資治通鑑後晉紀五 齊王 開運二年 二年 945年
正月 邢州・相州方面の混乱
- 正月、朝廷は趙在礼を澶州へ、馬全節を鄴都へ戻し、張彦沢を黎陽に、景延広を胡梁渡に配して防備を立て直した。
- 庚子、張従恩が契丹の邢州接近を報じると、滑州・鄴都の軍に再進して迎撃するよう命じた。皇甫遇も兵を率いて邢州へ向かった。
- 契丹は邢・洺・磁三州に侵入し、殺戮と略奪を尽くして鄴都の周辺にまで入った。
安陽水南の対陣と皇甫遇・慕容彦超の奮戦
- 壬子、張従恩・馬全節・安審琦らは数万を率いて相州安陽水の南に陣した。
- 皇甫遇と慕容彦超は数千騎で先行偵察し、鄴県で多数の契丹軍に遭遇した。撤退中、榆林店でさらに敵が増えたため、もはや逃げ切れぬと覚悟し、陣を布いて決戦した。
- 午から未まで百余合に及ぶ死闘を続け、皇甫遇の馬が倒れると、従者の杜知敏が自分の馬を与えた。ところが知敏は敵に捕えられ、遇はこれを見て、義士を見捨てられぬとして慕容彦超とともに契丹陣へ突入し、救い出して帰った。
- その後も新手の契丹軍が来て戦いは続いた。日暮れ近くなっても二将は「死をもって国に報いるのみ」と踏みとどまった。
- 本陣では諸将が偵察隊の帰還を怪しみ、安審琦は敵に囲まれたと聞くや、張従恩の慎重論を退けて救援に向かった。彼は、たとえ救えず共倒れになっても、それが天命だとし、見殺しにはできないと述べた。
- 契丹は援軍の砂塵を見て退き、皇甫遇らは無事に帰還した。軍中では二将の勇名が高まった。慕容彦超は吐谷渾の出で、劉知遠とは異父同母の兄弟であった。
契丹の後退と晋軍の自壊
- 契丹軍中では「晋の大軍が悉く到着した」と動揺が広がり、契丹主も邯鄲からただちに北へ走り、鼓城まで一晩で退いた。
- その夜、張従恩らは、兵は少なく食糧も一旬を支えぬから、黎陽倉へ退いて黄河を背に守るのが安全だと論じた。結論が出ないうちに張従恩は先に発ち、諸軍もこれに従ったため、邢州撤退時と同様の大混乱となった。
- 張従恩は歩兵五百を安陽橋に残したが、知相州事の符彦倫は、兵士に固い志がなく、この程度では橋を守れぬとして城内へ収容した。
- 明け方になると、契丹の大騎兵がすでに安陽水の北に陣していた。符彦倫は旗を揚げ鼓を打って城上の統制を示し、敵に実情を悟らせなかった。
- やがて趙延寿と契丹の特哩衮らは渡河して相州をめぐり南下したが、張彦沢が相州へ向かっていると聞くと、湯陰で引き返した。
- 馬全節らは黎陽に大軍を持ちながら追撃しなかった。趙延寿は相州城下に攻城の構えを見せたのち、本当に北へ去った。符彦倫は彼らの意図を見抜き、五百の甲士を城北に並べただけで対処した。
- その後、張従恩は東京留守を代行することとなった。
折従遠の北辺攻勢と親征決定
- 庚申、折従遠は契丹に奪われていた勝州を攻め、さらに朔州にも兵を向けた。
- 皇帝の病がやや軽くなると、「今は安眠してよい時ではない」として自ら諸将の配置を整え、武定軍の名を天威軍へ改めた。
- 馬全節らは、降人の話では敵兵はそれほど多くなく、部族ごとに散って帰るところを一気に幽州まで突けばよいと奏上した。
- 皇帝はこれを採用し、諸道に兵を徴し、壬戌には親征の詔を下し、乙丑には大梁を出発した。
閩 延政の福州回復と建州防衛
- 朱文進・連重遇を倒した後、閩の旧臣たちは延政を迎えて福州に帰すよう請い、国号を再び閩とした。
- しかし延政は南唐の侵攻に対処中であり、まだ都を移せなかったため、従子の王継昌に南都福州の内外諸軍を統べさせ、黄仁諷に兵を率いて守らせた。
- 林仁翰は朱文進誅殺の大功があったが、延政からの恩賞は薄く、自ら功を言い立てることもなかった。
- 延政は福州の侍衛および左右両軍から甲士一万五千を建州へ送って南唐に備えた。
二月 北征軍の進発
- 二月壬辰朔、皇帝は滑州に至り、安審琦を鄴都に置いた。
- 甲戌に滑州を発し、乙亥に澶州へ至り、己卯には馬全節ら諸軍が次々と北上した。
