資治通鑑後梁紀 均王 乾化 三年 913年

春正月 燕の領土縮小と友珪の改元

  • 丁巳、晋の周徳威は燕の順州を奪った。
  • 癸亥、郢王友珪は太廟に朝し、甲子には円丘で祭祀を行って大赦し、元号を鳳暦と改めた。
  • 呉の陳璋は荊南攻撃に失敗して帰還したが、荊南と楚の兵が江口でこれを待ち受けた。陳璋は舟二百艘を横一列につないで夜のうちに通過し、追撃を振り切った。
  • 晋の周徳威はさらに燕の安遠軍を抜き、薊州の将成行言らも晋に降った。

二月 友珪失政と均王の挙兵準備

  • 壬午、蜀は大赦を行った。
  • 友珪は志を得るとたちまち荒淫に走り、内外の憤怒を招いた。金や絹をばらまいても人心はついてこなかった。
  • 駙馬都尉趙巖と、左龍虎統軍・侍衛親軍都指揮使袁象先は、ともに太祖ゆかりの近親であり、大梁にいた均王友貞と密かに友珪誅殺を謀った。
  • 趙巖は、成否は楊師厚のひと言にかかっていると見て、馬慎交を魏州へ送って説得させた。師厚は当初、すでに君臣の分が定まったのに無故に改めるべきかと迷ったが、友珪は親しく君父を弑した賊であり、均王は復讐を掲げる義軍だと説かれて翻意した。
  • 師厚は王舜賢を洛陽に送り、袁象先と密かに計画を合わせ、朱漢賓に兵を率いさせて滑州へ置き、外応とした。
  • 趙巖も洛陽へ帰ると象先と詳細を詰めた。
  • 友珪は前年の龍驤軍潰乱の残党を捜索し、捕えた者を族誅しており、それが長く続いていた。
  • このとき大梁に駐屯していた龍驤軍に洛陽召集の命が下ると、均王は人を使って、天子は懐州の反乱の廉でお前たちを全員生き埋めにするつもりだと吹き込み、不安を煽った。
  • 丙戌、均王は「龍驤軍が疑惧して出発しない」と奏上した。
  • 戊子、龍驤軍の将校たちは均王のもとへ泣きながら助命を請うた。均王は、先帝が三十年余り苦労して王業を築いたのに今なお弑されているのだ、お前たちが復讐に立てば禍を福に変えられると、太祖の肖像を示して涙ながらに鼓舞した。
  • 軍士は皆歓声を上げ、武器の支給を願い出た。均王はこれを与えた。

二月 友珪の死、均王即位

  • 庚寅の朝、袁象先らは禁兵数千を率いて宮中へ突入した。
  • 友珪は変を知ると、妻張氏と馮廷諤を連れて北の城壁楼下へ逃れ、城を越えて脱出しようとしたが、助からないと見て廷諤にまず妻を、次いで自分を殺させ、廷諤も自刎した。
  • 洛陽では十余万の軍勢が都市を大掠奪し、官司は逃げ散った。杜曉・李珽は乱兵に殺され、于兢と李振も負傷した。日暮れ頃になってようやく騒乱は収まった。
  • 袁象先と趙巖は伝国宝を持って大梁へ行き、均王を迎えた。均王は、大梁は国家創業の地なのだから洛陽に行く必要はないとして、そのまま大梁で即位し、乾化三年の年号を復した。
  • 友珪は庶人に落とされ、博王友文の官爵は回復された。

二月〜三月 北辺と蜀の内政

  • 丙申、晋の李存暉が燕の檀州を攻め、刺史陳確が城を挙げて降った。
  • 蜀では唐道襲が興元から帰り、再び枢密使に復した。
  • 太子元膺は、道襲の過失を朝廷で列挙し、再任は機密を司るにふさわしくないと主張したが、蜀主は不快に思った。
  • 庚子、蜀主は唐道襲を太子太保に移した。
  • 甲辰朔、晋の周徳威は燕の盧台軍を抜いた。
  • 丁未、帝は名を鍠と改め、のちにさらに瑱とした。
  • 庚戌、楊師厚に中書令を兼ねさせ、鄴王に封じた。大事小事を問わず、帝はまず師厚に諮ってから実行した。
  • 帝は使者を派して朱友謙をなだめ、友謙は再び梁の藩臣を称して年号も奉じたが、実際には晋との関係を保っていた。
  • 丙辰、皇弟友敬を康王に立てた。

