資治通鑑後唐紀 潞王 清泰元年 年数(漢数字)年 934年

二月 蜀・呉・後唐諸藩で政局が動く

  • 癸酉、蜀では趙季良が司空・同平章事となり、引き続き節度使を兼ねた。これは後の孟蜀建国を支える重臣としての地位を固めるものだった。
  • 呉では、都を江都から金陵へ移す案に対し反対論が強く、都押牙の周宗も徐知誥に対して、遷都は民心に逆らい費用も莫大だと諫めた。丙子、呉主は宋齊丘を金陵に遣わし、遷都中止を徐知誥に伝えさせた。
  • 徐知誥は以前から禅譲を望んでいたが、呉主に失徳がないため、世論の反発を恐れて後継の代を待とうとしていた。宋齊丘も当初は同意していたが、周宗が先に徐知誥の胸中を察して独断で江都へ赴き、呉主へ禅譲をほのめかしたため、宋齊丘は激しく反発した。
  • 宋齊丘は急使を飛ばして徐知誥へ書を送り、時機尚早だと強く諫めた。徐知誥は驚いたが、のちに宋齊丘が到着すると、周宗を処罰して呉主に謝るよう求め、周宗は池州副使へ左遷された。
  • その後、李建勲・徐玠らが徐知誥の功績から早期の即位を勧め、周宗も復職したため、徐知誥は宋齊丘を疎んじるようになった。

二月 石敬瑭・潞王の転任命令

  • 後唐朝廷では朱弘昭・馮贇が、石敬瑭を太原に長く置くのを嫌い、また孟漢瓊を天雄へ移したかった。
  • 己卯、范延光を成徳から天雄へ、潞王李從珂を鳳翔から河東へ、石敬瑭を河東から成徳へ移すことが決まった。ただし正式な制書は下されず、枢密院の宣命だけが使臣に持たされ、監送まで付けられた。朝廷が異例に強圧的な形で諸鎮を動かそうとしたのである。
  • 呉では徐知誥が空けていた府第に、呉主が戻るよう命じられた。
  • 甲申・乙酉、金陵で大火が続き、徐知誥は変乱を疑って兵を集め、自衛した。

二月 潞王、拒命を決意

  • 潞王李從珂は、もともと朝廷と不和であり、さらに鳳翔に送られてくる洋王李從璋の性格も荒く、過去の確執もあって強く警戒した。
  • 拒命するには兵糧が不足していたため、まず将佐に相談すると、多くが「皇帝は若く、政権は朱弘昭・馮贇が握っている。大王は功名が高すぎるので、任地を離れれば無事では済まない」として、命令を受けるべきでないと勧めた。
  • ただし観察判官の馬胤孫だけは、「君命を受けた以上、ためらうべきではない」と正論を述べたが、周囲は時勢が分からぬ儒生の議論として笑った。
  • そこで潞王は近隣諸道へ檄を飛ばし、朱弘昭らが先帝の病中に長子を除き、幼主を立てて朝権を専断し、宗室や藩鎮を動揺させていると非難したうえで、自分は都に入って「君側の悪」を除くつもりだが単独では難しいので援助してほしいと訴えた。

二月 王思同の拒絶と朝廷の西征準備

  • 潞王は、東進路を押さえる西京留守王思同を味方に引き入れようとして、郝詡・朱廷乂らを長安へ送り、利害を説き、さらに美女を贈って懐柔し、それでもだめなら暗殺まで狙わせようとした。
  • しかし王思同は、明宗の恩を受けた身として反逆に加わることはできないと断じ、郝詡らを捕えて朝廷へ報告した。
  • 潞王の使者は多くが近隣諸道で捕えられ、はっきり拒否されない場合でも、二股をかける者が多かった。隴州防禦使の相里金だけが熱心に潞王へ通じ、薛文遇を往来させて連絡を取った。
  • 朝廷では鳳翔討伐が議されたが、康義誠は自ら出征して軍権を手放すのを嫌い、王思同を統帥に推した。侯益は軍情の変化を知って出征を辞退したため、商州刺史へ左遷された。
  • 辛卯、王思同が西面行営馬歩軍都部署、薬彦稠が副将、萇從簡・尹暉・楊思權らが偏将となった。
  • 丁酉、王思同には同平章事が加えられ、鳳翔行府を知ることとなった。だが彼は忠義心はあっても統軍に長けず、一方で潞王は戦陣に熟達しており、将士は富貴を期待して潞王へ心を寄せた。
  • そのころ朝廷は、亳州団練使李重吉を捕えて宋州に幽閉した。

