、朗州の王逵・周行逢らが兵千余を率いて修復工事に当たったが、労役は過酷で報酬もなく、士卒の怨みが募った。
  • 壬申の朝、王逵・周行逢は部下を率いて長柄の斧や棒を持ち、朗州へ逃げ帰った。馬希萼は酒に酔っていてすぐには気づかなかった。
  • 癸酉、馬希萼は唐師翥に千余を与えて追わせたが、朗州で伏兵に遭い、唐師翥軍は壊滅した。
  • 王逵らは馬光賛を退け、馬光恵を立てて知州事とし、やがて節度使として奉じた。軍府のことは王逵・何敬真・張倣らが合議で決めるようになった。
  • 南唐は厚賞で懐柔しようとしたが、王逵らは賞だけ受け取り、勅命には従わなかった。

徐州平定と周・唐の対境方針

  • 王彦超は徐州を攻略し、鞏廷美らを殺した。
  • 北漢の李𧦬が契丹へ到着すると、契丹は伊喇摩哩を返使に立てた。
  • 丙子、朝廷は南唐と本来私怨はないとして、淮辺の州鎮に対し、国境を越える兵民を勝手に侵入させぬこと、往来する商旅を妨げぬことを命じた。
  • 己卯、潞州は渉県で捕えた北漢兵二百六十余人を送ったが、朝廷は衣服を与えて放還した。
  • 呉越王銭弘俶には諸道兵馬都元帥を加えた。

夏四月 淮南飢民への対応

  • 壬辰朔、淮辺の州鎮から、淮南の飢民が境を越えて穀物を買いに来ているが、取り締まってよいかとの上奏があった。
  • 太祖は、向こうの民もこちらの民と同じだとして、州県・津・舗に対し、これを妨げてはならないと命じた。

蜀の伊審徴

  • 蜀では、通奏使の高延昭が枢密院掌握を固辞したため、丁未、伊審徴を通奏使・知枢密院事とした。
  • 伊審徴は蜀高祖の妹の子で、蜀主と親しく育ち、政務全般で相談相手となったが、経世の志を唱える一方で、貪欲・奢侈・不正に流れ、王昭遠と結んで蜀政を衰えさせた。

呉越の処置

  • 呉越王銭弘俶は、廃された銭弘倧を東府へ移し、宮室や園圃を整えて手厚く遇した。

契丹・北漢の冊封関係

  • 契丹主は北漢に使者を送り、周の田敏が来て毎年十万緡を送る約束を求めていると伝えた。
  • 北漢主は鄭珙に厚い賄賂を持たせて契丹へ謝意を表し、自らを「姪皇帝」と称して、叔父たる契丹皇帝に冊礼実施を求めた。
  • 五月己巳、後周は姚漢英らを契丹へ派遣したが、契丹に留め置かれた。
  • 辛未、鄭珙は契丹滞在中に死去した。宴飲の強要が原因とみられる。
  • 義武節度使の孫方簡は父の諱を避けて方諫と改名した。
  • 定難節度使の李彛殷は北漢へ表を送り、接近を図った。

六月 宰相人事

  • 辛亥、王峻を左僕射兼門下侍郎・同平章事とし、范質・李穀も同平章事に任じた。李穀は引き続き三司を兼ねた。
  • 竇貞固・蘇禹珪は宰相職を解き、本官に復した。
  • 癸丑、范質に樞密院参知を兼ねさせ、丁巳には翟光鄴を宣徽北院使のまま樞密副使にした。

新朝を支える王峻・范質・李穀

  • 太祖は河中討伐の頃から人望が集まり、転運使だった李穀をそれとなく試したが、李穀は常に人臣としての節を尽くすと答えたため、太祖は彼を高く評価していた。
  • 建国直後で四方多事の中、王峻は軍政に心を尽くし、范質は明敏で法度に厳格、李穀は沈着で識略があり、三者ともに新政権の屋台骨となった。

朗州の政変と劉言の擁立

  • 武平節度使の馬光恵は愚鈍で酒好きであり、諸将を統率できなかった。
  • 王逵・周行逢・何敬真らは、辰州刺史の劉言が勇敢で蛮夷の信望も厚いとみて迎えようとした。劉言は彼らの制御の難しさを知りつつも、拒めば攻められると考え、単騎で赴いた。
  • 到着後、衆軍は馬光恵を廃して南唐へ送り、劉言を武平留後として推戴し、南唐には旄節を求め、後周には藩属を称した。