三月 燕北辺の崩壊

  • 乙丑、晋将劉光濬が古北口を攻略した。胡令圭ら居庸関の将も晋へ奔った。
  • 戊辰、戴思遠を保義節度使として邢州に鎮させた。
  • 燕主守光は元行欽に騎兵七千を授け、山北で牧馬しつつ兵を募らせ、契丹と呼応させようとした。
  • また高行珪を武州刺史にして外援とした。
  • 晋の李嗣源は山後八軍を次々と平定し、晋王は弟の李存矩を新州刺史としてその統轄に当たらせた。
  • 燕の降将盧文進を副将とし、李嗣源は武州に進んだ。高行珪は城を挙げて降伏した。
  • 元行欽はこれを聞いて武州を攻め、高行珪は弟高行周を人質として晋軍へ送り救援を乞うた。
  • 李嗣源は救援に向かい、元行欽は包囲を解いて去ったが、両軍は広辺軍付近で八度戦った。行欽は奮戦の末に力尽きて降り、嗣源はその驍勇を愛して養子とした。
  • 嗣源はさらに儒州を抜き、高行珪を代州刺史にし、高行周は引き続き嗣源のもとで従軍した。
  • 高行周は嗣源の養子李従珂とともに牙兵を分掌して仕えた。李従珂は魏氏の子で、明宗李嗣源が河北で得た女から生まれたとされるが、その出自には異説がある。

三月〜四月 江浙戦線

  • 呉は李濤に二万を与え、千秋嶺を越えて呉越の衣錦軍を攻めさせた。
  • 呉越王銭鏐は子の銭伝瓘を北面応援都指揮使、銭伝璙を招討収復都指揮使として出撃させ、水軍には東洲を攻撃させて呉軍を分散させようとした。
  • 四月癸未、後梁は袁象先に名目上の鎮南節度使を加え、同平章事とした。
  • 晋の周徳威は幽州南門に迫った。
  • 壬辰、燕主守光は周徳威に書を送り、非常に卑屈な言葉で講和を求めた。徳威は、まだ郊天もしていない「大燕皇帝」がずいぶん女々しいではないかと嘲り、罪ある者を討つ任務を受けているので、講和や盟約など問題ではないとして取り合わなかった。
  • 守光はさらに哀願したが、徳威はそのまま晋王へ報告した。
  • 千秋嶺では、銭伝瓘が木を伐って呉軍の退路を遮断し、自軍を前後から挟撃させたため、呉軍は大敗し、李濤以下三千余人が捕えられた。

四月〜五月 燕の東北も失う

  • 己亥、晋の劉光濬が平州を奪い、刺史張在吉を捕えた。
  • 五月、光濬はさらに営州を攻め、刺史楊靖も降した。
  • 乙巳、蜀主は王鍇を再び中書侍郎・同平章事とした。

五月〜六月 梁の趙侵攻

  • 楊師厚は劉守奇とともに、汴・滑・徐・兗・魏博・邢洺の兵十万で趙を大いに侵した。
  • 師厚は柏郷から土門・趙州方面へ進み、守奇は貝州から冀州へ向かった。通過地を焼き払い、略奪した。
  • 庚戌、師厚は鎮州に至って南門外に営を置き、関城を焼いた。
  • 壬子、師厚は九門から下博へ退き、守奇と合流して下博を攻略し、これを抜いた。
  • 趙州を守る李存審・史建瑭の兵は少なく、趙王王鎔は周徳威に急を告げた。徳威は李紹衡を騎兵とともに派し、王徳明と協力して梁軍を防がせた。
  • 師厚・守奇は弓高から御河を渡って東へ向かい、滄州に圧力を加えた。
  • 張万進は恐れて河南への移転を願い出た。楊師厚は万進を青州へ移し、劉守奇を順化節度使にするよう上表した。