三月 鳳翔攻防と朝廷軍の崩壊

  • 三月、安彦威・張虔釗・孫漢韶・張從賔・康福ら諸道の兵が鳳翔に集まり、乙卯には東西の関城を奪い、翌日も総攻撃を続けた。
  • 鳳翔城は守備が弱く、城中は危機に陥った。潞王は城上で涙ながらに、自分が若い頃から先帝に従って百戦し、傷だらけになって社稷を支えてきたのに、今は讒臣のために兄弟である自分が誅されようとしていると訴えた。これを聞いた敵兵の多くが同情した。
  • 張虔釗は短兵をもって西南方面の兵を無理に攻め上らせたが、兵は怒って罵り、かえって彼に反発した。
  • ここで楊思權が「大相公こそ我らの主だ」と叫び、諸軍を率いて武装解除し、潞王に降った。彼は紙片に「京城を取った日には節度使にしてほしい、防禦使や団練使では不満だ」と書いて差し出し、潞王はすぐに邠寧節度使を約した。
  • 王思同はまだ事情を知らずに攻城を急がせたが、尹暉が「城西ではすでに入城して賞を得た」と叫ぶと、兵は一斉に降伏し、日中のうちに乱兵が城内へ雪崩れ込んだ。朝廷軍は全面崩壊し、王思同ら六節度使は逃走した。
  • 潞王は城中の財貨を集めて軍に分け与え、鍋釜まで値をつけて支給した。

三月 潞王、長安を経て東進

  • 丁巳、敗走した王思同・薬彦稠らは長安へ向かったが、西京副留守の劉遂雍は城門を閉ざして入れず、彼らは潼関へ向かうしかなかった。
  • 潞王は東進を開始し、孔目官の劉延朗を腹心とした。
  • 劉遂雍は、潞王軍が長安へ来る前に府庫の財を前軍へ与えて歓心を買い、続いて民間の財貨まで徴発して後続軍にも賞を出した。そのため庚申、潞王が長安に着くころには大きな抵抗は起こらなかった。
  • 洛陽では、西面歩軍都監王景從らが敗報をもって帰り、内外が大いに動揺した。

三月 閔帝の嘆きと洛陽軍の弛緩

  • 閔帝は康義誠らに向かい、自分は幼くして即位し、国政を諸公に委ねてきたのに、兄弟間を隔てるようなことはしていない、社稷の大計を率直に語ってほしいと訴えた。さらには、自ら潞王を迎えて位を譲り、死ぬことになってもよいとまで語った。
  • 朱弘昭・馮贇はこれを聞いて恐れたが、康義誠は敗北は王思同の失策にすぎないと強弁し、自分が宿衛兵を率いて要地を押さえ、挽回すると申し出た。
  • 閔帝は石敬瑭を呼んで防戦させようともしたが、康義誠が強く願ったためこれを許し、将士には府庫を空にしてまで金帛を支給し、鳳翔平定後にはさらに二百緡を賞すると約束した。
  • しかし軍士はますます驕り、路上で「鳳翔へ行けばもう一口欲しい」と言い合うほどだった。
  • このころ楚匡祚は宋州で李重吉を殺し、その家財を責め立て、さらに尼の惠明も殺した。

三月 朱洪實処刑

  • 朱洪實はかつて秦王從榮に厚遇され、また孟漢瓊が從榮を捕えた時も先頭に立ったため、康義誠は彼を恨んでいた。
  • 辛酉、閔帝が左蔵で将士に金帛を与えている際、康義誠と朱洪實が用兵を論じた。朱洪實は禁軍で洛陽を固守し、相手の軽進を待って徐々に討つべきだと主張した。
  • 康義誠は怒ってそれを反逆呼ばわりし、朱洪實も逆に康義誠こそ反意ありと応じた。閔帝は両者を取り調べたが、是非を判断できず、結局朱洪實を斬った。
  • これにより、軍中の不満はさらに高まった。

