資治通鑑後唐紀 明宗聖德和武欽孝皇帝 天成 一年 926年

夏四月 洛陽で禁軍が反乱し、荘宗が戦死する

  • 四月朔、出発の準備が進められる中、騎兵は宣仁門外、歩兵は五鳳門外に整列した。
  • このとき、従馬直指揮使の郭従謙は、養父でもあった睦王李存乂がすでに殺されていたことを知らず、これを擁立して乱を起こそうとした。彼は麾下の兵を率いて営中から刃を抜いて叫び、黄甲両軍とともに興教門を攻めた。
  • 荘宗は食事中に変を聞き、諸王と近衛騎兵を率いて自ら迎撃し、反乱兵を門外へ追い出した。
  • ところが、蕃漢馬歩使の朱守殷は外に騎兵を率いていたにもかかわらず、急召を受けても来援せず、北邙の林の下で兵を休ませて動かなかった。
  • 乱兵は興教門を焼き、城に沿って侵入した。側近や宿将の多くは武装を解いて逃げたが、散員都指揮使の李彦卿、宿衛軍校の何福進・王全斌ら十数人だけが奮戦した。
  • まもなく荘宗は流れ矢に当たり、鷹坊の善友に助けられて絳霄殿の廡下へ移された。荘宗は矢を抜いて激しく苦しみ、水を求めたが、皇后は自ら見舞わず、宦官に酪を進ませたため、ほどなく崩じた。四十二歳であった。
  • 李彦卿らは慟哭して去り、善友は帝の遺体を楽器で覆って焼いた。
  • 李彦卿は李存審の子であり、何福進・王全斌はいずれも太原の人で、のちに功名を立てた。

劉后らの逃走と宮中・都城の掠奪

  • 劉皇后は金銀財宝を袋に入れて馬の鞍に結びつけ、申王李存渥・李紹榮とともに七百騎を率いて嘉慶殿に火を放ち、師子門から逃げた。
  • 通王李存確と雅王李存紀は南山へ逃れ、宮人の多くも散り散りになった。
  • 朱守殷は宮中に入り、宮人三十余人を選んで各自に楽器や珍宝を持たせ、自宅へ運ばせた。
  • これを機に諸軍は大々的に洛陽を略奪した。

李嗣源が洛陽入りし、事態を収拾する

  • この日、李嗣源は甕子谷に到着して変を知り、慟哭して「主上は本来人望があったのに、側近の小人に遮られてこの結末に至った。今の自分はいったいどこへ帰ればよいのか」と諸将に語った。
  • 戊子、朱守殷は使者を走らせ、都での焚掠が止まらないので早く来て救ってほしいと李嗣源に告げた。
  • 乙丑、李嗣源は洛陽に入り、私邸にとどまって掠奪を禁じ、灰燼の中から荘宗の遺骨を拾い集めて殯した。

侯益の帰参と、魏王継岌を待つ姿勢の表明

  • 李嗣源が鄴に入った際、前直指揮使の侯益は身を脱して洛陽へ帰っており、荘宗はこれを抱いて涙したという。今ここで侯益は自縛して罪を請うたが、李嗣源は「臣下として節を尽くしただけだ」として復職させた。
  • 李嗣源は朱守殷に対し、宮城や市中をよく巡察して魏王李継岌を待つよう命じた。
  • また、宮中に残る淑妃・徳妃への供給を手厚くするよう指示した。
  • さらに、自分は山陵が終わり、社稷に奉ずべき主が立てば藩鎮へ帰って北方守備に当たるつもりだと述べた。

百官の推戴と、監国就任への流れ

  • 同日、豆盧革は百官を率いて李嗣源に即位を勧めた。
  • 李嗣源は、自分は討賊の詔を受けていたが、部曲が離散し、洛陽へ来たのも弁明のためで、もとより別心はないとして断った。だが百官はなおも推戴した。
  • 李紹榮は河中の永王李存霸を頼って逃げようとしたが、従兵が散り、平陸で捕えられて足を折られ、洛陽へ送られた。
  • 李存霸も千人を率いて河中を捨て、晋陽へ奔った。

