資治通鑑後晉紀二 高祖聖文章武明德孝皇帝 天福 三年 758年

春正月・二月 南唐・蜀・後晋の初政

  • 正月、再び日食があった。
  • 南唐では周本が、呉を救えなかったことを恥じつつ死去した。胡三省は、彼は李德誠よりはるかに節義があったと評する。
  • 南唐は吉王景遂に尚書都省の政務へ参与させた。蜀では張業を宰相に進め、王処回にも武信節度使を兼ねさせた。胡三省は、武信節度使は蜀の内地であり、蛮境の武泰からの転任は昇進の意味をもつと説く。
  • 二月、左散騎常侍張允が、天災のたびの大赦はむしろ冤屈を残し災異を増すおそれがあると上奏した。帝はこれをほめ、百官に封事を出させ、詳定院を置いて採否を審議させた。だが応じる者は少なく、再度督促の詔を出した。

三月 貨幣・官爵制度の整備

  • 三月、民間が銅器を作ることを禁じた。戦乱で銭鋳造が衰え、銭不足から民が銭を溶かして器物にしていたためである。
  • 中書舍人李詳は、近年の恩賞が濫発され、藩鎮が数百人単位で推挙し、書吏・優伶・奴僕にまで紫袍や象笏が及んで、貴賤の別が乱れていると批判した。節度州で奏聞できる武官の数を厳しく限定し、それ以外は本道で軽い職名を与える程度にとどめるよう求め、採用された。

四月―六月 南唐の内政と後晋の対魏戦略

  • 四月、宋斉丘は、丞相でありながら政務に与れないのは不当だと訴えたが、唐主は省署がまだ整っていないと答えた。旧呉主も旧宮からの移転を繰り返し願い、李德誠らもそれを勧めた。
  • 五月、南唐は潤州牙城を丹楊宮と改め、李建勲・王輿・公孫圭・馬思譲らを配して、旧呉主をそこへ移した。防衛のため人選に配慮した措置であった。
  • 後晋では楊光遠が重兵を擁して朝政に干渉しはじめ、帝はしばしばこれに譲歩した。五月、楊光遠の子承祚を帝女に尚ばせ、承信にも美官を与えた。胡三省は、これが後の楊氏の叛逆への伏線だとみる。
  • 宋斉丘は再び左右に讒間されたと訴え、唐主の怒りを買って白衣待罪に至ったが、最終的には呉王璟が手詔を持って召し返した。
  • 六月、毒酒の方を献ずる者がいたが、唐主は常法に反するとして退けた。胡三省は、君主としての体がある言葉だと評する。
  • また、州県名や官署名のうち「呉」や「陽」を避けて改称しようという提案も出たが、徐玠は、これは逆取ではなく順天応人の交代であり、こうした小細工は不要だと述べ、唐主も同意した。楊姓の者が「羊」に改姓しようとした話まであったと注される。

洛陽宮修造の停止と民政

  • 高行周が洛陽宮の修繕を奏請すると、薛融は、いまは魏州も未平定で公私とも困窮しており、宮室修営の時ではないと諫めた。帝はその意見を受け入れ、褒賞した。
  • 金部郎中張鑄は、浮戸が土地に定着しかけても、木を植えて十年足らず、田が五頃にも満たぬうちから徭役と重税を課されるため、また流浪してしまうのだと指摘し、五頃以上を三年維持したのちに徭役対象とすべきだと建言し、採用された。

