資治通鑑唐紀 昭宗聖穆景文孝皇帝 天復 三年 903年

二月:鳳翔帰還後の粛清と人事の整理

  • 二月壬申朔、朝廷は、天子が鳳翔にあった間に任命された官職をすべて停止した。これは多くが李茂貞・韓全誨の意向で出されたものとみなされたためである。
  • 宦官はほぼ根絶されたが、張承業・張居翰・程匡柔・魚全禋・厳遵美ら、各地の節度使に匿われて生き延びた者もいた。詔命に合わせ、別人を斬って「処刑済み」と見せた例もあった。
  • 門下侍郎同平章事の陸扆は、沂王傅として左遷された。
  • 天子が長安へ戻ると、諸道には詔書が下されたが、鳳翔だけは除外された。陸扆は「李茂貞に大罪はあるが、朝廷がまだ完全に絶交したわけではないのに、詔書を送らぬのは度量が狭いと見られる」と諫めたため、崔胤の怒りを買ってさらに失脚した。
  • 韓全誨が献上した宮人宋柔ら十一人、さらに宦官と親しかった僧や道士二十余人は、京兆で杖殺された。

崔胤と韓偓

  • 昭宗は韓偓に対し、「崔胤は忠義を尽くしているが、近ごろはそなたよりもずっと策略を用いている」と漏らした。
  • 韓偓は、天下を治める者は万国の耳目を欺いてはならず、誠実を積み重ねるほうが、日ごとの打算より結局は大きな成果になると答えた。

鳳翔側の宰相処分と朱全忠への加賞

  • 丙子、蘇検・盧光啓はともに自尽を命じられた。二人は鳳翔滞在中に任じられた宰相で、崔胤が韓全誨・李茂貞に与した者として憎んだためである。
  • 戊寅、朱全忠に「回天再造竭忠守正功臣」の号が与えられ、その幕僚敬翔ら、諸将朱友寧ら、さらに配下の将兵にもそれぞれ功臣号が下賜された。

諸道兵馬元帥の設置

  • 天子は朱全忠を厚く褒賞するため、皇子を諸道兵馬元帥とし、朱全忠を副元帥にしようと考えた。
  • 崔胤は、年長の濮王ではなく、幼い輝王祚を推した。これは朱全忠の密意を受け、幼主のほうが操りやすいと考えたためである。
  • 己卯、輝王祚が諸道兵馬元帥となり、庚辰、朱全忠は守太尉・副元帥となって梁王に進封された。
  • 崔胤は司徒兼侍中となったが、以後は朱全忠の威勢を頼んで専権を振るい、天子の起居動静まで自分を通させた。鳳翔に従幸した朝臣三十余人も次々に左遷され、朝廷内外は崔胤を恐れた。

禁軍・京畿への朱全忠派の浸透

  • 敬翔は太府卿となり、朱友寧は寧遠節度使を兼ねた。
  • 朱全忠は苻道昭を同平章事・天雄節度使とするよう上表し、秦州へ赴任させようとしたが、道が遮られて着任できなかった。
  • 乙未、朱全忠は歩騎一万人を旧神策両軍の営所に残し、朱友倫を左軍宿衛都指揮使とした。張廷範は宮苑使、王殷は皇城使、蔣玄暉は街使となり、禁衛と京畿の要地には朱全忠の腹心が配置された。

韓偓の失脚

  • 韓偓は進士及第以来の縁で、趙崇を高く評価していた。昭宗は韓偓を宰相にしようとしたが、韓偓は趙崇と王賛を代わりに推薦した。
  • 崔胤は権力を分かたれるのを嫌い、朱全忠に働きかけてこれを阻止した。
  • 癸未、韓偓は濮州司馬に左遷された。昭宗はひそかに泣いて別れた。
  • 韓偓は、朱全忠はもはや以前とは別人であり、自分が遠くへ左遷されて死ぬならむしろ幸いで、簒奪と弑逆の辱めを見たくないと語った。