呉越の旧臣復権

  • 呉越王銭弘俶は、以前罪なくして失脚させていた仁俊を復職させ、官爵を元に戻した。

北漢の正式冊封

  • 契丹は燕王蘓葉らを派遣し、北漢主を「大漢神武皇帝」として冊命し、その妃を皇后とした。
  • 北漢主はこの頃、名を旻と改めた。

秋七月 北漢の対契丹外交

  • 北漢主は翰林学士の衛融らを契丹へ送り、冊礼への謝意を表すとともに、後周攻撃のための援軍を求めた。

八月 漢隠帝の葬礼と藩鎮異動

  • 壬戌、後漢隠帝を頴陵に葬った。
  • 義武節度使の孫方諫が入朝し、壬子に鎮国節度使へ移され、その弟の孫行友が義武留後となった。
  • あわせて建雄節度使の王晏を徐州へ移し、武寧節度使の王彦超を義武へ移した。両者は鎮地を交換した形である。
  • 戊午、先に亡くなっていた柴氏を追尊して皇后とした。

九月 契丹の内乱

  • 北漢主は李存瓌に兵を与えて団柏から侵入させ、契丹もこれに合わせて兵を動かそうとした。
  • 契丹主は諸部の酋長を九十九泉に集めて南征を協議したが、諸部は疲弊していて南下を望まず、主が強行しようとした。
  • 癸亥、新州の火神淀に至ったところで、燕王蘓頁と太寧王烏遜が反乱を起こして契丹主を弑し、蘓頁を立てた。
  • 契丹主徳光の子である舒嚕が南山へ逃れると、諸部は舒嚕を奉じて蘓頁を攻め、舒嚕は蘓頁一族を誅して即位し、元号を応暦と改めた。
  • 北漢は王得中を派遣して新帝の即位を祝し、引き続き叔父として仕え、晋州攻撃の援軍を求めた。
  • 新たな契丹主は若年で、夜通し飲酒し昼まで寝ることが多く、「睡王」と呼ばれた。のちに名を明と改めた。

蜀と楚の内紛

  • 壬申、蜀は范仁恕を同平章事に任じた。
  • 馬希萼は長沙を取った後、許可瓊を厚遇せず、怨望を疑って恭州刺史へ左遷した。
  • さらに徐威・陳敬遷・魯公綰・陸孟俊らを城西北に配して朗州勢に備えさせたが、兵を慰撫しなかったため、将卒は反乱を企てた。
  • 戊寅、希萼の宴席を徐威らが斧や棍棒を持って急襲し、謝彦顒を捕えて惨殺したうえで、馬希萼を幽閉し、馬希崇を武安留後として立てた。長沙では略奪が横行した。

劉言の進軍と長沙の混迷

  • 劉言は馬希崇擁立を聞くと、簒奪を討つと称して潭州へ進軍し、壬午に益陽西方へ駐屯した。希崇は恐れて二千を派して防がせるとともに、朗州へ和を請い、隣藩として共存したいと申し入れた。
  • しかし李観象は、長沙の旧将たちは劉言と並び立つことを望まぬはずで、まず希崇の首を要求すべきだと説き、劉言はこれに従った。
  • 希崇は恐れて楊仲敏・劉光輔・魏師進・黄勍ら十余人を斬り、その首を送ったが、朗州側は本物ではないと怒った。使者の李翊は恐れて自殺した。
  • 希崇もまた酒色にふけり、政治は不公正で妄言が多く、人心は離れていった。

衡山での馬希萼再起

  • かつて長沙陥落後に杖刑を受けて追放されていた彭師暠に、希崇は馬希萼を衡山へ護送させた。実際には師暠に希萼を殺させる意図があったが、師暠は拒み、かえって丁重に仕えた。
  • 丙戌に衡山へ着くと、衡山指揮使の廖偃とその叔父廖匡凝が、馬氏への旧恩から希萼擁立を決めた。
  • 荘戸や郷人を集めて兵とし、彭師暠とともに希萼を衡山王と称し、県を行府とし、湘江を柵で遮り、竹で戦艦を作って兵を募った。数日で一万余が集まり、多くの州県が呼応した。
  • 彼らは劉虚已を南唐へ送り、援軍を求めた。

南唐の介入決定

  • 徐威らは、希崇の失政ではいずれ破局すると見て、希崇を殺して自ら罪を免れようとも考えた。希崇はこれを察知し、范守牧を南唐へ派遣して救援を請うた。
  • 南唐主は辺鎬に袁州から一万人を率いて長沙へ進ませた。