七月 法制・受命宝・契丹への冊礼

  • 七月、中書は、王朝は変わっても法制は大きく変わらないとして、後唐明宗・清泰期の敕令から長く行いうるものを選び編纂するよう求め、薛融らに命じた。
  • また、受命宝の新造を命じ、「受天明命、惟德允昌」の文を刻ませた。これは、従前の受命宝が唐末の戦乱で失われたためで、唐太宗の旧例も参照された。
  • 帝は契丹主とその母太后に尊号を奉り、馮道を太后冊礼使、劉煦を契丹主冊礼使として、鹵簿や車輅を備えて礼を行わせた。帝は契丹主を父皇帝と呼び、自らは臣下として表を奉じ、契丹使の来朝ごとに別殿で詔を拝受した。
  • 後晋は毎年三十万の金帛に加え、吉凶慶弔や歳時の贈答、さらには太后・元帥太子・諸王・韓延徽・趙延寿ら有力者一人一人への賂まで送り続けた。朝野は屈辱と見たが、帝は終始恭順を崩さなかった。胡三省は、輸出額は実は数県の租税にすぎず、これによって高祖一代は契丹と大きな衝突を避けられたとする。
  • のちには、契丹主は帝に表文での「臣」表記をやめさせ、家人同然に「児皇帝」と書簡で称するだけにさせた。
  • すでに幽州を南京としていた契丹では、留守の趙思温が子の延照を通じて「いずれ契丹は変心するから、幽州を内附させたい」と申し出たが、帝は許さなかった。これは後に趙延照が契丹に取り込まれる伏線となった。

南唐の対契丹策

  • 契丹の使者が南唐へ来ると、宋斉丘は唐主に厚く賄賂を与え、淮北へ至ったところで密かに殺させ、後晋への疑念を生じさせるよう勧めた。胡三省は、殺害場所を晋境と見せかけ、契丹に後晋を疑わせようとする離間策だと解している。

八月 魏州攻囲の進展

  • 八月、楊光遠は、かつて澶州刺史で反乱側にいた馮暉が広晋城から出て降ってきたと報告し、范延光は食糧も尽きて困窮していると伝えた。朝廷は馮暉を義成節度使に任じた。
  • 楊光遠はすでに一年以上広晋を囲んでいたが、まだ落とせなかった。帝は内職の朱憲を城中へ送り、「降伏しても殺さない。もし約束を違えれば自分に天命はない」とまで言って降伏を促した。范延光はこれを信じて守りを緩めたが、なお決断しきれず、さらに劉処譲が入城して説得すると、ついに降る気持ちを固めた。

九月 范延光の降伏とその後

  • 九月朔、楊光遠は范延光の二子を大梁へ送り、ほどなく范延光も牙将を使って謝罪の表を出した。詔書が広晋に届くと、延光は素服で牙門に出て赦免を受けた。
  • 契丹は洛陽に使者を送り、趙延寿の妻である唐の燕国長公主を北へ連れ去った。
  • 南唐では趙可封が、唐主に李姓への復姓と唐宗廟の建立を請願した。
  • 楊光遠は入朝を願い、劉処譲が天雄軍府を暫定的に預かった。朝廷は范延光を天平節度使に移し、鉄券を与えて命を保証し、城中の将吏軍民の罪を全面的に赦した。張従賓・符彦饒の残党や官軍から逃れて入城した者まで赦免された。腹心の李式・孫漢威・薛霸らにも官を与え、牙兵は侍衛親軍に編入された。
  • ただし、張従賓とともに反乱し、広晋に逃げ込んでいた李彦珣だけは問題となった。楊光遠がその母を城下に置いて招いたところ、彦珣は自ら弓を引いて母を射殺したのである。范延光降伏後、帝は赦令に基づき彦珣を坊州刺史に任じたが、胡三省は、叛君の罪は赦しても母殺しの悪逆だけは別に処断すべきで、信義を損なうものではないと強く論難している。
  • その後、楊光遠は天雄節度使となった。

十月 東京建置と楊光遠・桑維翰の対立

  • 十月、契丹は使者を送り、宝冊をもって帝に「英武明義皇帝」の尊号を加えた。
  • 帝は汴州が水陸交通の中心であることから、ここを東京とし、開封府を復活させた。洛陽は西京、長安は晋昌軍節度とし、開封周辺の諸県を畿県とした。胡三省は梁・唐以来の都城名称の推移を詳しく説明している。
  • 兵部尚書王権が契丹へ謝恩使として行くよう命じられたが、累代将相の家に生まれた身として、穹廬の下で屈膝する恥には耐えられぬとして病を称して辞退し、官を停められた。
  • このころ楊光遠は劉処譲を通じてしばしば越権の要求を出し、桑維翰だけが法をもってこれを抑えたため、処譲と楊光遠は執政を恨むようになった。范延光降伏後、楊光遠は執政の過失を密奏し、帝はやむなく桑維翰・李崧から枢密使を外し、劉処譲をその地位につけた。胡三省は、諸史の記述を比較し、この時点での罷免と見るのが正しいと考証している。
  • また、東京を建てても宗廟・社稷は西京に残すことが決まり、当面は旧のままとされた。