魏王継岌の西帰と、晋陽での変

  • 辛卯、魏王李継岌は興平で洛陽の乱を聞き、兵を返して西へ向かい、鳳翔を保って立てこもろうとした。
  • 向延嗣は鳳翔へ着くと、荘宗の命によるとして李紹琛を誅した。
  • もともと荘宗は呂・鄭という二人の内養を晋陽に置き、一人に兵を監させ、一人に倉庫を監させていた。鄴都に変が起こると、さらに汾州刺史の李彦超を北都巡検に命じていた。
  • 荘宗の死後、推官の張昭遠は張憲に対して李嗣源を勧進するよう勧めたが、張憲は先帝の恩を思い、それを拒んだ。張昭遠はその忠義を称えた。
  • 洛陽から逃げて来た李存沼という近親者が、荘宗の詔と偽って二人の内養と結び、張憲・李彦超を殺して晋陽に拠ろうとした。李彦超は先手を打つよう勧めたが、張憲はあえてそれをしなかった。
  • 壬辰の夜、軍士たちは内養二人と李存沼を牙城で殺し、城中を夜通し掠奪した。張憲は忻州へ逃れた。
  • その後、李嗣源の書簡が届き、李彦超が暫定的に太原軍府を掌握すると、城中はようやく落ち着いた。

監国就任と、後宮整理

  • 百官は三度にわたって李嗣源に監国就任を請い、ついに許されると、甲午に興聖宮へ入り、初めて百官の朝見を受けた。以後、命令文は「教」と称し、百官は「殿下」と呼んだ。
  • 荘宗の後宮にはなお千人余が残っていたが、宣徽使が若く美しい者数百人を選んで監国に献じようとした。
  • 監国はこれを退け、宮中の職掌には旧例を知る老成者をあて、若い者は親族のもとへ帰し、親族のない者は自由に去らせた。蜀から送られた宮人も同様に処置した。

安重誨・張延朗の登用、諸王の密殺

  • 乙未、中門使の安重誨を枢密使、鎮州別駕の張延朗を副使とした。張延朗は租庸関係の実務吏出身で、権貴への取り入りに巧みであり、娘を安重誨の子に嫁がせていたため重用された。
  • 監国は諸王の所在を捜索させたが、通王李存確・雅王李存紀は民間に潜んでいた。
  • 安重誨は李紹真と相談し、監国が喪を主宰している間に諸王を早く処分すべきだと考え、監国に知らせず密かに二人を殺させた。
  • 一月あまり後に監国はこれを知り、安重誨を強く叱責し、長く悲しんだ。

劉皇后・李存霸らの最期

  • 劉皇后は申王李存渥とともに晋陽へ向かう途中で私通し、晋陽へ着いても李彦超に入城を拒まれ、風谷まで逃げて部下に殺された。
  • 翌日には永王李存霸も晋陽へ至ったが、従兵はすべて逃げ散った。彼は頭を剃って僧形となり、李彦超にかくまいを乞うた。
  • だが軍士は聞かず、府門の碑の下でこれを殺した。
  • 劉皇后も晋陽で尼となっていたが、監国は人をやって殺させた。
  • 薛王李存礼と荘宗の幼子たち李継嵩・李継潼・李継蟾・李継嶢は乱中に行方知れずとなり、ただ邕王李存美だけが中風で半身不随だったため助かって晋陽に住んだ。

各地の反応と、孫光憲の登用

  • 徐温と高季興は荘宗の横死を聞き、以前から見通しを示していた厳可求・梁震をますます重んじた。
  • 梁震は、前陵州判官の孫光憲を高季興に推挙し、書記として用いさせた。
  • 高季興は楚を攻めるため軍船を大いに整えたが、孫光憲は、ようやく民に生気が戻ったばかりの荊南が再び楚と争えば他国に乗じられると諫めたため、高季興は中止した。