朱全忠の帰還

  • 己丑、天子は朱全忠に命じて李茂貞へ書を送り、平原公主の返還を求めた。李茂貞は従わざるを得ず、急いで帰した。
  • 壬辰、朱友裕が鎮国節度使となった。
  • 戊戌、朱全忠は大梁へ帰るにあたり、寿春殿や延喜楼で盛大に送別された。天子は楼前での乗馬を許し、詩を賜り、朱全忠も和詩や楽府を献じた。
  • 百官は長楽駅で見送ったが、崔胤だけは霸橋まで送った。夜更けに帰ってもなお天子に召され、朱全忠の様子を問われて酒宴が続いた。これは昭宗の召対が不時で、遊宴も節度を欠いていたことを示す。
  • 清海節度使裴枢が宰相となった。

李克用の観察

  • 李克用のもとに帰った使者は、崔胤の専横を伝えた。
  • 李克用は、崔胤は外では賊の勢いを借り、内では君主を脅しており、朝政と兵権をともに握れば、権勢が重いぶんだけ怨みも増え、ついには家と国を滅ぼすだろうと評した。
  • 一方、朱全忠は李克用との間に大きな私怨はないとして、厚遇の使者を送ってほしいと願った。だが李克用は、これは淄青攻めの際に自分の牽制を恐れての言辞だと見抜いた。

三月:淄青・鄂州・江南の戦局

  • 三月戊午、朱全忠が大梁に戻ると、王師範の弟・師魯が斉州を囲んでいた。朱友寧がこれを撃退し、王師範側の援軍も破ったため、兗州の劉鄩は孤立した。
  • 葛従周が兗州を囲み、朱友寧は青州へ進んだ。戊辰には朱全忠自ら四鎮と魏博の兵十万を率いて続いた。
  • 淮南の李神福は鄂州を攻囲中で、城内に積んである荻に注目し、その夜の放火を予告した。杜洪が朱全忠に救援を求めていたため、神福は灄口で火炬を掲げさせ、救兵到来と誤認させた。杜洪が呼応して自ら荻に火を放ち、神福の策が当たった。

四月:朱全忠への権限集中

  • 四月己卯、朱全忠は正式に元帥府の事務を統轄することになり、天下の兵権はいっそう彼に集中した。
  • 温州では丁章が木工李彦に殺され、その将張恵が温州を占拠した。
  • 王師範が淮南へ救援を求めたため、乙未、楊行密は王茂章に歩騎七千を授けて派遣し、別軍には宿州を攻めさせた。しかし朱全忠が康懐英を派遣すると、淮南軍は退いた。

馬殷・成汭・雷彦威の動き

  • 楊行密は馬殷に、朱全忠は跋扈しているから断交して兄弟の盟を結ぼうと勧めた。
  • だが湖南の将許徳勲は、朱全忠に問題はあっても天子を擁して号令している以上、軽々しく絶縁すべきでないと主張し、馬殷もこれに従った。これ以後、馬殷の対汴姿勢は固まった。
  • 杜洪救援のため、朱全忠は韓勍を灄口に送り、さらに荊南の成汭、武安の馬殷、武貞の雷彦威にも援軍を促した。
  • 成汭は朱全忠を恐れ、また江淮の地を奪って勢力を広げようとして、巨大な舟師を東下させた。主力艦は役所並みの構造を持つ大船で、ほかにも誇大な名の艦が多数あった。
  • 掌書記の李珽は、巨艦は機動力に乏しく、武陵や長沙も敵視している以上、軽快な呉兵との決戦は危険だと諫め、巴陵に精兵を置いて対岸で守りを固める策を勧めたが、成汭は従わなかった。

王建の外交と軍備

  • 王建は李茂貞の弱体化に乗じて秦州・隴州方面へ出兵し、判官韋荘を入朝させて朱全忠とも修好した。
  • 朱全忠の使者王殷が蜀の馬の少なさを口にすると、王建は顔色を変え、星宿山で官馬八千・私馬四千を集めて大閲兵を行い、陣容の整然ぶりを示した。王殷は感服した。
  • 王建はもともと騎将で、蜀に入ってからも文州・黎州・維州・茂州の市場で胡馬を買い集め、十年でこの規模に達した。

