資治通鑑後晉紀三 高祖聖文章武明德孝皇帝 天福 五年 940年
正月 閩使の赦免と楚の勝利
- 正月、帝は閩の使者・鄭元弼らを引見した。
- 元弼は、王昶は蛮夷の君で礼義を知らず、善言があっても喜ぶに足らず、悪言があっても怒るに足らない、自分の伝達のまずさを罪として処刑されても構わぬと述べた。
- 帝はこれを哀れみ、辛未に元弼らを釈放した。
- 楚では劉勍らが大風に乗じて火箭で彭士愁の寨を焼き、これを攻めた。彭士愁は敗れて奨・錦の深山へ逃げ込んだ。
- 乙未、その子彭師暠が諸酋長を率いて溪・錦・奨三州の印を納め、楚に降伏を請うた。
二月 契丹への配慮と楚の銅柱
- 庚戌、北都留守の安彦威が入朝した。
- 帝は、契丹がかつて義をもって自分を助けたので、自分は信をもって報いているのだと語り、使節応対に屈辱を感じず務めた安彦威を賞した。
- 劉勍が長沙に帰還すると、楚王馬希範は溪州をより統制しやすい地へ移し、彭士愁を溪州刺史、劉勍を錦州刺史とした。これ以後、諸蛮は楚に服した。
- 馬希範は自らを伏波将軍馬援の後裔と称し、銅五千斤で高さ一丈二尺の銅柱を鋳て溪州に立て、誓約の文を刻ませた。
二月 南唐の楊璉死去と閩の兄弟対立
- 南唐の康化節度使兼中書令・楊璉は、平陵に詣でて帰る途中、舟中で大酔して急死した。追封して弘農靖王とした。
- 閩では、王曦が即位後ますます驕慢・残虐となり、宗族への疑いを深めた。
- 建州刺史の王延政はたびたび書を送り兄の曦を諫めたが、曦は怒って罵倒の返書を送り、業翹と杜漢崇をそれぞれ建州方面の監軍にして延政の動静を探らせた。
- 一日、業翹が延政との議論で口論となり、あろうことか反心をなじったため、延政は激怒して彼を斬ろうとした。翹は南鎮へ逃げ、延政は兵を出してこれを攻めて戍兵を破った。
- 翹と漢崇は福州へ逃げ、西方国境の守備兵も動揺して潰走した。
二月・三月 閩の内戦と呉越の介入
- 二月、王曦は統軍使の潘師逵・呉行真に四万の兵を授けて王延政を討たせた。潘師逵は建州城西、呉行真は城南に陣し、水を隔てて営を置き、城外の民家を焼いた。
- 王延政は呉越に救援を求め、壬戌、呉越王元瓘は仰仁詮・薛萬忠に四万を授けて赴かせた。丞相林鼎はこれを諫めたが聞き入れられなかった。
- 三月戊辰、潘師逵が分兵三千を蔡弘裔に与えて出戦させたが、延政方の林漢徹らに茶山で大敗し、多くを斬られた。
三月 後晋の諸鎮移動
- 安彦威・王建立がそろって致仕を願ったが許されなかった。
- 辛未、劉知遠を帰徳節度使兼侍衛馬歩都指揮使同平章事から鄴都留守へ移し、安彦威を帰徳節度使とし、兼侍中を加えた。
- 癸酉、王建立を昭義節度使へ移し、韓王に進めたうえ、遼州・沁州を昭義の管下に付け替えた。
- 建雄節度使の李德珫が北都留守に任じられた。
三月 安從進の不穏
- 山南東道節度使の安從進は、襄陽の険を頼みにして密かに異図を抱き、湖南からの貢物を横取りし、亡命者を集め、兵を増強していた。
- 諫めた王令謙・潘知麟を殺し、ついに帝が王建立の後任として青州を与えようと打診しても、青州の代わりに襄陽そのものを青州と取り替えるなら受けると答えるほど横柄だった。
- それでも帝は直ちに責め立てず、事を荒立てなかった。
三月 建州で閩軍大敗
- 丁丑、王延政は敢死士千余に夜襲を命じ、水を渡って潘師逵の陣へ潜入させ、風に乗じて火を放った。城上でも太鼓を鳴らして呼応し、戦棹都頭の陳誨が潘師逵を殺した。
- 戊寅、延政はさらに呉行真の寨を攻めようとしたが、建州兵がまだ渡河中のうちに、呉行真以下は営を捨てて逃走し、死者は一万人に及んだ。
- 延政は勝勢に乗って永平・順昌の二城を奪い、ここに建州の軍事力が大きく伸び始めた。
