資治通鑑後漢紀 隠皇帝上 乾祐 二年 949年

正月 河中包囲戦の転機

  • 正月乙巳朔、大赦が行われた。
  • 郭威が河中へ戻る途中、戊申の夜、李守貞は王継勲ら精兵千余を南へ回し、河沿いの漢軍柵を奇襲した。岸を削って登り、火を放って大いに騒がせた。
  • 軍中は混乱したが、劉詞は動じず、賊は小盗にすぎぬと命じて反撃した。閻晋卿は、敵兵の黄紙の鎧は火に照らされれば見分けやすいと言い、李韜が先陣を切ると、兵も続いた。河中兵は敗走し、七百人が死に、王継勲も重傷を負った。
  • 己酉、郭威が到着すると、劉詞は罪を請うたが、郭威はかえって厚く賞し、この防戦こそ最も気がかりだったと述べた。
  • 李守貞が先に村落へ酒を売り歩かせ、代金も取らずに見張りの騎兵を酔わせていたため、奇襲が成立したことがわかり、郭威は以後、犒宴以外の私飲酒を禁じた。
  • 愛将の李審が朝に少し酒を飲んだだけでも、郭威は軍律違反として即座に斬り、全軍に示した。
  • 甲寅、蜀の安思謙は鳳州に退き、罪を請うたが、蜀主は不問とした。
  • また静州は定難軍に属させられた。

二月 李彛殷・淮北・契丹

  • 辛未、李彛殷は謝表を上した。彼は中原の多事に乗じてしばしば軽慢な態度を見せ、叛く藩鎮を密かに助けて重い賂を求めていたが、朝廷は知りつつも恩義でつなぎ止めた。
  • 淮北の群盗の多くは南唐に帰属を願い出たため、南唐主は皇甫暉ら一万人を海州・泗州方面へ派遣した。蒙城の鎮将咸師朗らは降ったが、徐州将の成徳欽が峒峿鎮で唐兵を破り、六百余を斬捕したので、唐軍は撤退した。
  • 晋の李太后は契丹主に対し、漢人城寨の近くに田地を与えて耕桑し、自活できるよう願い出た。許可され、晋主一行は建州へ移された。道中で安太妃が亡くなり、骨を焼いて南へ散らし、魂を漢へ帰したいと遺言した。
  • 建州で五十余頃の田を得て耕作したが、まもなく舒嚕王が晋主の寵姫趙氏・聶氏を奪っていった。

三月 史徳珫の諫止

  • 己未、史弘肇の子の史徳珫が忠州刺史を兼ねた。彼は多少学問があり、父の苛酷なやり方を好まなかった。
  • ある受験生たちが貢院門前で騒ぐと、蘇逢吉は侍衛司へ送り、酷く打ち据えて黥刑にしようとした。
  • 史徳珫は父に対し、書生の無礼は台府が処理すべきで、軍務ではない、これは公卿が父の過失を世に明らかにしたいだけだと諫めた。史弘肇はこれを尤もとし、ただちに彼らを釈放した。

五月 河中の飢餓と降伏

  • 五月壬午、太白が昼に見えた。これを見上げた民が邏卒に捕らえられ、史弘肇は腰斬りにした。
  • 河中城中では食糧が尽きかけ、民の五、六割が餓死していた。
  • 癸卯、李守貞は五千余を五道に分け、梯や橋を持って長囲の西北隅を攻めたが、都監の呉虔裕に撃退され、攻具も奪われた。
  • 丙午にも再び出撃したがまた敗れ、将の魏延朗・鄭賓らが捕えられた。
  • 壬子、周光遜・王継勲・聶知遇ら千余が降伏した。李守貞の配下は次々に離反し、郭威はその瓦解に乗じて総攻撃を準備した。

長安の惨状と趙思綰の降伏

  • 趙思綰は人の肝を好んで食い、胆を酒で呑めば胆力が増すと言い、長安城内で食糧が尽きると婦女や幼児まで兵糧にした。軍への犒賞のたびに数百人を屠って食ったという。
  • 行き詰まった趙思綰に対し、郭従義は降伏を誘った。かつて趙思綰が左驍衛上将軍致仕の李粛を頼った際、李粛はその相貌と言動から将来の反逆を見抜いて取り立てなかったが、その妻張氏は、断れば後患になるとして厚く施した。
  • 趙思綰は長安を取った後も李粛には旧恩を忘れず、なお主人に仕えるような礼をとった。李粛がこれを嫌うと、妻はむしろ帰順を勧めよと助言した。
  • そこで李粛と判官程譲能は、三方面の戦いで朝廷はまだ決着していない今こそ翻意すれば赦され、富貴も失わずに済むと説いた。趙思綰は従い、使者を都へ送って降伏を請うた。
  • 乙丑、趙思綰は華州留後、常彦卿は虢州刺史に任じられ、いずれも途中でその地へ赴かせる形とされた。朝廷が入朝させなかったのは、なお反側を抱く心をなだめるためであった。

