資治通鑑後唐紀 莊宗光聖神閔孝皇帝 同光 三年 925年

春正月 蜀の大赦と唐陵改葬の頓挫

  • 甲午朔、蜀は大赦を行った。
  • 丙申、後唐では昭宗と哀帝の改葬を命じたが、結局は財政不足を理由に実施できなかった。

契丹侵攻と皇帝の北行

  • 契丹が幽州を寇すると、庚子、莊宗は洛陽を発した。
  • 庚戌、興唐府に到着した。
  • あわせて符習に酸棗の遥隄を修めさせ、黄河決壊への備えとした。

張憲への不信

  • 李嗣源が前年北征に向かう途中、東京の庫から供御の細鎧五百領を張憲が奏請前に渡していた。
  • 莊宗はこれを、張憲が詔を待たずに皇帝の武具を李嗣源へ与えた不敬と受け取り、俸一月を減じ、みずから軍中に取り返しに行かせた。
  • 義武節度使王都の来朝に備えて球場をつくる際にも、張憲は即位壇の破却に反対したが、皇帝は強いて取り壊させた。
  • 張憲は郭崇韜に、天を敬い本を忘れない場所を壊すのは不祥だと漏らした。

二月 李紹斌・李嗣源の配置転換

  • 甲戌、李紹斌を盧龍節度使とした。
  • 丙子、李嗣源は涿州で契丹を破った。
  • 皇帝と郭崇韜は、李紹斌では威望が足りないとして、李嗣源を真定へ移してその後援にあてる計画を立てた。
  • 郭崇韜自身を汴州へ移す案も出たが、彼は権勢がすでに十分であり、むしろ勲臣に藩鎮を譲るべきだとして固辞した。
  • 庚辰、李嗣源は成徳節度使へ移された。

南漢の対後唐観

  • 南漢の主は、後唐が梁を滅ぼしたことを恐れて使者何詞を送り、朝貢と同時に実情を探らせた。
  • 何詞は魏州での様子を見て帰国し、莊宗は驕慢で淫逸、政治も乱れていて恐るるに足りないと報告した。
  • 南漢主はこれを喜び、以後は中国王朝との往来をほぼ絶った。

李從珂左遷と李嗣源の不安

  • 李嗣源は太原に家族がいることもあって、子の李從珂を北京内牙馬歩都指揮使にしてほしいと願い出た。
  • 莊宗は、李嗣源が兵権と大鎮を握りながら子の任官まで要求するのは不遜だとして激怒し、李從珂を突騎指揮使に落として石門鎮へ追いやった。
  • 李嗣源は強い不安を抱き、繰り返し弁明してようやく許された。
  • 辛丑には東京への朝覲を請うたが、これも許されなかった。
  • 郭崇韜もまた、李嗣源は功高く位重く、いずれ人の下に甘んじないだろうと密かに語り、兵権を解いて宿衛へ召すか、いっそ除くよう皇帝に勧めたが、莊宗は従わなかった。

三月 後宮拡張と民女徴発

  • 己酉、皇帝は興唐を発ち、昔の戦場を巡って群臣に誇り示しながら洛陽へ戻った。
  • 宦官たちは、宮中で鬼が出るのは後宮が空いているからだと称して、咸通・乾符のころのように多数の后妃を置くべきだと説いた。
  • これを受けて莊宗は、王允平・景進らに民間女子を集めさせ、太原・幽州・鎮州方面にまで及び、三千人以上を後宮へ入れた。
  • 由来を問わず牛車に積んで連ねて運ばせたため、張憲は、魏州諸営から逃げた女たちが軍に隠されているのではなく、その実みな宮中へ入れられたのだと奏した。

洛陽・鄴都の再編

  • 庚辰、皇帝は洛陽へ着いた。
  • 辛酉、洛陽を東都、興唐府を鄴都と改めた。地名としての「鄴」は古代の鄴とは完全には一致しないが、曹魏の都にちなむ名づけであった。

四月 日食と妖僧誠惠

  • 癸亥朔、日食が起きた。
  • 五台山の僧誠惠は妖言で人を惑わし、天龍を降し風雨を呼べると称していた。皇帝・后妃・皇弟・皇子までが彼を拝し、本人は坐したまま起たなかった。
  • 大旱の中、皇帝は鄴都から誠惠を洛陽へ迎えて祈雨させたが、何十日たっても雨は降らなかった。
  • ついに失敗すれば焼き殺されるとの噂に誠惠は逃げ出し、恥じて死んだ。