李紹榮の処刑と、元行欽への復姓

  • 戊戌、李紹榮が洛陽へ送られてくると、監国は「なぜ我が子を殺したのか」と責めた。
  • 李紹榮は怒って「先帝はお前に何の恨みがあったのか」と言い返したため、その場で斬られた。
  • そして彼の旧名に戻し、元行欽とされた。

西征軍帰還への備えと、政務整理

  • 監国は、蜀から帰還する軍が変を起こすのを恐れ、石敬瑭を陝州留後、李従珂を河中留後に任じた。
  • 枢密使の張居翰は引退を願い、許された。
  • 李紹真がたびたび孔循の才を推したので、庚子に孔循を枢密副使とした。
  • 李紹宏は馬姓への復姓を求め、許された。

孔謙の処刑と、租庸使の廃止

  • 監国は、租庸使の孔謙が奸佞で軍民を苦しめた罪を列挙して斬った。
  • 孔謙が設けた苛斂の法はすべて廃し、租庸使と内勾司も廃止した。
  • 旧来の塩鉄・戸部・度支の三司制に戻し、宰相一人にこれを専判させた。
  • また諸道の監軍使も廃し、荘宗が宦官によって国を失ったとして、地方にいる宦官を皆殺すよう命じた。

魏王継岌の自殺

  • 魏王李継岌は興平から武功へ退き、宦官の李従襲に「退くより進んで内難を救うべきだ」と勧められて東へ向かった。
  • 渭水に至ると、西都留守の張籛がすでに浮橋を切っており、川を渡って渭南へ着いたが、腹心の呂知柔らはすでに逃げ隠れていた。
  • 李従襲は時勢が去ったと見て自決を勧め、継岌は涙を流しつつ床に伏し、僕夫の李環に絞殺させた。
  • 任圜はその軍勢を引き継いで東へ向かい、監国の命を受けた石敬瑭が慰撫すると、西征軍はおおむね新政権に従った。

李冲の専横と、李紹真の抑制

  • 監国は腹心の李冲を華州都監にして西征軍の応接に当たらせたが、李冲は華州節度使の史彦鎔を入朝させようと圧迫し、同州節度使の李存敬が通りかかると殺してその家も皆殺しにした。さらに西川行営都監の李従襲も殺した。
  • 史彦鎔が泣いて安重誨に訴えたため、安重誨は彦鎔を鎮へ帰し、李冲を召還した。
  • 監国が洛陽へ入って以降、内外の機務は李紹真が専断していた。彼は威勝節度使の李紹欽と太子少保の李紹冲を勝手に逮捕して殺そうとした。
  • しかし安重誨は、温韜・段凝の罪は梁朝におけるものであり、今は天下安定が先だとして李紹真を抑えた。
  • 辛丑、監国は李紹冲・李紹欽をそれぞれ旧名の温韜・段凝に戻して放免した。

国号をめぐる議論

  • 壬寅、孔循を枢密使とした。
  • 有司が即位の礼を議すると、李紹真・孔循は唐の運は尽きたので新たな国号を立てるべきだと主張した。
  • 監国は左右に国号の意味を問うと、先帝が唐の賜姓を受けて仇敵を滅ぼし、昭宗の後を継いだので唐を称したのだと説明された。
  • これに対し監国は、自分は十三歳から献祖に仕え、武皇・荘宗にも長く従ってきたので、その基業は自分の基業でもあり、「同じ家でありながら国号を変える道理はない」と述べ、再議を命じた。
  • 吏部尚書の李琪は、国号を変えれば先帝は他人になってしまい、梓宮を誰に託すのかと論じ、傍系からの継承ではあっても、嗣子が柩前で即位する礼を用いるべきだと主張した。
  • 群臣はこれに従った。

柩前即位

  • 丙午、監国は興聖宮から西宮へ赴き、斬衰を着て柩前で即位した。
  • これは洛陽入城から二十日後であり、その間即位をためらっていたのは魏王継岌がまだ生きていたからであった。
  • その後、いったん縞素のまま諸臣を従えたが、やがて袞冕を着て冊を受け、百官も吉服に改めて賀した。