- 劉知遠はこれを聞き、「中原は疲弊しており、自守するのでさえ危ういのに、むやみに強敵を挑発して、勝っても後患を残す。まして勝てなければなおさらだ」と危惧した。
祁州の陥落
- 契丹はわざと弱そうな兵に牛羊を追わせて祁州城下を通過させた。刺史沈斌がこれを撃つと、契丹精騎がすぐに城門を奪い、州兵は城へ戻れなくなった。
- 趙延寿は城内に兵が少ないと知ると、急攻に移った。城上の沈斌に向かって、旧知なのだから軽い禍を選んで早く降れと勧めた。
- 沈斌は、趙延寿父子が誤って契丹に身を投じ、今またその犬羊を率いて故国を踏みにじるのは恥だと面罵し、矢尽き弓折れるまで戦って自殺した。
- 丙戌、杜威にも本鎮の兵で馬全節らに合流せよとの詔が下った。
桑維翰と馮玉・李彦韜の対立
- 馮玉と李彦韜は寵遇を頼みに権勢を振るい、桑維翰がしばしば自分たちを非難するのを憎んだ。皇帝は桑維翰を罷めようとしたが、李崧・劉昫が強く諫めたため断念した。
- 桑維翰はそのことを知り、かえって馮玉を樞密副使に推したが、馮玉は満足しなかった。
- 丙申、中旨により馮玉は戸部尚書・樞密使となり、桑維翰の権限を分けた。
- 李彦韜はもと僕夫から出て高祖に仕え、少帝の側近となった人物で、巧みに寵臣と結んで皇帝の耳目を塞ぎ、将相の進退にも口を出した。
- 彼はしばしば「文官など何の役に立つのか。いずれ一掃すべきだ」と口にしていた。
南唐の建州攻撃と殷の敗北
- 南唐では査文徽の求めに応じ、何敬洙・祖全恩・姚鳳らに数千を与えて建州攻撃を続けさせた。軍は崇安から赤嶺に進んだ。
- 閩主延政は楊思恭・陳望に一万を与えて迎撃させ、水南に柵を並べたが、十余日対陣するだけで攻めなかった。
- 楊思恭は延政の命を受けて陳望に戦闘を強いた。陳望は江淮の兵は精強で、勝敗は国の安危に関わるから万全でない限り戦えぬと主張したが、楊思恭は皇帝が不眠で案じているのに、数千の敵を前に一万余を抱えて動かないのは何事かと叱責した。
- やむなく陳望が渡河して戦うと、祖全恩らは正面で受け止めつつ奇兵を背後に回し、大破した。陳望は戦死し、楊思恭はからくも逃げ帰った。
- 延政は恐れて籠城し、董思安・王忠順に泉州兵五千を率いさせて建州へ向かわせ、要害を分守させた。
徳清軍城の築城
- もとは高祖が旧澶州城に徳清軍を置いたが、契丹侵入で澶州・鄴都間の城戍がいずれも落ちたため、両者の中間に新たに城を築くべきだという議論が起こった。
- 三月戊戌、徳清軍の城を改めて築き、徳清・南楽の住民を合わせてそこに移した。
福州で李仁達が権力を奪う
- 李仁達は光州の人で、閩の元従指揮使であったが、十五年も昇進せず、曦の時代に建州へ逃れ、また朱文進の時に福州へ移って建州攻略策を献じた。だがその反覆ぶりを朱文進に嫌われて福清に追われていた。
- 陳継珣もまた建州・福州の間を行き来した人物で、延政が福州を回復すると二人とも不安を抱いた。
- 王継昌は暗愚で酒好き、将士を顧みなかったため、人心を失っていた。
- 李仁達はひそかに福州へ入り、黄仁諷に対し、唐軍は勝勢にあり建州は危うい、延政は建州も福州も保てない、今こそ自分たちで富貴を図るべきだと説いた。黄仁諷はこれに同意した。
- その夜、李仁達らは甲士を率いて府舎に突入し、王継昌と呉成義を殺した。
- 李仁達は自立したい気持ちを持ちながらも衆心が服するか恐れ、雪峰寺の僧・卓巖明を「重瞳で手が膝を過ぎる真の天子」と称して迎え、己亥、帝として立てた。
- 卓巖明は僧衣を脱がされ、袞冕を着せられて即位したが、なお晋の年号・天福十年を用い、晋に称藩した。
- 延政はこれを聞くと黄仁諷一族を皆殺しにし、張漢真に水軍五千と漳・泉州兵を合わせて福州討伐に向かわせた。
定州方面での晋軍北進
- 乙巳、杜威ら諸軍は定州に会し、蕭処鈞を祁州の知州事に代行させた。
- 庚戌、諸軍は契丹領の泰州を攻め、刺史晉廷謙が州を挙げて降った。