宰相趙光胤の死

  • 庚寅、中書侍郎同平章事の趙光胤が死去した。

太后・太妃の病と死

  • 皇太后は太妃との別れ以来、常に憂えて楽しまず、どんな慰めも顔色を和らげることがなかった。
  • 太妃もまた憂悶して病を得ており、太后はしきりに使者と医薬を送った。
  • 自ら見舞おうともしたが、皇帝に止められた。
  • 五月丁酉、北都から太妃の死が報じられると、太后は悲嘆して食を断ち、その後も病を深めた。葬儀へ自ら赴きたいとも望んだが、これも制止された。

閩の継承

  • 閩王王審知は病に伏し、子の王延翰に軍府の事を暫定的に任せた。

六月 旱魃の終息

  • 春夏を通じて旱魃が続いたが、壬申にようやく雨が降り始めた。

清暑楼の造営

  • 皇帝は暑さに苦しみ、宮中に涼しい場所がないと不満を漏らした。
  • 宦官は、長安の大明宮・興慶宮には多数の楼観があったが、今の宮殿は公卿の邸宅にも及ばないと煽り、新楼建設を勧めた。
  • 皇帝は内府の金で賄うと言い、郭崇韜の反対を避けるため、中使を通じて理解を求めた。
  • 郭崇韜は、かつては強敵未滅のため暑さを忘れていたが、今は外患が除かれ安逸に移ったため暑く感じるのだと、婉曲に戒めた。
  • それでも皇帝は王允平に造営を命じ、毎日一万人を使役し巨費を投じた。郭崇韜が両河の水旱や軍糧不足を理由に工事中止を願っても聞き入れられなかった。

伐蜀準備と呉の継嗣問題

  • 辛卯、皇帝は伐蜀を念頭に天下へ戦馬の買い上げを命じた。
  • 呉では陳彦謙が病となり、徐知誥は継嗣問題に言及する遺言を恐れて手厚く看病した。
  • ところが陳彦謙は臨終にひそかに徐温へ書を残し、実子を後継にすべきだと勧めた。

七月 皇太后の崩御

  • 甲午、李嗣源は国境情勢がやや落ち着いたので、入朝して太后を見舞いたいと願ったが許されなかった。
  • 壬寅、皇太后が崩じた。
  • 皇帝は深く哀しみ、五日間食事をとらなかった。

八月 羅貫の獄死

  • 癸未、河南令羅貫が杖殺された。
  • 羅貫は剛直な人で、権豪や伶宦の請託をすべて退け、その文書を郭崇韜へ見せていたため、伶宦に憎まれていた。
  • 河南尹張全義も羅貫の高慢を嫌い、婢を通じて皇后へ訴え、皇后と伶宦はともに羅貫を中傷した。
  • 太后陵の工事視察で皇帝が寿安へ向かった際、道がぬかるみ橋が壊れていたため、属官が河南府の責任だと答えると、皇帝は怒って羅貫を獄に下した。
  • 獄吏は激しく拷問し、翌日ついに殺した。郭崇韜は橋道不修で死罪は重すぎると諫めたが、皇帝は聞かず、羅貫の死体は府門にさらされた。人々はみな冤罪と感じた。

呉越への冊封

  • 丁亥、李德休らを派遣し、呉越国王銭鏐へ玉冊・金印・紅袍・御衣を賜った。

九月 蜀主の巡遊

  • 蜀主は太后・太妃とともに青城山、丈人観、上清宮、彭州の陽平化、漢州の三学山を巡って帰った。
  • 宮廷の遊興はなお続いていた。

蜀討議

  • 乙未、皇子李繼岌を魏王に立てた。
  • 丁酉、皇帝は宰相らと伐蜀を議した。
  • 宣徽使李紹宏は、李紹欽には孫武・呉起にも匹敵する大才があるとして主将に推したが、郭崇韜は、李紹欽は段凝であり、亡国の将で奸諂の徒だから信任できないと退けた。
  • 諸将の名望から李嗣源を推す声もあったが、郭崇韜は契丹対策で河朔を離せないと述べた。
  • そのうえで、魏王に都統を任じて戦功を立てさせ、威名を成すのがよいと勧めた。
  • 皇帝は皇子が幼いとして副将を求め、最終的に郭崇韜を事実上の総指揮者として付けることにした。