五月:河東・雲州、振武の乱

  • 五月丁未、李克用配下の雲州都将王敬暉が刺史劉再立を殺して叛き、劉仁恭に降った。
  • 李克用は李嗣昭・李存審を派遣したが、劉仁恭は五万の兵で救援し、嗣昭は楽安へ退いた。王敬暉はそのすきに城を捨てて逃走した。
  • 先に振武でも契苾譲が石善友を逐って叛いていたため、嗣昭らは振武も攻め、契苾譲は焼身し、吐谷渾の叛者二千余人も討たれた。
  • 李克用は王敬暉を取り逃がしたとして、嗣昭・存審を杖打ちにし、官を削った。

成汭の敗死と岳州の帰附

  • 成汭が鄂州へ到着する前に、馬殷は許徳勲に舟師一万余、雷彦威も欧陽思に三千余を率いさせ、荊江口で合流して江陵を奇襲した。庚戌、江陵は陥落した。
  • 成汭軍の将兵は家族と財貨を失って戦意を喪失した。
  • 李神福は敵艦隊を偵察し、多数でも連携が取れていないと判断して、壬子、秦裴・楊戎らに君山で迎撃させた。風に乗じた火攻めで成汭軍は大敗し、成汭は水に落ちて死んだ。戦艦二百艘が鹵獲された。
  • 韓勍もこの報を聞いて撤退した。
  • 許徳勲が帰途に岳州を通ると、刺史鄧進忠が開門して牛酒で迎えた。許徳勲が利害を説くと、鄧進忠は一族を率いて長沙へ移り、馬殷は許徳勲を岳州刺史、鄧進忠を衡州刺史とした。
  • 雷彦威は父の雷満に似て狡猾かつ残忍で、周辺を焼き払い、荊州・鄂州の間は人影が絶えるほど荒れた。

長安禁軍再建策

  • 李茂貞は朱全忠を恐れ、尚書令の位が朱全忠の中書令より上位であるのを気にして、たびたび辞任を願い出た。朝廷は改めて中書令に任じた。
  • 崔胤は左右龍武・羽林・神策など六軍は名ばかりで実兵が少ないとして、各軍に歩兵四将・騎兵一将を置き、総勢六千六百人を募兵して交替で宿衛させようと奏請し、認められた。
  • 六軍諸衛副使で京兆尹の鄭元規が市中で募兵の基準を定めてこれを進めた。この措置は、のちに朱全忠が崔胤を疑う直接の原因となった。

青州周辺の攻防

  • 朱全忠は朱友恭を武寧節度使にした。
  • 朱友寧は博昌を一か月余り攻めても落とせず、朱全忠は客将劉捍を督戦に送った。友寧は民丁十余万を駆り出し、木石と牛驢を使って土山を築き、完成後は人馬もろとも押し潰すようにして城を攻め落とし、住民を皆殺しにした。
  • その後、臨淄も陥とし、青州城下へ迫り、別将には登州・萊州方面を攻めさせた。
  • 淮南の王茂章は王師範の弟・莱州刺史師誨と組んで密州を攻め、刺史劉康乂を斬った。淮海都遊奕使の張訓が新刺史となった。

六月:石楼の戦い

  • 六月乙亥、汴軍が登州を奪った。
  • 王師範は登州・莱州の兵を率いて石楼で朱友寧に対し、二つの柵を構えた。
  • 丙子夜、朱友寧が登州柵を急襲すると、王師範は王茂章に出撃を促したが、王茂章は兵を動かさなかった。
  • 友寧は登州柵を破り、明け方には莱州柵へ攻め移った。王茂章は敵兵の疲弊を見てから王師範とともに出撃し、汴軍を大破した。
  • 朱友寧は高所から騎兵で突入したが落馬し、青州将張土梟に斬られた。両軍は米河まで追撃し、魏博兵はほぼ壊滅した。