三月 王思同の最期

  • 壬戌、潞王は昭応へ到着し、前軍が王思同を捕えたと聞くと、彼は失策こそあれ忠義を尽くした人物だと評し、助命を考えた。
  • 癸亥、霊口で王思同が引き出されると、潞王は責めたが、王思同は「自分は行伍から抜擢され、節度使にまでなった。大王に従えば富貴は得られると知りつつ、先帝に顔向けできぬから朝廷に尽くした」と述べ、早く死なせてくれと願った。潞王はその言葉に態度を改め、いったん休ませようとした。
  • ところが、楊思權ら降将たちは彼を生かしておくのを恥とし、尹暉は長安通過の際に王思同の財産や妾を奪ったうえで、劉延朗に「生かせば士気が下がる」と繰り返し吹き込んだ。潞王が酔っている隙に、報告を待たず王思同とその妻子を殺した。潞王は目覚めて怒り、劉延朗を責め、数日間惜しんだ。

三月 諸軍続々降伏、康義誠も瓦解

  • 癸亥、朝廷ではなお康義誠を鳳翔行営都招討使、王思同を副将とする制を出したが、すでに情勢は取り返しがつかなかった。
  • 潞王は華州・閿郷を経て東進したが、朝廷が前後して発した諸軍は、西軍に会うたびに争って降り、一戦も交えなかった。
  • 丙寅、康義誠は洛陽を発したが、同日、潞王は霊宝に至り、安彦威・安重霸も降伏した。保義節度使の康思立だけは陝城を固守しようとしたが、捧聖軍の五百騎が「禁軍十万も新帝に従った」と城下で叫ぶと、城兵はこぞって出迎え、康思立も従うしかなかった。
  • 丁卯、潞王は陝に到着したが、側近の勧めでしばらく留まり、洛陽の文武・士庶に対して書を送り、朱弘昭・馮贇の一族以外は赦すと告げた。
  • 康義誠の軍では将士が十人百人単位で結託して武器を捨て、陝へ降り続けた。乾壕まで来たときには康義誠の手元には数十人しかおらず、潞王の斥候に弓剣を預けて降伏した。

三月末―四月初 朱弘昭・馮贇の死、閔帝逃走

  • 戊辰、閔帝は潞王が陝に来て康義誠軍も潰れたと知り、慌てて朱弘昭を召した。朱弘昭は自分が罪せられると思い込み、井戸へ身を投げて死んだ。
  • 安從進はこれを聞き、馮贇を邸で殺して一族を滅ぼした。
  • 閔帝は魏州へ逃れようとし、孟漢瓊を先発させようとしたが、彼は応じず単騎で陝へ走った。
  • 閔帝は側近の慕容遷とひそかに相談し、玄武門から北へ脱出しようとした。夜、五十騎だけで城を出て魏州で再起を図ると告げたが、慕容遷は口では従うと言いながら門を閉ざして随行しなかった。人心離反はこのうえなかった。
  • 己巳、馮道・劉昫らは朝へ向かったが、端門で朱弘昭・馮贇の死と皇帝逃亡を知った。李愚は太后の意思を仰ぐべきだと主張し、馮道は新主に従う現実論を述べた。盧導は潞王が都へ入る前に勧進文書を書くなど論外だと反対したが、安從進が百官を谷水まで迎えに行かせようと急がせたため、議論は押し流された。

四月 閔帝、石敬瑭に見放される

  • 庚午未明、閔帝は衛州近くで石敬瑭に会い、国家の大計を問うた。石敬瑭はまず西征軍のことを尋ね、閔帝が康義誠も叛いたと答えると、長くため息をついた。
  • 石敬瑭は衛州刺史王弘贄に相談したが、王弘贄は、古来の播遷の天子には将相・侍衛・府庫・法物が伴ったが、今の閔帝には何もなく、わずか五十騎でどうにもならないと述べた。
  • これを伝えられると、弓箭庫使沙守榮と奔洪進は石敬瑭を「逆臣に付き、天子を売るつもりだ」と責めた。守榮は刀を抜いて刺そうとし、石敬瑭側の陳暉と相打ちになり、奔洪進も自殺した。
  • 石敬瑭の部下劉知遠は兵を率いて閔帝の左右や従騎を皆殺しにし、閔帝だけを残して去った。石敬瑭はそのまま洛陽へ向かった。