六月〜七月 江南と蜀太子の異変前夜

  • 呉は花虔・渦信に兵を与えて広徳に屯させ、再び衣錦軍を攻めようとした。
  • 呉越の銭伝瓘はこれを逆に攻め、六月壬申朔、晋王は張承業を幽州に送って周徳威と軍事を協議させた。
  • 丙子、蜀主は道士杜光庭に高位と国公号を与え、「広成先生」の号を進めた。光庭は学識深く文章に優れ、蜀主もかなり政務相談にあずからせた。
  • 呉越の銭伝瓘は広徳を抜き、花虔・渦信を捕えて帰った。
  • 戊子、張万進を平盧節度使に任じた。
  • 辛卯、燕主守光は張承業に使者を送り、城を挙げて降りたいと申し出たが、承業はその不信を理由に許さなかった。
  • 蜀太子元膺は容貌に難があり、視線も定まらなかったが、敏捷で書に通じ、騎射にも優れていた。一方で性格は狷急で猜疑心が強く、残忍でもあった。
  • 蜀主は杜光庭に命じて、清静有徳の人を東宮の側に置こうとした。光庭は許寂・徐簡夫を薦めたが、太子は彼らとろくに会話もせず、日々楽人や小人物と遊び暮らしたため、僚属も諫められなかった。

七月 蜀太子元膺の反乱と死

  • 蜀主は七夕に出遊しようとしていた。丙午、太子は諸王や大臣を招いて酒宴を開いたが、集王宗翰・潘峭・毛文錫が来なかったため、彼らが自分を離間していると怒った。
  • 太子に親しい徐瑶・常謙は、酒席でたびたび唐道襲をにらみつけた。道襲は恐れて退出した。
  • 丁未の朝、太子は蜀主に、潘峭と毛文錫が兄弟の仲を裂こうとしていると訴えた。蜀主は怒って二人を左遷し、潘炕を再び内枢密使とした。
  • しかし道襲は入内して、太子は諸将・諸王を呼び集め、兵で拘束してから事を起こそうとしていると告げた。蜀主は疑い、七夕の外出を取りやめ、道襲の求めに応じて屯営兵を宮中警備に入れ、内外を戒厳にした。
  • 太子はこれに備えておらず、道襲が兵を集めたと聞くと、天武甲士を集めて身辺を守らせ、潘峭・毛文錫を捕えて打ち据え、東宮に監禁した。成都尹潘嶠も得賢門に閉じ込めた。
  • 戊申、徐瑶・常謙・厳璘らは各部隊を率いて太子を奉じ、唐道襲を攻撃した。清風楼で戦いとなり、道襲は屯営兵を率いて応戦したが流れ矢に当たり、城西まで追われて斬られた。
  • 屯営兵も多数殺され、都の内外は騒然となった。
  • 潘炕は蜀主に、太子と道襲は権力争いをしただけで、太子に別の志はないと述べ、大臣を呼び寄せて社稷を安んじるべきだと進言した。
  • 蜀主は王宗侃・王宗賀・王宗魯らに命じて乱を平定させた。王宗黯は大安門から城に梯子をかけて入り、会同殿前で徐瑶・常謙らと戦い、徐瑶を殺した。
  • 常謙と太子は龍躍池の船に隠れたが、己酉、太子は舟人に食を乞い、その舟人の密告で所在が知れた。
  • 蜀主は集王宗翰を派遣して慰撫しようとしたが、到着前に太子は衛士に殺されていた。蜀主は宗翰が殺したのではないかと疑って痛哭した。
  • しかし張格が軍民慰撫の掲示文を読み上げ、「刑罰を加えなければ社稷を誤る」とのくだりに至ると、蜀主は涙をぬぐい、私情で公を害してはならないと述べた。
  • こうして太子元膺は庶人に落とされ、近臣数十人が誅され、多くの者が流罪・左遷となった。
  • 庚戌、唐道襲には太師を追贈し、「忠壮」と諡した。潘峭も枢密使に復した。