伐蜀軍の編成

  • 庚子、魏王李繼岌を西川四面行営都統、郭崇韜を東北面行営都招討制置等使とし、軍事はすべて郭崇韜に委ねた。
  • 高季興は東南面行営都招討使、李繼曮は供軍・転運・応接、李令德は副招討使、李紹琛は蕃漢馬歩軍都排陳斬斫使兼都指揮使となった。
  • 張筠、毛璋、董璋、李厳らにもそれぞれ安撫・都虞候・招撫などの任が与えられた。
  • さらに高季興には、夔・忠・万の三州を自ら占取して巡属としてよいとまで許した。
  • 都統の中軍には李從襲、李廷安、呂知柔ら宦官が置かれた。

長雨

  • 六月甲午以来、日や星がめったに見えぬほどの長雨が続き、江河百川がみな溢れた。
  • 七十五日後にようやく晴れた。

孟知祥・張憲の推挙

  • 郭崇韜は出征にあたり、旧恩のある孟知祥は信義厚く計略もあるので、もし西川を得て守らせるならこの人以上はいないと勧めた。
  • また張憲は慎重で見識があり、宰相にも向くとして推挙した。

大軍西征開始

  • 戊申、後唐の大軍は西へ進んだ。

蜀 王承休の秦州遊幸工作

  • 安重霸は王承休をけしかけ、蜀主に秦州行幸を勧めさせた。
  • 王承休は着任すると役所を壊して行宮を造り、民女を強制的に集めて歌舞を教え、その絵姿まで韓昭へ送り、秦州の風土・山水・花木の美を盛んに宣伝した。
  • 蜀主は本気で秦州行きを望み、群臣の反対も、王宗弼の上表も、太后の涙ながらの諫止も聞かなかった。
  • 前秦州節度判官の蒲禹卿は長文の上表で、先帝の艱難創業を思え、羌胡雑居の瘴癘の地へ行けば民も兵も疲弊し、鳳翔との旧怨や唐との疑心も招く、李勢や劉禅のように険阻も国家を守れなかったと論じた。
  • 韓昭は表を受け取りながら、蜀主帰還後には一字一句ごとに獄吏へ問いたださせると脅した。
  • そもそも王承休の妻厳氏が美貌で、蜀主がこれと私通していたため、蜀主は秦州行に強く傾いていた。

十月 後唐軍先鋒の進撃

  • 李紹琛と李厳は、騎兵三千・歩兵一万を率いて先鋒となった。
  • 招討判官陳乂が宝鶏で病を理由に留まろうとすると、李愚は、利を見れば進み難を見れば退く者はこの険地では軍心を乱すとして、斬って軍律を示すべきだと主張した。これにより軍中で怯む者はいなくなった。

蜀主、成都を発す

  • 癸亥、蜀主は数万の兵を率いて成都を発し、翌日漢州に着いた。
  • 武興節度使王承捷が唐軍西上を告げたが、蜀主は群臣が自分の行幸を止めるために共謀しているのだと疑い、なお信じず、むしろ東へ進んで武威を示そうと豪語した。

威武城陥落

  • 丁丑、李紹琛が蜀の威武城を攻めると、蜀の指揮使唐景思が兵を率いて降伏し、城使周彦禋らも守れないと見て降った。
  • 城中からは糧二十万斛を得た。
  • 李紹琛は敗兵をわざと逃がし、その後を倍道で追って鳳州へ迫った。逃げた兵が恐慌を広げることも計算した進軍であった。

散関突破と鳳州降伏

  • 李厳は飛書で王承捷を諭し、李繼曮は鳳翔の蓄えを吐き出して軍に送ったが不足したため、人心は不安であった。
  • 郭崇韜は散関に入ると、この山を越えて進んだ以上、勝てなければ生きては帰れない、先に鳳州を取って食糧を確保すべきだと主張した。
  • 諸将は険阻を理由に慎重論を唱えたが、李愚は、蜀人は主君の荒淫に苦しんでいて誰も守ろうとしない、勢いに乗って雷霆のように進むべきだと説いた。
  • ちょうどその日、李紹琛の捷報が届き、郭崇韜はその判断に確信を得て進軍速度を上げた。
  • 戊寅、王承捷は鳳・興・文・扶の四州の印節を捧げて降伏した。兵八千、糧四十万斛を得て、郭崇韜は平蜀成ると確信した。