四月 潞王入洛、閔帝廃位

  • 太后は諸司に命じて乾壕まで潞王を迎えさせたが、潞王は急ぎ洛陽に戻させた。
  • 孟漢瓊は、かつて王淑妃の意を受けて潞王を気遣った恩義をあてにしていたが、澠池西で潞王に会うと、そのまま供奉列に加えられたうえ、すぐ道ばたで斬られた。
  • 張虔釗は鳳翔で敗れて興元へ逃れ、孫漢韶とともに山南西道・武定の二鎮を挙げて蜀へ降った。蜀主は李肇・張業に兵を与えて迎えさせた。
  • 壬申、潞王が蔣橋に着くと、百官が道で迎えた。潞王は「まだ梓宮に拝していないので会えない」と伝えたが、馮道らは勧進表を上げた。
  • 潞王は太后・太妃に拝し、西宮で梓宮に伏して慟哭し、自らの起兵の経緯を陳じた。その後、百官に会ったが、なおも自分はあくまで皇帝帰還後に藩鎮へ戻るつもりだと述べ、軽々しく即位を言うなと戒めた。
  • 癸酉、太后は少帝を鄂王に廃し、潞王に軍国の事を統べさせ、書詔・印を用いて施行させた。
  • 甲戌、太后は潞王に即位を促し、乙亥、潞王は柩前で即位した。

四月 軍賞の不足と閔帝の殺害

  • 潞王は鳳翔出発時、洛陽入城後に軍士へ一人百緡を与えると約束していた。ところが、三司使王玫は府庫に数百万あると答えたのに、実際に調べると金帛は三万両・三万匹ほどしかなく、必要額には遠く及ばなかった。
  • 王玫は京城の民財を徴発して補おうとしたが、数日で数万緡しか集まらなかった。そこで執政の提案により、家屋を基準に住民・借家人を問わず五月分の家賃を前借りすることになった。
  • 一方、衛州では王弘贄の子・王巒が閔帝に毒を盛るため派遣された。閔帝は毒を見抜いて飲まず、王巒はついに彼を絞殺した。閔帝は二十一歳だった。
  • 閔帝は本来、兄弟に対して情が厚く、潞王にも特に疑いを抱いていなかったが、朱弘昭・孟漢瓊らの猜疑が災いし、みずからもそれを抑えきれず破滅した。
  • 孔妃とその四子も後に殺された。
  • 閔帝が衛州にあったとき、起居を気遣ったのは磁州刺史宋令詢だけで、彼は訃報を聞くと半日泣き、自経した。

四月 新政発足

  • 己卯、石敬瑭が入朝した。
  • 庚辰、劉昫が判三司となった。
  • 辛巳、蜀は大赦して明徳と改元した。
  • 劉遂清は、潞王起兵時に召しに応じず、後に潞王が洛陽へ入ると、三泉・西県・金牛・桑林の守兵を集めて帰順した。散関以南の城鎮はことごとく放棄され、蜀のものとなったが、朝廷は彼の帰順を評価して赦した。
  • 甲申、蜀将張業が興元・洋州へ入った。
  • 乙酉、後唐は大赦して清泰と改元した。
  • 丁亥、郝瓊が権判枢密院、王玫が宣徽北院使、韓昭胤が端明殿学士となった。
  • 戊子、康義誠が誅殺され、一族も滅ぼされた。
  • 己丑、薬彦稠も誅殺された。
  • 庚寅、王景戡・萇從簡は赦された。

四月 軍賞徴発と民怨

  • 官司はあらゆる手段で民間から財貨を取り立てたが、ようやく六万緡に届く程度だった。皇帝は怒って軍巡使の獄で昼夜責め立てさせたため、囚人が満ち、自殺者も続出した。
  • その一方で軍士は市場を横行し、得意げな顔をしていたので、市人は「主君のために力戦して功を立てたわけでもないのに、我らが痛めつけられて賞金を出す羽目になっている」と罵った。
  • 左蔵の旧蔵品、諸道の貢物、太后や太妃の器服・簪珥まで差し出して、ようやく二十万緡ほどに達した。
  • 皇帝が苦慮していたところ、李專美は、長興年間以降の過度な賞賚が兵を驕らせ、山陵や出師で国庫も涸渇したのだと指摘した。潞王が危地から天下を得たのも厚賞のおかげだけではなく、法度と紀綱の建て直しが肝心で、今さら最初の約束にこだわる必要はないと諫めた。皇帝はこれを是とした。
  • 壬辰、鳳翔で帰順した禁軍には、楊思權・尹暉ら上級者へ馬・駱駝・銭を与え、下級兵にも二十緡ずつ、在京軍にも十緡を支給したが、兵はなお飽き足らず、恨み言まで言った。
  • 軍中では「菩薩を除いて、生鉄を立てた」との歌が流れた。仁弱な閔帝を退け、厳しい新帝を立てたことを悔いる気分が広がったのである。
  • 丙申、明宗が徽陵に葬られ、廟号を明宗とした。皇帝は喪服で護送し、陵所に宿した。