七月:朱全忠の青州親征と王茂章の奮戦

  • 朱全忠は朱友寧の死を聞くと、二十万の兵を率いて昼夜兼行し、七月壬子に臨朐へ至った。
  • 諸将に青州攻撃を命じると、王師範が出戦したが敗れた。
  • 王茂章は砦にこもって弱々しく見せ、敵が油断したところで柵を壊して打って出た。激戦のさなかにいったん退いて座し、諸将に酒を飲ませてから再び戦った。その落ち着きぶりを高所から見た朱全忠は、彼を将として得られれば天下平定も難しくないと嘆賞した。
  • ただし兵力差は大きく、王茂章は夜に撤退し、楊師厚が輔唐まで追撃した。殿軍の李虔裕が五百騎で死戦して王茂章本隊を救い、自らは捕らえられて殺された。
  • 張訓は密州で、諸将の「放火・掠奪して退くべし」という意見を退け、府庫と城邑をそのまま残し、旗幟だけを城上に立てて精兵で後衛を務めて整然と退いた。王檀は数日も伏兵を疑って入城できず、結局追撃もできなかった。張訓は全軍を保って帰還した。

睦州・浙東の動き

  • 丁卯、山南西道留後の王宗賀が正式に節度使となった。
  • 睦州刺史陳詢は銭鏐に叛いて蘭溪を攻めた。銭鏐は方永珍を派遣した。
  • 銭鏐は、武安都指揮使杜建徽が陳詢と姻戚関係にあるため疑ったが、建徽が陳詢を戒める書状が見つかって疑いを解いた。
  • 建徽の兄杜建思が中傷して兵仗を隠し持つと訴えたが、使者が寝所まで踏み込んでも建徽は動じず、かえって銭鏐の信任はいよいよ深まった。

八月:王建の荊南進出と田頵の叛意

  • 八月戊辰朔、朱全忠は楊師厚を斉州刺史として青州包囲に残し、自身は大梁へ戻った。
  • 庚辰、王建は守司徒・蜀王に進んだ。
  • 前渝州刺史王宗本は、荊南攻略を王建に勧め、開道都指揮使として三峡を下った。
  • 一方、田頵は馮弘鐸を破った功により池州・歙州の支配を求めたが、楊行密は許さなかった。田頵は財貨が多かったため広陵の吏たちから賄賂を求められ、怒って「自分はもう二度とこの門から入るまい」と言った。
  • 田頵は兵力・財力に恵まれ、拡張を好んだが、楊行密は領土を安定させ民力休養を志して抑えようとしたため、田頵はとくに銭鏐との和解を恨んでいた。
  • 李神福は早めの対処を勧めたが、楊行密は、反意が露わでないうちに殺せば諸将が皆不安になるとして退けた。
  • 田頵とそりの合わない良将康儒を、楊行密は廬州刺史に抜擢した。田頵はこれを自分への離間と見て康儒を一族扱いして罵り、康儒は「自分が死ねば田公の滅亡も近い」と言い残した。
  • ついに田頵は潤州団練使安仁義とともに挙兵した。安仁義は東塘の戦艦を焼いた。
  • 田頵は偽装した使者を寿州の朱延寿のもとへ送り呼応を求めたが、尚公乃に見破られ、一人が殺されて密書が発覚した。
  • 楊行密は李神福を鄂州から呼び戻し、李神福は杜洪を攻めるふりをして夕方に東下を開始し、途中で初めて将士に田頵討伐を告げた。

常州・潤州方面の戦闘

  • 己丑、安仁義は常州を襲ったが、刺史李遇が激しく罵って抗戦したため、用意があると警戒して退いた。
  • 壬辰、楊行密は王茂章を潤州行営招討使として安仁義を攻めさせたが、勝てなかった。
  • そこで徐温に援軍を授け、衣服も旗幟も王茂章軍そっくりにして増援を隠した。安仁義はそれと知らず再び出撃し、徐温の攻撃で破れた。