張憲の死と、西征軍の帰還

  • 戊申、鷹犬や珍玩の献上を禁じた。
  • 太原尹張憲の離城の罪が奏上され、庚戌に死を賜った。
  • 任圜は征蜀軍二万六千を率いて洛陽へ至り、明宗はこれを慰撫して各自の営に帰した。

改元と諸政策

  • 甲寅、大赦を行い、年号を天成と改めた。
  • 後宮には百人、宦官三十人、教坊百人、鷹坊二十人、御厨五十人だけを残し、その他は各自の望むところへ去らせた。
  • 名ばかりで実のない諸司使務を廃し、諸軍は近畿で分散して糧を取らせ、輸送費を節約した。
  • 夏秋二税の「省耗」をやめ、正税のみを納めさせた。
  • 節度使・防禦使らに許される貢奉は正月・冬至・端午・降誕の四節に限り、百姓からの取り立てを禁じ、刺史以下の貢奉も禁じた。
  • 以前に選人の文書が塗り潰された者については、詐偽を除いて旧規に復した。

五月 宰相任命と三司の整備

  • 五月朔、太子賓客の鄭珏と工部尚書の任圜を中書侍郎・同平章事とし、任圜には三司も兼ねさせた。
  • 任圜は公事を我が家のことのように心配し、賢者を抜擢して幸臣の道を塞ぎ、一年ほどで府庫を充実させ、軍民を安んじ、朝綱の立て直しに大きな成果をあげた。
  • しかし天下国家を自分の責任として処理したため、安重誨の嫉視を招いた。

諸将の復姓

  • 李紹真・李紹瓊・李紹英・李紹虔・李紹奇・李紹能らは、それぞれ旧名の霍彦威・萇従簡・房知温・王晏球・夏魯奇・米君立への復姓・復名を願い、許された。
  • 王晏球は本来王氏の子だが杜氏に養われていたため、王姓への復帰を求めた。

常朝・内殿起居の制度と、宦官の粛清

  • 丁巳、正衙での常朝に加え、五日ごとに内殿へ赴いて起居する制度を定めた。
  • 山野に隠れたり僧となっていた宦官のうち、晋陽へ逃れた者七十余人については、北都指揮使の李従温に命じて全員を誅した。

安金全・李彦超の処遇

  • 安金全が晋陽で功績を立てたとして、壬戌に振武節度使・同平章事とした。
  • 丙寅、趙在礼は鄴都への行幸を請い、戊辰には義成節度使に任じられたが、軍情を理由に赴任しなかった。実際には魏兵に抑えられていた。
  • 李彦超が入朝すると、帝は「河東が無事だったのはお前の力だ」とねぎらい、庚午に建雄留後とした。

王延翰の加官と、端明殿学士の設置

  • 甲戌、閩を支配する王延翰に同平章事を加えた。
  • 明宗は文字を解さなかったため、奏事はすべて安重誨に読ませていたが、安重誨自身も十分に学識があったわけではなかった。そこで、古今の事例に通じた文学の臣を枢密院近くに置いて応対を備えたいと願い出た。
  • これにより端明殿学士が新設され、乙亥、翰林学士の馮道・趙鳳が任じられた。

郭崇韜・朱友謙の名誉回復

  • 丙子、郭崇韜の遺骸の帰葬を許し、朱友謙の官爵も回復した。二家の籍没された財産・田宅も返還された。

汴州の乱

  • 戊寅、安重誨に山南東道節度使を兼ねさせようとしたが、襄陽は要地なので兼領すべきでないとして固辞し、許された。
  • 汴州の控鶴指揮使張諫ら三千人に瓦橋戍備を命じたが、六月丁酉、出城してから引き返して反乱し、市坊を焼き払い、権知州推官の高逖を殺した。
  • 乱兵は馬歩都指揮使・曹州刺史の李彦饒を主将に立てようとした。李彦饒はその条件として掠奪停止を命じ、兵は従った。
  • 己亥の朝、李彦饒は伏兵を設け、賀礼に来た張諫ら首謀四人を斬り、張審瓊らの大騒ぎも鎮圧し、四百人を誅して軍州を平定した。
  • その日のうちに節度推官の韋儼へ事務を引き継がせて報告した。
  • 庚子、朝廷は孔循に汴州を知させ、乱兵三千家をことごとく誅した。李彦饒は李彦超の弟であった。