十月末―十一月 交州遠征の失敗と楚・閩・楊光遠対策

  • 呉権は愛州から兵を挙げて皎公羨を攻めた。公羨は漢へ賄賂を贈って救援を求めたため、漢主はこれに乗じて交州を取ろうとし、子の万王劉弘操を静海節度使・父王として出兵させ、自らも海門に屯した。
  • だが蕭益が、長雨で海道は険しく、呉権は狡猾で軽進できないと諫めたのに従わず、劉弘操は白藤江をさかのぼって進んだ。呉権は海口に多数の大杙を鉄で覆って仕掛け、潮に乗って軽舟で挑戦し、退いたふりをした。潮が引くと漢船は杭にかかって退けず、大敗し、劉弘操も戦死した。漢主は痛哭して撤兵した。
  • 侯融は以前から漢主に兵をやめ民を休ませるよう勧めていたが、敗戦後その責任をなすりつけられ、墓を暴かれて屍をさらされた。
  • 楚では順賢夫人彭氏が死んだ。容貌はすぐれなかったが家政をよく治めていたため、馬希範は彼女を恐れていた。死後、希範は夜を徹して酒色にふけり、人妻を奪ってその夫を殺すほど放縦となったが、その妻は自経して節を守った。
  • 河は鄆州で決壊した。
  • 十一月、范延光が鄆州から入朝し、閩主王昶は後晋から閩国王に冊封された。使者として盧損が派遣され、赭袍まで賜与されたが、これは実質上、僭称を追認するに等しい措置であった。
  • 王繼恭には臨海郡王を与えたが、閩主はすでに皇帝号を称していたため、進奏官を通じて冊命も使者も辞退した。諫議大夫黄諷は淫暴を諫め、杖罰を拒んで黜けられた。
  • 後晋では、天雄節度使楊光遠の勢力を削ぐため、桑維翰の建議で広晋を鄴都とし、相州に彰徳軍、貝州に永清軍を置き、天雄の領域を分割した。さらに澶州を徳勝津へ移し、契丹への将来の備えとした。高行周を鄴都留守、王廷胤を彰徳節度使、王周を永清節度使とした。
  • 范延光はたびたび致仕を願い、ついに太子太師として大梁に住むことを許され、宴会にも群臣同様に列する扱いを受けた。反乱当時、相州境を守って従わなかった王景は耀州団練使に進められた。

十一月末―十二月 天福元宝と各国の末尾記事

  • 癸亥、朝廷は公私の銅銭鋳造を許し、「天福元宝」の文をもつ新銭を作らせた。塩鉄司が模範を配り、銅器の私造のみを禁じた。のちには、銅が得にくいことから、軽重は便宜に任せ、ただし欠けや漏れがないようにせよとまで緩めた。胡三省は、私鋳自体が長続きしない策であり、そのうえ軽重を自由にすれば必ず軽薄銭が横行すると厳しく批判している。
  • 石重貴が鄭王・開封尹に立てられた。
  • 辛丑、旧呉主が死去した。胡三省は、諸史に「弑」とも「卒」ともあり断定しがたいとして、ここでは卒とみるが、唐主が二十七日廃朝して厚礼を示したのは、位を奪った後で情を装う行為にすぎないと手厳しく論じる。追諡は睿皇帝であった。
  • この年、南唐では呉王璟を斉王へ移し、鳳翔では李従曮が文士を厚遇し武人を軽んじたことから、辺境へ出征する兵が反乱して市中を掠めたが、華州の張彦沢が迎撃して皆殺しにした。