朱延寿の謀反発覚

  • 朱延寿は楊行密の妻の弟であったが、行密から軽侮されて怨みを抱き、ひそかに田頵と結んでいた。
  • 田頵は進士杜荀鶴を寿州へ送って朱延寿と結ばせ、さらに大梁にも連絡した。朱全忠はこれを喜び、宿州に兵を置いて対応した。
  • 杜荀鶴は池州の人であった。

九月:楊師厚の勝利

  • 楊師厚は臨朐に輜重を残して密州へ向かうと見せかけた。
  • 九月癸卯、王師範が臨朐を攻めると、楊師厚は伏兵で大破し、一万余を殺し、王師範の弟師克を捕えた。
  • 翌日、莱州兵五千が青州救援に来たが、楊師厚はこれもほぼ殲滅し、そのまま陣を青州城下へ移した。

楊行密による朱延寿誅殺

  • 朱延寿の謀は次第に漏れ始めた。
  • 楊行密は目の病を装い、使者に対して視覚が混乱しているように振る舞い、妻に対して「自分は失明した、子らは幼いので軍府のことは三舅の朱延寿に任せるしかない」と言った。妻はそのたびに手紙で弟に伝えた。
  • 楊行密は自らも朱延寿を呼び寄せ、ひそかに徐温に備えさせた。朱延寿が広陵に着くと、寝門で捕えて殺した。
  • 延寿の部兵は動揺したが、徐温が諭すと服従した。楊行密は延寿兄弟を斬り、朱夫人も退けた。
  • 延寿の妻王氏は、毎日使者を寄こすよう夫に求めており、使者が絶えると変事を悟って家人に武器を授け、宝貨を集めて館に火を放ち、自らも焼死した。
  • 朱延寿は少兵で多勢を破るのを好む将であったが、命令違反に厳しく、二百人で汴兵と戦わせたときも、留守役の兵が参戦を願い出ると違命として即斬した。

李神福、田頵軍を破る

  • 田頵は昇州を襲って李神福の妻子を捕えたが、手厚く遇した。使者を送って帰順を誘ったものの、李神福は、田頵は老母を顧みず反逆し、君臣・父子・夫婦の大義もわからぬ者だと非難し、使者を斬って進軍した。
  • 丁未、吉陽磯で王壇・汪建の水軍と遭遇すると、敵は李神福の子を見せて揺さぶったが、李神福はかえって射させた。
  • 李神福は夕暮れの戦いで偽敗して上流へ退き、追ってきた敵を今度は順流に乗って反撃し、火炬を目標に攻めさせた。敵は灯を消したが旗幟が乱れ、風を利用した火攻めで大敗した。
  • 戊申、皖口でも再戦して王壇・汪建を破り、徐綰を捕えた。楊行密はこれを檻車で銭鏐に送り、銭鏐は高渭への報復として心を裂いて祭った。
  • 田頵は自ら水軍を率いて対抗したが、李神福は固く江辺に陣して戦わず、歩兵で帰路を断つよう楊行密に求めた。
  • 楊行密は台濛を派遣し、さらに潤州攻囲中の王茂章も呼び戻してこれに合わせた。

汴軍の進展と王師範降伏

  • 辛亥、汴将劉重霸が棣州を落とし、刺史邵播を殺した。
  • 甲寅、朱全忠は洛陽へ向かったが病となって大梁へ戻った。
  • 戊午、王師範は副使李嗣業と弟師悦を楊師厚のもとへ送り、降伏を願った。兵を挙げたのは韓全誨・李茂貞が朱筆御札で命じたためで、自分の本意ではないと弁明し、弟師魯を人質に出すと申し出た。
  • 朱全忠は、李茂貞と楊崇本が京畿を脅かし、再び天子を西へ劫持することを恐れていたため、天子を洛陽へ移す計画を優先し、王師範の降伏を受け入れた。
  • 登州・莱州・淄州・棣州などに諸将を配して守らせ、王師範にはひとまず淄青留後を委ねた。これは将来の処分を保留した形であった。
  • 王師範はまた、先に兗州を守らせた劉鄩も勝手にやったことではないので罪を許してほしいと申し添え、使者を送って知らせた。