蜀からの旧臣・馬全の死

  • 蜀の百官が洛陽へ到着したが、永平節度使兼侍中の馬全は「国が亡んでまで生きるに値しない」と断食して死んだ。
  • 王鍇ら平章事級の者は諸州府の刺史・少尹・判官・司馬などに配され、また蜀へ帰った者もいた。

滑州の乱と、諱の布告

  • 辛丑、滑州都指揮使の于可洪らが火を放って反乱したが、魏博駐屯兵の三指揮によって追い出された。
  • 乙巳、勅して「朕の二字名は続けて呼ばない限り避諱しなくてよい」とした。

孟知祥・李従曮・高季興

  • 戊申、西川節度使の孟知祥に侍中を加えた。
  • 李継曮は華州で洛中の乱を聞いて鳳翔へ戻ったため、帝はそのため柴重厚を誅した。
  • 高季興は夔・忠・万の三州を属郡として求め、これを許された。

安重誨の専横と、馬延斬殺

  • 安重誨は恩寵を恃んで驕横となり、殿直の馬延が先導に触れたというだけで、その場で斬った。
  • 御史大夫の李琪はこれを奏聞したが、明宗は七月に勅を下し、馬延の行為を重臣への無礼と見なして内外に戒めた。

滑州反乱の処断

  • 于可洪と魏博駐将は互いに相手を反乱と訴えたため、朝廷は調査を行った。
  • 辛酉、于可洪を都市で斬り、滑州左崇牙全営の首謀者は一族を誅し、助乱した右崇牙・長剣・建平の将校百人もまた族誅した。

五日起居転対、契丹の東丹国建国

  • 壬申、百官が五日ごとに起居して転対奏事をするよう命じた。
  • 契丹主は勃海を攻めて夫余城を陥れ、国号を東丹と改め、長子トウ雲に鎮守させて「人皇王」と号させた。次子の徳光は西楼を守って元帥太子とされた。

姚坤の契丹使節

  • 明宗は供奉官の姚坤を契丹へ派遣して荘宗の死を告げた。
  • 契丹主は荘宗の死を聞いて大いに泣き、「我が友を失った」と悲しみつつ、洛陽急変の時になぜ救わなかったのか、なぜみずから即位したのかと問い詰めた。
  • 姚坤が事情を説明すると、契丹主は中国人の弁舌を信用せず、なおも大河以北、少なくとも鎮・定・幽の割譲を求めて、書面にさせようとした。
  • 姚坤が拒むと怒って投獄したが、韓延徽の諫めで殺さず、再び獄に戻した。

荘宗の葬礼、応州彰国軍の設置

  • 丙子、光聖神閔孝皇帝を雍陵に葬り、廟号を荘宗とした。
  • 丁丑、鎮州留後の王建立は、涿州刺史劉殷肇が代替を拒んで乱を企てたので討って捕えたと奏した。
  • 己卯、応州に彰国軍を置いた。これは帝の故地に近い地域を重視したものである。