四月 蜀の三司分判
- 蜀では趙季良が、母昭裔・張業とともに三司を分けて司ることを願い出た。
- 癸卯、蜀主は趙季良に戸部、母昭裔に塩鉄、張業に度支を分担させた。
- 庚戌、前横海節度使の馬全節を安遠節度使に任じた。
四月・五月 呉越軍の失敗
- 甲子、呉越の世子・弘僔が死去した。
- 呉越の仰仁詮らが建州へ到着すると、王延政はすでに福州軍を破っていたので、牛酒をもってねぎらい、撤兵を求めた。だが仰仁詮らはこれに従わず、城の西北に営したため、延政は建州を奪われることを恐れた。
- 延政は再び王曦に救援を求め、王曦は泉州刺史の王繼業に二万を授けて救援させ、呉越にも抗議の文を送った。
- 軽兵が呉越軍の糧道を絶ち、長雨も重なって呉越軍は食糧難に陥った。
- 五月、延政が出兵して大破し、俘斬は一万を数えた。癸未、仰仁詮らは夜のうちに退却した。
五月・六月 李金全の叛降と安州争奪
- 胡漢筠は詔命に背いて入朝せず、賈仁沼の子らが朝廷へ訴え出ると聞くと、李金全に対して、受代ののち賈仁沼殺害の件で取り調べられるに違いないと欺いて不安をあおった。
- そして拒命して南唐に帰順すべきだと説き、李金全もこれに従った。
- 丙戌、帝はこれを聞くと、馬全節・安審暉に汴・洛・汝・鄭・単・宋・陳・蔡・曹・濮・申・唐など広範な兵を与えて討伐を命じた。
- 李金全は推官張緯に表を持たせて南唐へ降伏を願い、南唐は李承裕・段處恭に兵三千を授けて迎えに行かせた。
- また南唐は尚全恭を閩へ送り、王曦と王延政の和解を試みた。
- 六月、延政は宣陵で王曦と盟を結んだが、兄弟の疑いは消えなかった。盟の儀に香炉を用いたことについて、胡注は、香を神前儀礼に本格的に使うのは魏晋以降の風習であると詳しく論じている。
- 癸卯、南唐軍は安州に着くと、その夜のうちに李金全は麾下数百を率いて南唐軍へ赴いたが、妓妾や財貨は李承裕に奪われた。
- 甲辰、馬全節が応山から大化鎮へ進軍し、安州城南で李承裕を大破した。承裕は安州を略奪して南へ逃げた。
- 丙午、安審暉は黄花谷で唐軍を追い破り、段處恭を討ち取った。丁未には雲夢沢でも勝ち、李承裕とその兵を捕虜にした。
- 張建崇が雲夢橋を守って抗戦したため、安審暉はそれ以上追わず帰還した。
- 馬全節は安州城下で李承裕ら一千五百を斬り、監軍杜光業ら五百七人を大梁へ送った。
- 帝は、彼ら兵士に大きな罪はないとして馬や器服を与えて帰した。だが胡注は、違命した将のみを謝罪のために処断し、兵卒は慰撫すべきで、敵国に返すのは不当だと評している。
- 南唐主は、かつて盧文進を迎えた祖全恩の時にも、今回の李承裕にも、安州城内へ入って略奪するなと戒めていたが、承裕が剽掠に走ったため敗戦した。唐主は数日間嘆き、自らの戒敕が徹底しなかったのだと反省した。
- 南唐は返送された杜光業らをいったん受け取らず、改めて淮北へ送り返そうとし、後晋もまた帰国させようとしたが、淮上で南唐の戦艦がこれを遮ったため、彼らは再び戻された。
- 帝は南唐兵を顕義都として編成し直し、旧将の劉康に率いさせた。
夏・秋 南唐主の統治ぶり
- 南唐主は、廬山へ祭祀に行った宦者が精進潔斎したと報告すると、途中で魚や肉を買って食べた日まで言い当てて恥をかかせた。
- 倉庫吏が年末に一万余石の羨余を献じると、人民や軍を搾らなければそんな余剰は出ないとして受けなかった。
- こうした細かな監察ぶりは、君主としての敏察さを示した。
七月 閩の防備強化と後晋の賞罰
- 閩王曦は福州西郭を築いて建州勢に備えた。
- また、税負担を逃れる者が多く、民一万一千人を僧にしてしまった。胡注はこれを、僧になることが福田利益になるならば国が滅ぶはずもないと皮肉っている。