台濛、田頵を追い詰める

  • 田頵は台濛が来ると、自ら歩騎を率いて迎撃し、郭行悰に精兵二万と王壇・汪建の水軍を蕪湖に置いて李神福を防がせた。
  • 斥候は、台濛の営は小さく二千人ほどしか入らぬと報告し、田頵は侮った。
  • しかし台濛は分進法で慎重に進み、「田頵は老練で多謀だから備えを欠けない」と語った。
  • 冬十月戊辰、広徳で会戦すると、台濛はまず楊行密の書を田頵配下の将に配り、彼らはみな下馬して受け取った。士気がくじけたところを突いて攻め、田頵軍は敗れた。
  • さらに黄池でも台濛は偽敗して誘い、伏兵で大破した。田頵は宣州へ逃げ込んだが、台濛が包囲すると蕪湖の兵は帰還しても入城できず、郭行悰・王壇・汪建や各地の守兵は相次いで降伏した。
  • 楊行密は、台濛だけで田頵を制せると判断し、王茂章を再び潤州攻めへ戻した。

王建の峡江進出

  • 夔州刺史侯矩は、成汭に従って鄂州救援に出たが、成汭の死後に帰途につき、ちょうど王宗本軍が来ると夔州を挙げて降った。
  • 王宗本は夔・忠・万・施の四州を平定し、王建は侯矩を改名させて王宗矩とし、再び夔州刺史に任じた。
  • 蜀では瞿唐が天然の要害であるとして、帰州・峡州を放棄し夔州に軍を集中した。以後、荊南は荊州・帰州・峡州の三州だけとなった。
  • 王建は王宗本を武泰留後にしたが、黔州は瘴気が強いとして、治所を涪州へ移すことを許した。

劉鄩の兗州籠城

  • 葛従周が兗州を猛攻すると、劉鄩は葛従周の母を板輿に乗せて城上に出し、「劉将軍は私に実子同然に仕えている。みなそれぞれ主君のために戦うのだ」と語らせた。葛従周は涙して攻勢を緩めた。
  • 劉鄩は婦人や老人・病人で戦えない者を外へ出し、若者とだけ苦楽をともにし、衣食を分け合って守りを固めた。号令は厳正で、兵が民を乱暴に扱うこともなく、民は安心して暮らした。
  • しばらくして節度副使王彦温が城を越えて降伏し、多くの兵が従おうとしたが、劉鄩は「もともと遣わしていた者以外は多く同行させるな」と彦温に伝え、さらに「副使について出るよう最初から命じられていない者が勝手に出れば一族皆殺し」と城上に布告した。
  • 敵は王彦温を怪しんで城下で斬り、かえって城内の結束はいっそう強まった。
  • 王師範の勢いが尽きると、葛従周は降伏を勧めたが、劉鄩は主命もなく敵前降伏は臣下の道に反すると拒んだ。師範の正式な命が届いてようやく、丁丑に城を出て降った。

劉鄩の厚遇

  • 葛従周は劉鄩の旅装を整え、大梁へ送った。
  • 劉鄩は、梁王が許しを与えていない以上、降将が馬に乗り裘を着るのは不当として、素服で驢馬に乗って赴いた。
  • 朱全忠は冠帯を与え、慰労して酒を勧めた。劉鄩が「酒量が小さい」と辞すると、朱全忠は「兗州を取るほどの器量で何が少ないのか」と笑い、元従都押牙に任じた。
  • 四鎮の将吏はみな旧功臣だったが、降将の劉鄩が突然その上位に置かれても、彼は軍礼を受けて平然としていた。朱全忠はいよいよその才を奇とした。やがて保大留後に取り立てられた。

朱友倫の死と荊南の帰属

  • 葛従周が病み、朱全忠は康懐英を泰寧節度使として代えた。
  • 宿衛都指揮使の朱友倫は客と撃毬中に落馬して死んだ。朱全忠は崔胤が故意に仕組んだのではと疑い、同席していた十余人を皆殺しにし、兄の子朱友諒に宿衛を引き継がせた。
  • 山南東道節度使趙匡凝は兵を出して荊南を襲い、朗州の兵は城を棄てて走った。趙匡凝は弟匡明を荊南留後に推挙した。
  • 当時、諸道の多くは朝廷への上供を怠っていたが、趙匡明兄弟だけは絶えず貢納していた。