豆盧革・韋説の失脚

  • 豆盧革と韋説は帝前で礼を尽くさないことがあり、また百官の俸銭が評価減で支給される中、革父子だけが実銭で受け取り、しかも百官より早い月から受給していたため非難を集めた。
  • 韋説は孫を子と偽って官に就け、また選人の王傪から賄賂を受けて近官に除したとも言われた。
  • 中旨で蕭希甫を諫議大夫にしようとしたのに、革・説が覆奏したため、蕭希甫は恨み、両者の不忠や不法を弾劾した。さらに革の強占、説の井戸や埋蔵物の横取りまで告発した。
  • その結果、革は辰州刺史、説は溆州刺史に左遷され、庚辰には蕭希甫が褒賞されて散騎常侍に抜擢された。
  • 辛巳、さらに契丹主安巴堅が夫余城で死んだ。
  • 癸未、豆盧革は費州司戸、韋説は夷州司戸へ再び貶められ、甲申にはそれぞれ陵州・合州へ流された。

孟知祥の蜀支配強化

  • 孟知祥はひそかに蜀を自立の基盤とする志を持ち、庫を調べると鎧甲二十万を得て、左右牙など十六営一万六千人を牙城の内外に置いた。
  • 八月朔には日食があった。
  • 丁亥、契丹の舒嚕后は少子の安端少君に東丹を守らせ、長子トウ雲とともに契丹主の喪を奉じて夫余城を発した。
  • 庚寅、孟知祥はさらに左右衝山など六営六千人を増設し、二十営一万六千人を州県に分戍させ、また牢城四営四千人も成都周辺に置いて支配を固めた。

青州の王公儼の反抗と誅殺

  • 王公儼は楊希望を殺した後、節鉞を得ようとして、符習の統治が厳しすぎて軍府がその帰還を望まないと喧伝した。
  • 符習は斉州まで帰る途中で公儼の拒絶を聞き、進めなくなった。
  • 王公儼は将士に上表させて自らを帥に推させたが、朝廷はただ登州刺史に任じただけで、公儼はなおも赴任を渋った。
  • 明宗は天平節度使の霍彦威を平盧節度使に移し、淄州へ兵を集めて圧力をかけた。
  • 公儼は恐れて乙未ようやく赴任したが、丁酉に霍彦威が青州へ至ると追って捕え、一族党類とともに斬った。支使の韓叔嗣も連坐した。

韓熙載の南奔

  • 韓叔嗣の子の韓熙載は呉へ奔ろうとし、親友の進士李穀に密かに打ち明けた。李穀は正陽まで見送り、二人は痛飲して別れた。
  • 韓熙載は「呉が私を宰相にすれば中原を定めてみせる」と言い、李穀は「中原が私を宰相にすれば呉を取るのは袋の中の物を取るようなものだ」と笑った。

幽州・契丹備え、孟知祥の水軍整備

  • 庚子、幽州から契丹が国境を侵していると報告され、斉州防禦使の安審通に兵を率いさせて防がせた。
  • 九月壬戌、孟知祥は左右飛棹兵六営六千人を置き、長江沿い諸州に分戍させて水戦を習わせ、夔峡方面への備えとした。

趙徳鈞の復姓、契丹で徳光即位

  • 癸酉、盧龍節度使の李紹斌は旧姓趙への復帰を願い、許されて名も徳鈞と賜った。養子の趙延寿が興平公主を娶っていたため、特に寵任された。
  • 楚王馬殷には守尚書令を加えた。
  • 契丹では舒嚕后が中子の徳光を立てようとし、西楼で諸酋長に二子のどちらを立てるべきか選ばせると、皆が徳光の轡を取った。
  • 徳光は天皇王として立ち、太后はなおも国政を決した。さらに韓延徽を政事令とし、姚坤の帰国も許して喪の告知使を唐へ送った。

十月 閩王延翰の僭号

  • 十月朔、初めて文武官に春冬の衣を賜った。
  • 威武節度使・同平章事の王延翰は驕淫残暴で、己丑に自ら「大閩国王」と称し、宮殿・百官・儀仗・文物をほぼ天子にならって整え、父王審知を昭武王と追尊した。

毛璋の転任

  • 静難節度使の毛璋は驕慢で兵を鍛え、割拠の志を示していた。
  • 朝廷は潁州団練使の李承約を副使に送り込んで監視させ、壬辰には毛璋を昭義節度使へ移した。
  • 毛璋は命令に従おうとしなかったが、副使の李承約と判官の辺蔚が説得して、ようやく受け入れた。