- 乙丑、後晋では鄭元弼らに帛を与えて閩へ帰した。
- 李金全の叛乱時、安州の桑千威・王萬金・成彦温は叛命に従わず死んだが、龐守栄だけは彼らを愚かだとあざけり李金全に媚びていた。
- 己巳、朝廷は賈仁沼と桑千威らに追贈を行い、使者を送って安州で龐守栄を誅した。
- 李金全は金陵に着いたが、南唐主の待遇はきわめて薄かった。
七月・九月 南唐の東宮設置
- 丁巳、南唐主は斉王璟を太子とし、兼大元帥・録尚書事とした。
- だが璟は固く辞退し続け、九月乙丑、南唐主はやむなく、内外の上表や待遇だけを太子の礼に準じさせる形にとどめた。
七月 范延光の最期
- 太子太師致仕の范延光は河陽の私第へ帰ることを願い、帝は許した。
- ところが西京留守の楊光遠は、延光が多くの財貨を載せて行くのを見てこれを利し、さらに自分の子孫への災いの種になることを恐れて、延光は叛臣ゆえ開封・洛陽に住むべきでなく、外藩へ移れば逃亡の恐れがあるとして除去を願った。
- 帝は許さなかったが、西京に留め置くことだけは認めた。
- 楊光遠は子の承貴に甲士を率いさせ、邸宅を囲ませて自殺を迫った。延光は、天子から鉄券を賜って死罪を免じられているのに、なぜ父子が殺せるのかと叫んだ。
- 己未、承貴は白刃で脅して延光を馬に乗せ、浮橋のところで黄河へ突き落とした。楊光遠は「自ら水に赴いた」と奏した。
- 帝は真相を知りながら、楊光遠の強勢を恐れて追及できず、朝をやめて太師を追贈した。
九月 後晋の人事と財政問題
- 丁卯、和凝を中書侍郎同平章事に任じた。
- 己巳、鄴都留守の劉知遠が入朝した。
- 辛未、李崧が、諸州の倉には計帳に載らない余粮が多いと奏上した。帝は、法外の徴収は枉法と同罪であるとして、倉吏の死罪こそ免じたが厳罰に処すよう命じた。もっとも胡注は、実際にどこまで徹底できたか疑わしいとみる。
- 翰林学士の李澣は軽薄で酒癖も悪く、帝に嫌われて丙子に罷免された。さらに翰林学士職そのものを中書舍人へ併せたが、胡注は、近侍儒臣の場を失わせる不当な措置だったとみる。
- 楊光遠が入朝すると、帝は彼を他鎮へ移す意向を示し、まずは囲魏の役で功のあったその部下たちに州刺史職を与えて楊光遠の勢力を削いだ。
- 甲申、楊光遠を平盧節度使に移し、東平王に進めた。
十月・十一月 呉越・南唐・閩
- 丁酉、呉越王元瓘に天下兵馬都元帥・尚書令を加えた。
- 壬寅、南唐は大赦を行い、「睿聖」の字を奏章に使うことを禁じた。
- 術士の孫智永は、四星が斗に聚まる天象を災異として、南唐主に東都への巡幸を勧めた。
- 乙巳、斉王璟に監国を命じ、陳覺は泰州刺史褚仁規の貪残を訴えて失脚させ、ここから次第に用いられるようになった。
- 庚戌、南唐主は金陵を出発し、甲寅に江都へ着いた。
- 閩王曦は商人を通じて、自分は王昶と違い、過失なくして大号を称したわけではないと弁明した。
- 十一月甲申、後晋は王曦を威武節度使兼中書令・閩王に封じた。
- 南唐主は江都に定住するつもりもあったが、水路凍結で漕運が滞るため断念し、十二月丙申に金陵へ帰った。
この年 南漢の宰相交代と吐谷渾来奔
- 南漢では趙損が死去し、寧遠節度使・南昌王定保が中書侍郎同平章事となったが、ほどなくこれも死去した。
- もとより後晋は契丹に雁門以北を割譲していたため、その地にいた吐谷渾諸部も契丹支配に入っていた。彼らは契丹の貪虐を苦にして中原への帰属を望み、安重榮もこれを誘った。
- こうして吐谷渾の部落千余帳が五台方面から後晋へ来奔した。吐谷渾の移動の歴史について、胡注は唐代以降の東遷・分散・赫連氏との関係を詳しく述べている。
- 契丹は激怒し、叛人を招き入れたと後晋を責めた。