銭鏐の援軍と朱全忠の警戒

  • 楊行密が銭鏐に援軍を求めると、銭鏐は方永珍を潤州へ、従弟の銭鎰を宣州へ送り、さらに楊習に睦州攻撃を命じた。
  • 鳳翔と邠州がしばしば京畿に兵を出したため、朱全忠は再度の劫遷を疑い、十一月、騎兵を河中へ進めた。

十一月:田頵の最期

  • 十一月乙亥、田頵は死士数百を率いて出戦した。台濛はわざと退いて弱さを見せ、田頵軍が濠を越えて迫ると急襲した。田頵は敗れて逃げたが、城門前の橋が落ちて落馬し、斬られた。配下はなお戦ったが、その首を示されると総崩れになり、宣州は陥落した。
  • 田頵は楊行密と同郷で、若いころは親しく義兄弟の契りを結んでいた。首が広陵に届くと、楊行密は見て泣き、その母殷氏を赦し、自分も子らも家族の礼をもって遇した。
  • 楊行密は李神福を寧国節度使にしようとしたが、神福は杜洪が未平定であるとして固辞した。
  • 宣州長史駱知祥は財政に長け、観察牙推沈文昌は文章にすぐれ、かつては田頵のために楊行密を罵る檄文も書いていたが、楊行密は知祥を支計官、文昌を牙推に用いた。
  • 田頵は戦で負けるたびに人質の銭伝瓘を殺そうとしたが、その母と宣州都虞候郭師従が守っていた。田頵が敗れると銭伝瓘は杭州へ帰り、郭師従は銭鏐に取り立てられた。

宰相交代と張濬の死

  • 辛巳、独孤損が宰相となった。裴贄は左僕射へ退いた。
  • 左僕射を辞した張濬は長水に住んでいたが、王師範の挙兵に関与していた。朱全忠は、将来の簒奪に際して張濬が諸藩を煽ることを恐れ、張全義にほのめかして殺害させた。丙申、楊麟が盗賊を装ってその別荘を囲み、張濬を殺した。
  • 永寧県の吏葉彦は張濬に恩を受けており、子の張格に密告して逃がした。張濬は「留まれば共に死ぬ、去れば家の血筋を残せる」と言い、葉彦が義士三十人で漢水を渡るまで護送した。張格は荊南から蜀へ入り、命を保った。

劉仁恭と契丹

  • 劉仁恭は契丹の虚実を熟知し、秋ごとに精兵を率いて摘星嶺を越え、先制攻撃を加えていた。
  • さらに霜が降りるたび、塞下の野草を焼かせたため、契丹の馬は飢え死にした。契丹は良馬を贈って放牧地を買わねばならなかった。
  • 契丹王阿保機は妻の兄阿鉢に一万騎を与えて渝関に侵攻させた。劉仁恭の子守光は平州で和睦を装って城外に幕を張り、酒宴の最中に伏兵で阿鉢を捕えた。
  • 契丹は重い贖いを払ってようやく取り戻した。阿保機の名がここで史上に明瞭に現れる。

崔胤と朱全忠の対立深まる

  • もともと崔胤は、宦官を除くために朱全忠の兵力を借りただけだった。ところが朱全忠は李茂貞を破って関中を呑み込み、天下を震わせると、簒奪の志を抱くようになった。
  • 崔胤は恐れ、表向きは親しくしつつも内心では離れ始めた。そして「長安は李茂貞に近く、防備を強める必要がある」と称して六軍・十二衛の再建を進めた。
  • 朱全忠はその意図を知って表面上は従いながら、配下の勇士を応募させて内情を探らせた。崔胤はそれに気づかず、鄭元規らと武器の修繕・製作を昼夜続けた。