- 甲寅、満城を奪い、契丹の酋長黙喇らと二千の兵を捕えた。
- 乙卯、さらに遂城を取った。
白団衛村の大戦
- 趙延寿の部曲からの降人が、契丹主は虎北口まで帰っていたが、晋軍が泰州を奪ったと聞いて八万余騎を率い南下中で、翌夕には来ると告げた。
- 杜威らは恐れて丙辰に退き、泰州にこもった。戊午、契丹軍が到着し、己未には晋軍が南へ移動、契丹はこれを追った。
- 庚申、陽城で両軍が戦い、晋軍は契丹を十余里追い、契丹は白溝を越えて退いた。
- 壬戌、晋軍は陣を保ちながら南下したが、四方を胡騎に囲まれた。この日進めたのは十余里にすぎず、人馬ともに飢え渇いた。
- 癸亥、白団衛村に着くと鹿角を埋めて寨を築いたが、契丹は幾重にも包囲し、後方の糧道も断った。夜には東北の大風が吹き荒れ、井戸を掘っても水が崩れ、兵は泥を布で絞って飲む有様だった。
- 夜明けには風がさらに強まり、契丹主は奚車に乗って、晋軍はここで一網打尽にできると命じた。精鋭騎兵の「鉄鷂」は四方で下馬し、鹿角を引き抜いて短兵で攻めかかった。さらに風上から火と土煙を放って攻勢を助けた。
- 晋軍では兵が怒って「都招討使はなぜ戦わせず、兵卒をむざむざ死なせるのか」と叫んだ。諸将が出戦を請うても、杜威は風が弱まるのを待つと言った。
- 李守貞は、風塵の中では敵の多少も知れず、ただ力戦する者が勝つ、今の風はむしろ味方だ、風が止めばこちらは全滅だと主張した。
- 薬元福も張彦沢に対し、兵はすでに飢渇しきっており、風待ちは自滅だ、敵は逆風では戦えまいと見ているのだから、その不意を突くべきだと進言した。
- 符彦卿は「束手して捕まるより、身をもって国に殉ずるほうがよい」と言い、張彦沢・薬元福・皇甫遇らとともに精騎を率いて西門から出撃した。
- 風はますます烈しく、昼なお夜のように暗かったが、符彦卿ら一万余騎が横撃をかけると、契丹軍は大崩れになった。李守貞も歩兵に鹿角を抜かせて総攻撃に移り、歩騎とも進撃した。
- 契丹の鉄鷂は下馬していたため慌てて再騎乗できず、馬や鎧、武器を地に捨てて逃げた。
- 散兵は陽城東南の水辺で再集結しようとしたが、杜威は今のうちに列を整えさせてはならぬと騎兵を送り、水を渡って追い払った。
- 契丹主は奚車で逃げたが、追撃が迫ると駱駝を奪って乗り換え、辛くも脱出した。
- 諸将は追撃を求めたが、杜威は「あぶない目に遭って命が助かっただけでも幸いなのに、さらに敵の荷物まで欲しがるのか」と言って許さなかった。
- 李守貞も、人馬ともに渇ききっており、今は水を得て体勢を保つ方が先だとして、定州へ退いて軍を保った。
- 契丹主は幽州へ戻り、敗戦の責任を諸酋長に杖刑で問うたが、趙延寿だけは免じた。
- 乙丑、晋軍は定州から引き揚げ、朝廷は泰州を定州に属させた。
四月 帰京と福州の再変
- 辛巳、皇帝は澶州を発し、甲申に大梁へ帰還した。
- 己丑、鄴都を再び天雄軍とした。
- 福州では張漢真が到着して東関を攻めたが、黄仁諷は一族が誅されたと聞いて城門を開き、必死に戦って閩軍を破り、張漢真を捕えて斬った。
- 卓巖明は政治や軍事の才がなく、殿上で水を吹き散らし豆を撒くなど、まじないめいた仏事を行うばかりであった。
- また莆田から父を迎えて太上皇と尊んだ。
李仁達の専権
- 李仁達は卓巖明を立てた後、自ら六軍諸衛事を判じ、黄仁諷を西門、陳継珣を北門に置いた。
- 黄仁諷は陳継珣に対し、自分はかつて富沙王に功がありながら裏切り、また王継昌を託されておきながら殺し、建州兵との戦いでは郷里の旧知を殺し、妻子を捨ててきたと語り、自らの不忠・不信・不仁・不義を嘆いて胸を打って泣いた。
- 陳継珣は、男児たるもの功名のためには妻子を顧みるなと諭したが、李仁達はこれを聞いて、二人が謀反を企てていると告げさせ、黄仁諷・陳継珣をともに殺した。
- これによって福州の兵権はすべて李仁達に帰した。
五月 杜威入朝と桑維翰退場
- 五月丙申朔、大赦があった。