八月〜九月 河北・荊南・江南

  • 甲子、晋の五院軍使が莫州を抜き、燕将畢元福を捕えた。
  • 八月乙亥、李信が瀛州を攻略した。
  • 高季昌には勃海王の爵位が与えられた。
  • 晋王は趙王王鎔と天長で会見した。
  • 楚の姚彦章が水軍で呉の鄂州を侵したが、呂師造の援軍が来る前に引き揚げた。
  • 九月甲辰、姚洎を中書侍郎・同平章事に任じた。
  • 燕主守光は夜襲で順州を奪い返した。
  • 呉越王銭鏐は子の銭伝瓘・伝璙・伝瑛に常州攻撃を命じ、潘葑に駐屯させた。
  • 徐温は、浙人は軽捷だが怯えやすいと見て諸将を急行させ、無錫で前後から挟撃して呉越軍を大敗させた。黒雲都将陳祐の奇襲案が功を奏した。
  • 高季昌は戦艦五百艘を造り、城塹を修築し、兵器を整え、逃亡者を集め、呉・蜀とも通じて、朝廷の制御をしだいに受けなくなっていった。

冬十月 燕の最終局面、蜀の皇太子立太子

  • 己巳朔、燕主守光は五千を率いて夜出し、檀州へ入ろうとしたが、庚午、周徳威が涿州から迎撃して大破した。守光は百騎余で幽州へ逃げ帰り、将卒の降伏が相次いだ。
  • 蜀では潘炕がたびたび太子擁立を促した。蜀主は雅王宗輅が自分に似ていること、信王宗傑が聡敏であることから迷っていたが、徐賢妃に寵愛されていた幼い鄭王宗衍を立てようとする動きが出た。
  • 唐文扆が張格に働きかけ、立太子の上表を作らせると、張格は夜のうちに功臣王宗侃らへ見せ、蜀主の密旨だと装って連署させた。
  • 蜀主は相者にも諸王を見させたが、皆が鄭王を最も貴い相だと述べたため、蜀主は群臣の意向もそこにあるのだと受け取り、やむなく宗衍を太子に立てた。幼弱さを心配しつつも、甲午、冊立を行った。
  • 冊礼の後、潘炕は病を理由に引退を願い、蜀主は涙ながらにこれを許した。ただし大疑があればなお使者を遣わして相談を求めた。

十月〜十一月 嶺南婚姻と幽州陥落前夜

  • 劉巖は楚に婚姻を求め、楚王馬殷は娘を嫁がせることを許した。
  • 盧龍の属州はほとんど晋に入ってしまい、守光は幽州城一つを保つだけになった。
  • 守光は契丹に援軍を求めたが、契丹はその不信を知っていて救わなかった。
  • 守光はたびたび晋に降伏を願ったが、晋は偽りを疑って許さなかった。
  • ついに守光は城上で周徳威に対し、晋王が来れば門を開いて泥に頭をつけて命に従うと述べた。徳威はこれを晋王に報告した。

十一月 晋王の幽州入城

  • 甲辰、晋王は張承業に軍府を預け、自ら幽州へ向かった。
  • 辛酉、晋王は単騎で城下へ至り、守光に語りかけた。朱温が簒逆したとき、本来なら河朔五鎮の兵を合わせて唐を復興すべきだったのに、お前は誤って自ら僭称した。鎮・定も一時は頭を下げたのに、それをいたわらなかったから今日の出兵を招いたのだ、と責めた。
  • 守光は、自分はまな板の上の肉にすぎず、すべて裁きに任せる、弓矢を折って誓ってくれれば出ていくと言った。晋王は、出てきても害しないと誓ったが、守光はその日には出なかった。
  • かねて守光に寵用され、その悪事を助長してきた李小喜が、その夜城を越えて晋軍に投じ、城中の力が尽きたと密告した。
  • 壬戌、晋王は四面から総攻撃を命じ、城を陥した。劉仁恭とその妻妾は捕えられた。
  • 守光は妻子を率いて逃亡した。
  • 癸亥、晋王は幽州に入城した。

十一月 淮南西北への梁の圧迫

  • 後梁は王景仁を淮南西北行営招討応接使とし、一万余を率いて廬州・寿州方面へ侵攻させた。