五月 石敬瑭の帰鎮と人事

  • 丙午、韓昭胤が枢密使、劉延朗が枢密副使、房暠が宣徽北院使となった。
  • 皇帝と石敬瑭はともに勇力で明宗に仕えたが、もとより仲が悪かった。石敬瑭は病で痩せ衰えており、太后や魏国公主も帰鎮を願った。
  • 鳳翔出身の将佐には石敬瑭を京師に留めたがる者も多かったが、韓昭胤・李專美は、汴州の趙延壽を刺激すべきでないとして反対した。皇帝も石敬瑭の痩せた姿を見て脅威に思わず、「石郎こそ親しく、若い頃から苦楽をともにした」と言って、河東節度使に復帰させた。
  • 戊午、相里金は保義節度使に進められた。
  • 丁未、階州刺史趙澄が蜀へ降った。
  • 戊申、楊思權は静難節度使となった。
  • 己酉、張虔釗・孫漢韶の一族は成都へ移された。
  • 庚戌、馮道は匡国節度使へ出され、范延光が枢密使となった。
  • 鳳翔の民が李從曮の復帰を求めていたため、皇帝はこれに応じ、のち李從曮を鳳翔節度使にした。
  • 房知温はかつて明宗の北面招討軍で皇帝の上官だった。旧怨もあったが、洛陽が安定したと見ると入朝して謝罪し、多くの貢物を献じた。皇帝も厚く遇した。
  • 呉では徐知詢が死んだ。
  • 蜀は成州を奪った。

六月 蜀・呉・後唐で新たな不安

  • 甲戌、皇子の重美が成徳節度使・河南尹・判六軍諸衛事となった。
  • 文州都指揮使の成延龜が州を挙げて蜀へ付いた。
  • 呉では徐知誥が禅譲を進めるうえで、宗室の臨川王徐濛を危険視し、亡命者を匿い武器を造っていると讒言させた。丙子、徐濛は歴陽公に降封され、和州へ幽閉された。
  • 劉昫と李愚は政見が合わず、馮道の出鎮後は対立が激しくなった。皇帝は宰相を替えようと思ったが、姚顗・盧文紀・崔居儉の優劣を決めかねたため、名を書いた瓶から箸で引き、まず盧文紀、次いで姚顗が選ばれた。
  • 七月辛亥、盧文紀が宰相となった。崔居儉は崔蕘の子である。

七月 楚匡祚流罪、蜀主の崩御

  • 皇帝は李重吉を殺した楚匡祚を誅したがったが、韓昭胤は、彼は詔命に従っただけで、族滅しても死者の心は慰まらぬと諫めた。乙卯、楚匡祚は登州へ長流となった。
  • 丁巳、劉氏が皇后に立てられた。
  • 回鶻の朝貢使が河西の雑虜に掠奪されることが多く、牛知柔が禁兵を率いて護送し、邠州兵とともに討った。
  • 呉では宋齊丘が金陵へ戻されたが、諸道都統判官・司空の名を与えられても実権はなく、南園を与えられて閑置された。
  • 洋王從璋・涇王從敏は藩鎮を解かれて洛陽の私第に住まわされ、待遇も冷淡だった。とくに從敏は李重吉殺害に関与したため、皇帝は強く憎み、宴席で二王を侮辱した。
  • 蜀では永平軍を雅州に置き、孫漢韶を節度使、張虔釗を山南西道節度使にしたが、張虔釗は恥じて赴任しなかった。
  • 蜀主孟知祥は病が悪化し、甲子、子の仁賛を皇太子として監国とし、趙季良・李仁罕・趙延隠・王處回らに後事を託した。
  • その夜、蜀主は崩じたが、すぐには発表されなかった。王處回が趙季良へ知らせると、趙季良は泣いている暇はない、強将らが変をうかがっているから急いで嗣君を立てるべきだと叱咤した。李仁罕にはまず意向を探ってから知らせるよう助言した。
  • 丙寅、遺制が宣布され、仁賛は名を昶と改め、丁卯に即位した。