- 杜威は長年恒州を治めたが、皇親であることを笠に着て、辺備を口実に民から財貨を搾り取り、富家の珍宝や美女・駿馬を奪い、罪をでっち上げて殺すことさえあった。しかも契丹が境内を荒らしても、城に閉じこもるばかりで救援しなかった。
- そのため属城はしばしば屠られ、千里にわたり骸が野に満ちた。民の怨みを恐れ、また契丹の強さも恐れた杜威は、何度も入朝を願い出たが許されず、ついに返答を待たずに鎮所を捨てて大梁へ来た。
- 朝廷は驚いたが、桑維翰は、朝命に背いて辺鎮を離れた罪は重く、今こそ罷免して後患を断つべきだと進言した。
- 皇帝は、杜威は自分の近親で異心はなく、宋国長公主が会いたがっているだけだとして、処罰をためらった。
- 桑維翰はこれ以後、国政を論じることを控え、足の病を理由に辞職を願うようになった。
李仁達、卓巖明を殺して自立
- 丙辰、杜威は歩騎四千と兵仗を献じた。
- 丁巳、李仁達は大閲兵を行い、卓巖明を観閲に出させたうえで、あらかじめ教えておいた兵に階を駆け上がらせて卓巖明を刺殺させた。
- 李仁達は表向き驚いて逃げるふりをし、兵士たちは彼を押し立てて卓巖明の座に就けた。
- こうして李仁達は威武留後を称し、南唐の保大年号を用い、唐に称藩すると同時に晋にも使者を送って朝貢した。さらに卓巖明の父も殺した。
- 南唐は李仁達を威武節度使・同平章事に任じ、名を弘義と改めて宗室籍に編入した。弘義はさらに呉越とも修好を結んだ。
杜威の厚顔
- 己未、杜威はさらに兵を献じ、庚申には恒州に蓄えたとして粟十万斛・芻二十万束を献じた。
- 皇帝はその騎兵を扈聖軍、歩兵を護国軍に配属した。
- しかし杜威は、これらを再び自分の衙隊とし、その俸給は官が負担せよと求めた。
- また公主を通じて皇帝に願い出て、ついに天雄軍節度使の地位を得た。
建州包囲と汀州戦
- 南唐軍は建州を包囲し、たびたび泉州兵を破った。
- 一方、許文稹は汀州で南唐軍を破り、その将時厚卿を捕えた。
- 六月癸酉、杜威は正式に天雄節度使となった。
契丹との講和論
- 契丹は年々侵入し、中原は防戦に疲れ、辺民は塗炭の苦しみに沈んだ。契丹側でも人馬の損耗が多く、国中がこの戦争を厭うようになっていた。
- 舒嚕太后は契丹主に対し、漢人が胡の主となれるかと問うて無理だと諭し、同じように胡が漢の主になろうとするのも無理だ、石氏への怒りがあるにしても、漢地を得ても住みこなせまい、転べば悔やんでも遅いと戒めた。
- さらに群臣にも、昔から聞くのは「漢が蕃と和する」であって「蕃が漢と和する」ではないが、もし漢人の方から心を翻すなら、和しても惜しくないと語った。
- 桑維翰はたびたび皇帝に講和再開を勧め、国難を緩和しようとした。
- 皇帝は開封府の軍将張暉を仮の供奉官として派遣し、臣下の礼をとる低姿勢の表を持たせて契丹に謝罪させた。
- 契丹主は、景延広と桑維翰が自ら来朝し、さらに鎮州・定州の二道を割譲するなら和してもよいと言った。
- 朝廷はこれを怒りにまかせた返答と見て、和議を断念した。だが後に契丹主は大梁に入ってから、もし晋の使者がもう一度来ていれば南北は戦わずに済んだであろうと語っている。
七月 閩の残虐と南唐・楚の動き
- 七月、閩では、建州救援に赴いていた兵が叛くという流言が立った。延政は彼らの武器を取り上げて帰らせると見せかけ、隘路に伏兵を置いて全員を殺した。死者は八千余に上り、その肉を干して持ち帰り食料にしたという。
- 南唐の辺鎬は鐔州を攻略した。
- 査文徽の党与である魏岑・馮延己・馮延魯らは、出兵の戦果に勢いづいてさらに戦争推進を主張したため、軍需・運送・徴発が激増し、洪州・饒州・撫州・信州などの民はとくに苦しんだ。
- 延政は呉越に臣従して附庸となることを願い、救援を求めた。
- 楚では、王希範が朗州を治める希杲の人望を疑い、監視させた。希杲が病を称して帰国を求めると、王希範は医者を遣わして診察させ、その機に毒殺した。