呉越・日食・趙思綰の誅殺

  • 呉越では、内牙都指揮使の鈄滔が胡進思の党として叛意を疑われ、丞相弘億も連座の告発を受けた。銭弘俶は深追いを避け、鈄滔を処州へ左遷した。
  • 六月癸酉朔、日食があった。
  • 七月甲辰、趙思綰は甲を脱いで長安城を出て詔を受けたが、郭従義は兵で南門を守らせて再び城へ戻した。趙思綰は牙兵と武具の返還を求め、郭従義もこれを許した。
  • 趙思綰は財貨をかき集めつつ出発日を三度も延ばしたため、郭従義らは再反の疑いを抱き、密かに郭威へ処置を請うた。郭威はこれを許した。
  • 壬子、郭従義と王峻は馬を並べて城内に入り、府舎に入って趙思綰に別れの酒を勧め、その場で捕えた。常彦卿とその父兄、部曲三百人も合わせて市で斬られた。

河中平定

  • 甲寅、郭威は河中の外郭を奪った。李守貞は残兵を率いて子城に退いた。
  • 諸将が急攻を願ったが、郭威は「窮した鳥ほど強くつつく」として、なお拙速を戒めた。
  • 壬戌、李守貞は妻子の李崇勲らとともに自ら火を放って死んだ。郭威は城に入り、子の李崇玉らや、守貞が任じた丞相靖某・孫愿、樞密使劉苪、国師総倫らを捕え、大梁へ送って市で磔にした。
  • 趙修已はしばしば李守貞を諫めた功により、翰林天文として召された。
  • 郭威は李守貞の文書から、朝廷の権臣が藩鎮と通じていた書状を見つけ、奏上しようとしたが、王溥が、妖怪も昼になれば消えるのだから、すべて焼いて人心を安定させるべきだと諫めた。郭威は従った。

朝廷内部の驕り

  • 三叛の大勢が平まると、皇帝はしだいに驕慢となり、側近の後匡賛・郭允明らと卑俗な隠語や戯れに耽った。太后がたびたび戒めても改めなかった。
  • 癸亥、太常卿張昭は儒臣を近づけ経書を講じるべきだと上言したが、聞き入れられなかった。
  • 戊辰、郭従義に同平章事を加え、扈従珂を護国節度使へ移し、劉詞を鎮国節度使とした。

南唐・呉越・洛陽

  • 南唐主は再び魏岑を用い、鍾謨・李徳明ら弁舌の才ある者を政務に参与させた。二人は恩寵を恃んで軽躁であり、国人に嫌われた。
  • 范沖敏は正人登用を求める上書を王建封にさせたが、南唐主は武臣が国政に口出ししたとして激怒し、王建封を流したうえ殺し、范沖敏も棄市にした。
  • 河中陥落を聞いた南唐主は、李守貞の使者だった朱元・李平をそれぞれ員外郎に任じた。
  • 呉越王は弘億を明州に出した。
  • 西京留守の王守恩は貪欲で、葬送の車すら銭を払わねば城外に出さず、汲み取りなどにも課税し、部下に盗みまでさせた。富家の婚礼に芸人とともに押しかけて銀を奪うほどであった。

八月 郭威、洛陽で王守恩を更迭

  • 八月甲申、郭威が河中から帰り洛陽を通ると、王守恩は将相兼帯を恃んで肩輿のまま迎えに出た。郭威はこれを傲慢と怒り、入浴中を理由に会わず、白文珂に西京留守を代行させる頭子を発した。
  • 白文珂は命に従い、王守恩はまだ客位で待っている間に、すでに府では新留守が執務を始めていた。家族数百人も府から追い出されていた。王守恩は狼狽して都へ向かった。
  • 朝廷はこれを咎めず、白文珂を侍中・西京留守とした。胡注は、権臣の一命で大臣の任免が行われ、朝廷がこれを問題としないことに、当時の法制崩壊の深刻さを見る。
  • 王守恩は大梁で罪を恐れ、盛んに貢献と賄賂を重ねた。朝廷も、彼が最初に潞州を挙げて後漢に帰順した功を考慮して許し、腹心数人を誅するにとどめた。