盧文進の帰順

  • 庚子、幽州は契丹の盧龍節度使・盧文進が唐へ来奔したと奏した。
  • 明宗は使者を秘密に送って、代替わりの後はもはや旧怨は問わないと説得していた。盧文進の部衆は多くが漢人で帰国を望んでいたため、平州の契丹守備兵を殺し、十余万の衆と車帳八千乗を率いて帰順した。

蜀の財貨輸送と、李厳派遣

  • かつて魏王継岌と郭崇韜は、蜀の富民に犒賞銭五百万緡を出させ、金銀や繒帛で納めさせていた。その残りが二百万緡もあったため、任圜は成都が豊かであることを知っていた。
  • そこで塩鉄判官・太僕卿の趙季良を孟知祥への官告・国信の使者とし、あわせて三川都制置転運使とした。
  • 甲辰、趙季良が成都に着くと、蜀人は庫物の輸送には応じたが、孟知祥は州県の租税は十万の鎮兵を養う費用だとして拒んだ。趙季良は庫物を出させるだけで、それ以上は何も言えなかった。
  • 安重誨は孟知祥と東川節度使董璋が険地に強兵を握るのを恐れ、また孟知祥が荘宗の近親でもあるので、ひそかに抑えようと考えた。
  • 客省使の李厳が自ら西川監軍を願い出て、西川都監となり、朱弘昭は東川副使となった。
  • 李厳の母は、かつて蜀征討を献策した以上、今度蜀へ行けば必ずその報いで死ぬと戒めた。

告身の支給改革

  • 従来、吏部が告身を交付する際には、本人から朱膠・綾軸の代金を取っていた。乱世以後は貧しい者が告身を受け取れず、勅牒だけで済ませることが多かった。
  • 十一月甲戌、吏部侍郎の劉岳は、告身には褒賞や戒めの言葉があるのだから、本人がそれを見ないのは王言の本旨に反すると上言した。
  • その後、除官された者は費用を納めずとも一律に告身を与えられることとなった。
  • ただし当時は、正員官以外の試銜や帖号は主に軍中将校への褒賞用であり、のちには卒伍や胥吏にまで濫授されるようになった。

閩の内紛

  • 閩王王延翰は兄弟を軽んじ、即位一月ほどで弟の王延鈞を泉州刺史として追い出した。さらに民女を多く集めて後庭に満たし、なおも選び続けた。
  • 王延鈞はこれを厳しく諫めたが、王延翰は怒って不和となった。
  • 養弟の王延稟も建州刺史としており、王延翰が女子の徴発に協力するよう命じると、王延稟は無礼な返書を送ってここでも対立した。
  • 十二月、王延稟と王延鈞は兵を合わせて福州を襲った。王延稟が水路を下って先着し、福州指揮使の陳陶は防戦に敗れて自殺した。
  • その夜、王延稟は壮士百余人を率いて西門から梯城で入り、庫を開いて兵器を取り、寝門へ迫った。王延翰は驚いて別室に隠れた。
  • 辛卯の朝、王延稟は王延翰を捕え、その罪悪を掲げ、妻崔氏とともに先王を弑したとまで言い立てて民に告げ、紫宸門外で斬った。
  • 同日、王延鈞が城南へ来ると、王延稟は門を開いて迎え入れ、王延鈞を威武留後に推した。

年末の人事と財政

  • 癸巳、盧文進を義成節度使・同平章事とした。
  • 庚子、皇子李従栄を天雄節度使・同平章事とした。
  • 趙季良らは蜀の金帛十億を洛陽へ運び、窮乏していた朝廷財政はこれに大きく助けられた。
  • この年、呉越王銭鏐は中国の混乱で朝命が通じないのに乗じてひそかに宝正と改元したが、のちに朝廷と再び通じると、この年号を隠して表向きには用いなくなった。