八月 租税整理と新宰相

  • 劉昫は高延賞に命じて財政を精査させ、王玫が答えた左蔵の現物不足は、長年棚上げされてきた滞納を奸吏が利をむさぼるために温存していたからだと突き止めた。
  • 昫は、徴収可能なものだけを急いで取り立て、到底払えぬ分は免除すべきと奏し、韓昭胤もその便宜を強く支持した。
  • 庚午、長興以前の戸部・諸道の逋租三百三十八万について、帳簿上の煩瑣な残欠をすべて免除する詔が出た。貧民は大いに喜んだが、三司の吏は利権を失って恨んだ。
  • 辛未、姚顗が宰相となった。
  • 右龍武統軍の索自通は、以前の河中事件以来、内心安からず、戊子に退朝後洛水に身を投げて死んだ。皇帝は驚き、太尉を追贈した。
  • 丙申、趙鳳が太子太保となった。

九月 蜀と河東

  • 癸卯、後唐は鳳翔に兵を増やし、東安鎮を守らせて蜀に備えた。
  • 蜀では李仁罕が宿将としての功と遺詔の立場を頼みに、六軍の統轄権を求めた。蜀主はやむなく甲寅、彼を中書令・判六軍事とし、趙延隠を副えた。
  • 己未、雲州から契丹来寇の報があり、石敬瑭は百井に屯して備えると奏上した。
  • 辛酉、振武節度使楊檀が境上で契丹を破ったと石敬瑭は報告した。
  • 蜀の李肇は新主の即位後もなかなか入朝せず、漢州で親族と宴飲して日を過ごした。

十月 李愚・劉昫罷相、蜀で李仁罕誅殺

  • 庚午、李肇はようやく成都に来たが、足病を称して杖にすがり、拝礼もしなかった。
  • 戊寅、李愚は宰相を罷められ、劉昫も右僕射となって宰相を退いた。三司の吏たちは劉昫の罷免を喜び、誰一人として彼を見送らなかった。
  • 蜀では張公鐸・韓繼勲・韓保貞・安思謙らが、日ごろ李仁罕を憎んでおり、彼に異志ありと讒言した。蜀主は趙季良・趙延隠らと計り、入朝の機会に李仁罕を捕えて殺した。
  • 癸未、李仁罕とその子・宋從會らは誅殺された。
  • この日、李肇は杖を手放して拝礼した。ついさっきまでの不遜さが、李仁罕の死を見て一変したのである。
  • 蜀の源州では文景琛が反乱したが、果州刺史李延厚が平定した。
  • 蜀主の側近たちは李肇の慢心を理由に誅殺を求めたが、戊子、太子少傅致仕として邛州へ移すにとどめた。
  • 呉主は徐知誥に大丞相・尚父・嗣斉王・九錫を加えようとしたが、徐知誥は辞退した。
  • 雄武節度使張延朗は文州を囲み、階州刺史郭知瓊は尖石寨を奪った。蜀の李延厚が援軍を送ると、張延朗は撤退し、馮暉も乾渠から鳳翔へ戻った。

十一月 呉の継嗣体制

  • 徐知誥は長子の景通を江都から金陵へ呼び戻し、鎮海・寧国節度副大使、諸道副都統判、中外諸軍事とした。
  • 次子の景遷は左右軍都軍使・左僕射・参政事として江都に留め、呉主を補佐させた。

十二月 年末の人事と各国の動き

  • 己巳、安叔千が振武節度使、尹暉が彰国節度使となった。安叔千は契丹防戦の功、尹暉は鳳翔帰順の功によるものだった。
  • 壬申、石敬瑭は契丹が引いたので兵を解いて晋陽へ帰ると奏上した。
  • 乙亥、張延朗が召されて宰相兼判三司となった。
  • 辛巳、漢の皇后馬氏が亡くなった。
  • 甲申、蜀では孟知祥が和陵に葬られ、廟号を高祖とした。
  • 乙酉、鄂王となっていた閔帝が徽陵城南に葬られた。封土はわずか数尺で、人々は哀れんだ。
  • この年の秋冬は旱魃で、民の流亡が多く、とくに同州・華州・蒲州・絳州で深刻だった。
  • 漢では秦王劉弘度が宿衛兵千人を募ったが、多くは市井の無頼で、弘度は彼らを寵愛した。宰相楊洞潜は、太子筋の王にこうした小人を近づけるのは危険だと諫めたが、漢主は聞き入れなかった。洞潜は街で衛士が商人を掠めるのを見て、政治がここまで乱れた以上宰相でいる意味はないと嘆き、病を称して辞職し、そのまま死んだ。