冬十月 陳思讓の勝利

  • 辛卯、潞州巡検の陳思讓は虒亭で北漢兵を破った。

南唐、長沙を接収

  • 辺鎬は醴陵に入り、楚王希崇は使者を送って軍をねぎらった。癸巳には拓跋恒を遣わして正式に降伏を申し入れた。拓跋恒は、長く生き延びてついに小児の降伏文書を運ぶ役目をすることになったと嘆いた。
  • 癸卯、希崇は弟姪を率いて辺鎬を迎え、塵に伏して礼をとった。辺鎬は詔勅を称して労い、甲辰に希崇らを伴って入城した。
  • 辺鎬は瀏陽門楼に宿し、湖南の将吏を厚く慰撫した。ちょうど湖南が飢饉だったため、馬氏の倉粟を大々的に放出して救済し、楚の人々は大いに喜んだ。

晋州攻防

  • 契丹は蕭禹厥に奚・契丹兵五万を率いさせ、北漢軍とともに再び南侵させた。北漢主自身も二万を率いて陰地関から晋州へ攻め入った。
  • 丁未、晋州城北に布陣し、三面から昼夜攻撃した。遊兵は絳州にまで出没した。
  • このとき王晏はすでに転出し、王彦超はまだ赴任していなかったため、巡検使の王万敢が仮に晋州を預かり、史彦超・何徽とともに守備した。
  • 癸丑、南唐の劉仁贍は戦艦二百で岳州を取り、降伏者を受け入れて民心をつないだ。

南唐の驕り

  • 南唐の百官は湖南平定を祝ったが、起居郎の高遠は、取るのは容易でも守るのは難しいと警告した。司徒致仕の李建勲も、禍いはここから始まるのではないかと嘆いた。
  • 南唐主はこれまで郊廟親祭を行わなかったが、湖南を一挙に得て、諸国も指揮ひとつで平らげられると思い上がった。
  • 魏岑は宴席で、自分は若いころ元城を遊んでその地を愛したので、中原平定後には魏博節度使を望むと述べ、南唐主はこれを許した。主君も臣下もともに驕慢であった。
  • 馬希萼は自分が潭州に据えられることを望んだが、潭州の人々が辺鎬を求めたため、南唐主は辺鎬を武安節度使とした。

河西への人選

  • 王峻の旧知で、兗州の牙将だった申師厚は職を失って窮乏し、路上で王峻の馬前に拝礼した。
  • ちょうど凉州留後の折逋嘉施が朝廷に節帥任命を求めていたが、辺境ゆえに志願者がいなかった。王峻は申師厚を推挙し、丁巳、河西節度使に任じた。

馬氏一族の退去

  • 辺鎬は馬希崇に対し、一族を率いて南唐へ入朝するよう促した。馬氏一族は涙を流して別れを惜しみ、厚賂で長沙居留を願おうとした。
  • 辺鎬は、両家は長年の仇敵であり、今こうして頼ってきた以上、もしなお態度を二転三転させれば予測不能の禍いがあると諭し、希崇は応えられなかった。
  • 十一月辛酉、馬氏一族および将佐千余人は号泣しながら舟に乗って去り、見送る者たちも谷に響くほど泣いた。

王峻の晋州救援

  • 晋州に北漢・契丹軍がなお居座っていたため、甲子、王峻を行営都部署として救援に向かわせた。諸軍はみなその指揮を受け、便宜に従って将吏を選ぶ権も与えられた。
  • 乙丑、王峻が出発し、太祖は自ら城西まで見送った。

桂州方面の混乱と南漢の拡張

  • 楚の静江節度副使で桂州を知る馬希隠は、馬殷の少子であった。楚の内紛に乗じ、南漢主は宦官の呉懐恩に兵を与えて国境に駐屯させ、機をうかがっていた。
  • 馬希広は以前、彭彦暉に龍峒を守らせていたが、馬希萼はこれを桂州都監として希隠を牽制させた。希隠はこれを嫌い、密かに許可瓊を呼び寄せた。
  • 許可瓊は南漢を恐れて蒙州を棄て、桂州へ急行し、彭彦暉と市中で戦ってこれを破った。桂州には留まったが、呉懐恩は蒙州を占拠し、桂管一帯を侵掠した。
  • 希隠と許可瓊は対応できず、酒を酌み交わして泣くばかりであった。
  • 南漢主は希隠に書を送り、楚の破滅は兄弟の争いのせいであり、唐兵が長沙を取った今、桂林も次に危うい、婚姻と旧好により救援に来たのだと説いた。
  • 希隠は僚佐と降伏を協議したが、支使の潘玄珪は反対した。
  • 丙寅、呉懐恩が桂州城下に急到すると、希隠と許可瓊は夜のうちに城門を斬って全州へ逃れた。桂州は潰え、南漢は宜・連・梧・厳・富・昭・柳・龔・象などを次々と平定し、ついに嶺南全域を掌握した。