蜀主、利州へ

  • 己卯、蜀主は利州に至った。威武城の敗兵が戻って初めて、唐軍来襲が事実だと認めざるを得なかった。
  • 王宗弼・宋光嗣は、東川・山南の兵はまだ健在なのだから、利州に大軍を集めて防げば唐軍は深入りできないと進言し、蜀主もそれに従った。
  • 庚辰、王宗勲・王宗儼・王宗昱を三招討使として三万を与え、迎撃させた。
  • しかし随駕の諸軍は、龍武軍だけが倍の糧賜を受けていることに不満を抱き、他軍が命がけで戦うはずがないと怨嗟した。

興州陥落と三泉大敗

  • 長挙を過ぎると、興州都指揮使程奉璉が兵五百を率いて降伏し、橋や棧道を先に修理して唐軍を待つと申し出た。これにより進軍は円滑になった。
  • 辛巳、興州刺史王承鑑は城を捨てて逃げ、李紹琛らは興州を占領した。
  • 乙酉、成州刺史王承朴も城を捨てて逃走した。
  • その後、李紹琛らは三泉で蜀の三招討軍を破り、五千の首級を挙げ、残兵を潰走させた。さらに糧十五万斛を得て、軍糧は十分となった。

太后葬と蜀主の敗走

  • 戊子、貞簡太后を坤陵に葬った。
  • 蜀主は王宗勲らの敗報を聞くと、利州から倍道で西へ逃れ、桔柏津の浮橋を断った。
  • 王宗弼に大軍を授けて利州を守らせる一方、敗れた三招討使を斬れと命じた。

蜀側の離反拡大

  • 李紹琛は昼夜兼行して利州へ迫った。
  • 蜀の宋光葆は郭崇韜に書を送り、唐軍が入境しないなら自分は属州をあげて内附するが、約に背けば城を背に決戦すると伝えた。郭崇韜はこれを受け入れた。
  • 乙丑、魏王李繼岌が興州へ到着すると、宋光葆は梓・綿・剣・龍・普、王承肇は洋・蓬・壁、王宗威は梁・開・通・渠・潾、王承岳は階州をそれぞれ挙げて降り、その他の城鎮も風を望んで帰服した。

王承休の崩壊

  • 王承休は安重霸と、秦州から唐軍の背後を衝くことを議した。
  • 安重霸は、勝てなければ大事が去るとしつつも、国恩を受けた以上出動しないわけにはいかないとして、西へ向かう案を示した。
  • しかし実際には、王承休を危地へ追いやり、自分は秦隴を確保して後唐へ降る腹であった。
  • 王承休はこれを信じ、安重霸に龍武軍など一万二千を授けた。
  • 城外で餞別を受けた後、安重霸は「開府が帰朝すれば誰が秦隴を守るのか、自分が留守を務めたい」と申し出、王承休はすでに出発していたため拒めなかった。
  • 王承休は王宗汭とともに扶・文州方面の毛もない羌地を南下したが、羌人の抄掠と寒さ・飢えに苦しみ、茂州に着いたときには二千人しか残っていなかった。
  • 安重霸はそのまま秦隴をあげて後唐へ降伏した。

高季興の峡江作戦失敗

  • 高季興は三峡を取りたかったが、蜀の張武を恐れて動けずにいた。
  • 今回は後唐軍の勢いに乗じ、自ら水軍で峡を上って施州を取ろうとした。
  • 張武は江を鉄鎖で断ち、これを防いだ。高季興は勇士に鎖を切らせようとしたが、風で船が鎖に絡み、矢石を浴びて戦艦を壊されたため、軽舟で逃げ帰った。
  • その後、北路の蜀軍敗北を聞くと、夔・忠・万三州だけは使者を遣わして魏王に降伏した。

王宗弼の離反

  • 郭崇韜は王宗弼らへ利害を説く書を送り続けた。
  • 李紹琛が利州へ着く前に、王宗弼は城を棄てて西へ退いた。
  • 白芀で王宗勲ら三招討使が追いつくと、王宗弼は懐中から「お前たちを殺せ」という詔書を示した。
  • 彼らは抱き合って泣き、ついに協力して後唐への降伏を決した。