楚の内戦

  • 馬希萼は朗州の壮丁を悉く郷兵に編成し、「静江軍」と号して戦艦七百艘を造り、潭州攻撃を図った。妻の苑氏は兄弟の相争いは笑いものになると諫めたが、聞き入れられなかった。
  • 馬希広は「朗州は兄の地であり争えぬ、国を譲るだけだ」と言ったが、劉彦瑫・李弘皋が強く反対した。
  • 岳州刺史の王贇を都部署、劉彦瑫を監軍として出撃させると、己丑、僕射洲で馬希萼を大破し、戦艦三百艘を奪った。王贇は追撃してほぼ捕えかけたが、馬希広は兄を傷つけるなとして召し返した。
  • 馬希萼は赤沙湖から小舟で逃げ帰った。苑氏は禍が来ると泣いて井に身を投げた。

郭威帰京と大規模恩賞

  • 戊戌、郭威は大梁に到着して皇帝に拝謁し、慰労の金帛・衣服・玉帯・鞍馬を賜ろうとしたが、自分は一年かけて一城を落としたにすぎず、功は中枢や諸鎮、将士にあるとして辞退した。
  • 方鎮加増の議も辞し、楊邠は自分より上位でまだ節鎮を持たず、史弘肇を同列に論じるべきでもないと述べた。
  • 九月壬寅、朝廷は宰相・枢密・宣徽・三司・侍衛使ら九人に、郭威と同様の恩賞を広く与えた。郭威が独功を避けて功を人に分けた形となった。
  • 乙巳、郭威は侍中、史弘肇は中書令となった。辛亥には竇貞固が司徒、蘇逢吉が司空、蘇禹珪が左僕射、楊邠が右僕射となった。
  • さらに藩鎮の不満を避けるため、各地の節度使にも太師・太傅・太保・中書令・侍中・同平章事などの栄典が広く与えられた。胡注は、郭威の謙譲は美しいが、一人の功により天下へ爵位が濫発された面もあると評している。

呉越・楚・契丹

  • 呉越王銭弘俶は、荒田を開墾した者には課税しないと定め、国内から荒廃地がほぼなくなった。また遺漏の丁を摘発して自ら課税しようとした者を国門で杖打ちにし、民心を得た。
  • 楚の静江節度使馬希瞻は、兄の希萼・希広が争うのを何度も諫めたが聞かれず、一族滅亡を悟って背中の癰を発し、丁亥に死んだ。
  • 契丹が河北に侵入し、通過地で殺掠を行った。節度使・刺史たちは城に籠って守り、遊騎は貝州や鄴都北境にまで及んだ。
  • 己丑、皇帝は郭威を樞密使として諸将督戦に送り、王峻を監軍とした。これは後の挙兵への伏線となる。
  • 十一月、契丹は漢軍が黄河を渡ると聞いて撤退した。郭威は鄴都に至り、王峻に兵を分けて鎮州・定州方面へ向かわせ、自らは邢州に至った。

年末の諸事

  • 唐軍が淮を渡って正陽を攻めたが、十二月、潁州将の白福進がこれを破った。
  • 楊邠は政治に細かく厳しすぎた。かつて失職して寄る辺ない前資官たちを、藩鎮を動揺させるおそれありとして都へ集め、次いで両京に分散居住させて欠員を待たせようとした。大勢が官を求めて宰相の馬を取り囲み、流浪者が続出した。
  • さらに往来の者に過所を持たせようとしたため、役所は混雑し、民情は大いに騒いだ。結局この策は停止された。
  • 趙暉は鳳翔を激しく攻めた。周璨は王景崇に、河中・長安はすでに平定され、蜀の救援も頼りにならぬ以上、降伏するしかないと勧めた。
  • 王景崇はいったん同意したが、なお急変策を図り、公孫輦・張思練に城東門で偽降を演じさせ、自分は周璨とともに牙兵で北門から突撃しようとした。
  • しかし癸巳未明、東門が焼けて降伏の呼び声が上がり、府牙も炎上したころには、王景崇はすでに家人とともに自焚していた。周璨は降った。
  • 丁酉、密州刺史王万敢は唐の海州荻水鎮を攻めて荒らした。
  • この月、南漢主は英州へ赴いた。
  • 同年、南唐の泉州では留従効の兄・留従願が刺史董思安を毒殺して代わった。南唐主はこれを制御できず、泉州に清源軍を置き、留従効を節度使とした。