衡山への圧力

  • 辛未、辺鎬は李承戩を先鋒として衡山へ向かわせ、馬希萼に入朝を促した。
  • 庚辰、馬希萼は将佐・士卒一万余を率いて潭州から東へ下った。

十二月 親征論と王峻の意見

  • 王峻は陝州に十日ほどとどまり、太祖は晋州の危急を憂えて、自ら沢州路から出て王峻と合流し救援しようと考えた。
  • 戊子朔、三日後の親征を命じる詔を下したが、使者が陝州に着くと、王峻は、晋州城は堅く急には落ちず、劉崇軍は鋭気があるから今は争わず、その気が衰えるのを待つべきだと述べた。
  • また、太祖が軽々しく出征すれば、慕容彦超が汴京に迫る危険があると指摘した。太祖はこれを聞いて、自ら耳をつまんで危うく大事を誤るところだったと認め、庚寅、親征中止を命じた。

慕容彦超の叛意

  • 慕容彦超は徐州平定を聞いてますます恐れ、亡命者を集め、兵糧を蓄え、ひそかに北漢と結ぼうとした。文書が発覚して朝廷に報告され、また商人を装った者を南唐に送って援軍を求めてもいた。
  • 太祖は鄭好謙を送って誓いを交えつつ慰撫したが、彦超はなお不安を深め、都押牙鄭麟をたびたび入朝させて帰順を装いながら、実は朝廷の機密を探らせた。
  • さらに、天平節度使高行周が朝廷を誹謗し彦超と連携しているかのような偽書を献上したが、太祖は一見して彦超の偽計と見抜き、その書を逆に高行周へ示して安心させた。

王峻の晋州到着と追撃

  • 庚子、王峻は絳州へ到着し、乙巳に晋州へ向かった。
  • 晋州南の蒙阬は険要で、王峻は北漢軍に先に押さえられるのを恐れたが、前鋒がすでに通過したと聞いて安堵した。
  • 北漢主は長く晋州を攻め落とせず、折からの大雪で略奪もできず、軍糧が欠乏した。契丹軍も帰還を望み、王峻が来たと聞くと、夜に営を焼いて撤退した。
  • 王峻が晋州へ入ると、諸将は追撃を勧めたが、王峻は即決できなかった。翌日ようやく仇弘超・薬元福・陳思讓・康延沼らに騎兵で追わせ、霍邑で北漢軍に大打撃を与えた。
  • しかし道が狭く、康延沼が慎重すぎて追撃を強めなかったため、北漢軍は逃げおおせた。薬元福は、今ここで殲滅しなければ後患になると主張したが、諸将は進みたがらず、王峻も使者を送って追撃停止を命じた。
  • 北漢・契丹軍は晋陽へ戻るまでに兵馬の三、四割を失った。蕭禹厥は戦果がないことを恥じ、責任を一人の大酋長に負わせて市中で釘づけにし、十日余ののち斬った。
  • これ以後、北漢主は大規模な南進の意図をしばらく抑えるようになった。北漢は土地が痩せて民も貧しく、内は軍国に、外は契丹への貢納に苦しみ、逃民が周へ流入した。

南唐の湖南処分

  • 南唐主は宋斉丘を太傅とし、馬希萼を江南西道観察使として洪州に移し、なお楚王の爵を与えた。
  • 馬希崇は永泰節度使として舒州に置いた。湖南の将吏には、身分に応じて刺史・将軍・卿監などの官が与えられた。
  • 廖偃・彭師暠の忠義は褒められ、前者は左殿直軍使・萊州刺史、後者は殿直都虞候となり、多くの賜与を受けた。
  • 湖南の刺史たちは南唐へ入朝したが、永州刺史王贇だけは遅れ、南唐主に毒殺された。

南漢の郴州奪取と南唐の防衛

  • 南漢主は潘崇徹と謝貫に郴州を攻めさせた。南唐の辺鎬は救援軍を出したが、潘崇徹に義章で敗れ、郴州を奪われた。
  • 辺鎬は全州・道州の刺史補任を願い出、南唐主は廖偃を道州刺史、張巒を全州知州として、南漢に備えさせた。

蜀・唐・湖南の余波

  • この年、南唐主は安化節度使の王延政に山南西道節度使を遥授し、光山王に改封した。
  • もと蒙城鎮将で唐に降った咸師朗の兵は奉節都とされ、湖南平定後も用いられた。
  • 南唐は湖南から金帛・珍玩・倉粟だけでなく、舟艦や亭館、花果に至るまで優れたものを金陵へ移し、楊継勲らに厳格な租税徴収をさせて、駐屯軍の糧に充てた。これにより湖南の人心は失望へ転じていった。